9:切り開く剣
「どうして、ですか?」
言いながら、エルナは白装束の女性とミーティアの間に割り込んだ。彼女が言った、ミーティアを殺しに来たという言葉はエルナからあらゆる感覚を――疲労さえも――奪うほどに衝撃的だった。
白装束の女性は無言で剣を構えた。細く鋭い剣、レイピアの先端をエルナに向け、腕をまっすぐに伸ばす。レイピアは武器としては使い勝手が良くない。刀身が他の類の剣と比較して異常なほど細く、下手な使い方では曲がったり折れたりしてしまう。
ただし、それ故に片手で地面と水平に構えやすく、武器や腕の長さ、リーチを錯覚させやすい。上下左右の動きを極力排し、前後の動きで戦うために無駄な動きがなく洗練された剣術となる。腕力さえあれば扱いやすい大剣とは違い、使い手の力量が限定される。つまり、白装束の女性はかなりの手練である。
惑星カリダで対峙した時もそうだった。天が傍にいたにも関わらず、エルナはこの女性の威圧感で身動き一つできなかったのだ。あの時と違うのは、今この場でミーティアを守るために動けるのがエルナだけであるという事実。
剣を握り、青眼に構える。いつもは軽い刃も、疲労のせいで重たく感じられた。全身に魔人との戦いでの痛みがまだ残っているが、それは幸いなことだ。この痛みがなければ、恐怖から来る震えは止まらなかっただろうから。
直後、鋭い刺突の一撃が飛んできた。咄嗟に剣を横にして、大きな腹で弾く。軽い武器の一撃だけでも、衝撃は重たい。
「く、あ……ッ」
飛来する無数の斬撃が剣の脇を抜けてエルナの白い肌に細く赤い筋をいくつも描き、時に剣を叩いて威圧する金属音を発しながら攻め立てる。エルナは歯を食いしばった。ここで剣を手放し、倒れてしまうわけにはいかない。
どれだけ傷ついたとしても、ここを退いたりはしない。この剣で、誰かを守る。それはエルナが目標にしてきたことの一つだ。それを為すのだと思うと、体の奥底に眠っている力が湧きあがってくる気がした。
剣を託してくれた人が、この剣で為してほしかったこと。それはきっとこういうことなのだ。幼馴染を、仲間を、ミーティアを、守る。剣に刻まれた名前が力を貸してくれる。
クレレと約束したこと。必ず、自分達でミーティアを助けると。クレレの探査でこの場所がわかって、今度は自分が動くべき時。いつまでも震えてなどいられない。
そして何より、自分がしたいと思ったこと。この場でミーティアを守る理由は、この三つだ。それがある限り、倒れたりなどするものか。
レイピアは攻撃のインターバルがほとんどなく、エルナの動きを封じるように続いている。諦めを誘うように、切り込みは深くない。そこが狙い目だ。剣を叩く固い感覚の間隔を測る。
「何ッ!?」
レイピアの先端が大剣の腹にぶつかる瞬間。そのタイミングを、剣をそのまま突き出すことによってずらし、相手をよろめかせる。エルナの目論見は十中八九成功した。そのまま振り上げ、まっすぐ振り下ろす。いかに強化術式を使っていようとも、武器の重量の差は大きい。細いレイピアでこの一撃を受け止めようとは思わないだろう。
その直後、エルナは冷たい鋼の床を転がっていた。エルナの目論見は、十中八九しか成功しなかったのだ。相手が振り下ろす一撃を受け止めようとしなかったところまでは良かった。だが、それはすなわち相手が後方へ下がり、間合いを取ることと同一ではない。
カラン、と小さな鋼が床を叩く音がした。エルナの傍に細い鎖のつながった小さな首飾りが転がった。エルナがレイピアを弾いてからの一連の流れで、あの女性が落としたものだろう。女性は振り抜いた足を下ろした。武器を弾かれて上半身がよろめいても、鋭い蹴りが残されていたのだ。本来、足を大きく動かす蹴りは戦いにおいて使う機会は少ない。片足を持ち上げた状態では容易にバランスを崩されてしまうからだ。だが、今回に限ってはその心配は全くなかった。エルナは重量のある剣を振り上げていたから、相手の足を狙ってバランスを崩す余裕がなかったのだ。
倒れたエルナを一瞥して、白装束の女性はミーティアに向かって歩く。剣を握って立ちあがっても、もう届かない。鋭い刃がミーティアの心臓めがけて放たれる前に、エルナができたのはそこに落ちていたロケットを投げつけることだけだった。
―――◆―――
聖なる傷。それは『スティグマ』との魔術的つながりの証だ。
どういった基準で選ばれるのか不明だが、手足、脇腹、額の傷や、背中に十字の傷を持つ者が『スティグマ』と魔術的につながってしまう。
そうして古代のインテリジェンス・ウェポンとつながった者は魔力を吸い上げられ、身体的に衰弱してしまう。
そしてそれは、『スティグマ』の所有者に限ったことではない。傷を持つ者全てが『スティグマ』とつながってしまう可能性を持っており、そうなってしまったという事実は当人と周囲の人物以外には知られない。
知られないのは、連邦が情報を徹底して封鎖しているからだ。その情報の封鎖に、フォルラムルら連邦騎士団も奔走している。彼女の今回の任務の一つはそれでもあった。
ヘルテイト・バーレイグという男が『スティグマ』の情報を持っていると言うことはすでに連邦騎士団に知れていた。故に、『スティグマ』を管理下に置きたい連邦政府は連邦騎士団を動かさざるを得なかった。
だが、派手に動くわけにもいかなかった。連邦最強の武装集団を大きく動かしてしまえば、何か重大な事件なのだと勘繰られてしまう。出先が辺境の第四区画となれば尚更だ。『スティグマ』の情報を絶対に洩らしたくない政府にとってそれはこれ以上ない不都合となる。結果として、フォルラムルが一人でこの第四区画に来ることになった。
その任務に関連して、フォルラムルにはもう一つの任務が与えられていた。インテリジェンス・ウェポン『スティグマ』の抹殺だ。『スティグマ』はインテリジェンス・ウェポンの中でも最も危険なものだと言われている。聖なる傷の持ち主全員から魔力を搾り取り、安定した供給が得られなくなると次の持ち主に乗り移ろうとする。『スティグマ』自身の持つ知性を見せることで、継承の儀式を行わせるのだ。
インテリジェンス・ウェポンを欲しがる者は多いから、継承の儀式を行う人間は簡単に見つけることができる。長期間、継承の儀式を行うことができないでいる場合、『スティグマ』が暴走を開始する。所有者を食い殺して辺り構わず破壊系の魔術を放つ。現代ルーンのように安全性を考慮した制約が存在しない古代ルーンによる術式なので、その被害は甚大なものになると予想されている。
その『スティグマ』の暴走を止める方法は、現在判明しているだけでただ一つ。所持者、ミーティア・エンシスハイムの殺害だ。
魔力供給の根っこである所持者を失えば『スティグマ』のシステムは強制終了され、暴走は止まる。『スティグマ』そのものに搭載された自己逃走機能も、誰かが再び『スティグマ』を起動するまでは無効になる。『スティグマ』と魔術的つながりを持つ全ての人間の死を以って。
『スティグマ』とつながった少数の者を殺せば、他の多数の人間が助かる。大義を為すべき連邦騎士団にとって、とるべき行動は選ぶまでもない。フォルラムルは障害となりうる少年を蹴って退かした後、レイピアを引いて構えた。
ミーティア・エンシスハイムは十字架に張り付けられていて、この刃を避けることなどできないだろう。銀雷の一撃として多くの敵を屠ってきた最強の刺突が、『スティグマ』の所持者である少女の心臓に向かう。
この決断が辛くなかったかと言われれば、そんなはずはない。この刃がいくつもの命を奪うのだ。いくつもの可能性を摘み取るのだ。いくつもの未来を閉ざすのだ。それだけの罪を背負って、自分も逝くのだ。
鋭く尖ったレイピアの先端が、肉を貫く前に止まった。
「く……」
止まってしまった。止めてしまった。雷のごとく全てを貫く銀の閃きを止められるのは、それを放った自分自身をおいて他にはいない。
迷いなどとうに断ち切ったはずだった。だから、一撃で全てを終わらせるために心臓を狙ったというのに。それなのに、フォルラムルは刃を止めてしまった。
全ては視界に飛び込んできた首飾りと、そのロケットの中の写真にいた三人の笑顔。三人の中で誰よりも眩しく笑う、一番下の妹、セーレイズ。その笑顔が、フォルラムルの刃を止めさせた。
セーレイズは第四区画の病院にいる。一日の大半を眠って過ごさなければならないほど、その症状は重たい。彼女の面倒をベズヴィルドに押しつけてしまう形になったのは、連邦騎士団として頻繁に辺境に赴くと周囲の混乱を招きかねないからである。
ベズヴィルドが動けない今、セーレイズにとって頼れる人間はフォルラムルしかいない。『スティグマ』を抹殺するという任務、ミーティア・エンシスハイムの殺害を遂行してしまえば、そのフォルラムルの命も失われる。セーレイズは、完全に孤独になってしまう。
命を奪うことも、命を捨てることも、とうに覚悟を決めたはずなのに。セーレイズが孤独の中で死を待つ時間を作り出してしまうことが、耐えられない。一度鈍った決意はあっという間に砕けてしまう。そうしてはいけないのに、連邦騎士団の任務を全うしなければならないのに、刃を握った手を下ろしてしまう。
ゆらゆらと、力のない足取りで落ちている首飾りを拾いに行く。先ほど少年を助けた時か、蹴飛ばした時に外れてしまったのだろう。首飾りのロケットの中で笑う三人の顔が、滲んだ。この思い出があったから、ベズヴィルドとセーレイズの二人が生きていてくれたから、死を覚悟できたのに。今また、ここでその思い出に足を引っ張られて、決意を鈍らせている。
手を伸ばしてそれを拾おうとした時、激しい衝撃でフォルラムルは床を転がることになった。
―――◆―――
エルナは目を疑った。半ばやけくそで投げたロケットのおかげかは知らないが白装束の女性の刃がミーティアを貫く寸前で止まり、その女性が何かに吹き飛ばされて床を転がったからだ。
ゴトリ、と何かが固い床を叩く鈍い音がした。先ほどの魔人の腕を思い出させるような物体だった。ところどころが黒く変色しているが元は肌色だったらしいことがまだうかがえる、関節を持った楕円筒に近い形状のモノ。つまるところ、腕。形こそ人のそれに近いが、大きさはまるで人外だ。だって、あのてのひらはエルナの体を簡単に握りつぶしてしまえるくらい大きい。
その正体を確認した瞬間に、腕がエルナに迫る。フォルラムルと同じように、吹き飛ばされてしまえばタダでは済まないだろう。体が小さい上に、体力を消耗しているエルナであれば尚更だ。直撃を覚悟して目を閉じるが、直後にエルナは自分の足が浮いたのを感じた。
「危機一髪だね」
目の前にいつもの笑みを浮かべるノクスの顔があった。かなり近い。エルナはその端正なつくりに半ば見とれてしまっていたが、次のノクスの一言で状況を客観的に見つめなおすことができた。
「ちょっと想定外だから、カメラは遠慮してね」
「えー! イケメンがショタをお姫様抱っこなんて図はなかなか撮れないんですよ!」
どうやらノクス以外に誰かいるらしい。声は高めだから女性だろうか。いや、その理屈でいくとエルナも女の子と間違われるから、ひょっとすると同類なのかもしれない。エルナが男だとしっかり見抜いてくれたようだし。お姫様抱っこ状態から下ろしてもらってから、後ろを見てその声の主を確認した。
縁のないメガネの奥で爛々と輝くのは子供の純真さ、好奇心を捨てていない瞳。華奢な手には似合わない大きなカメラが握られていて、白く透き通るような首から黒く細長いベルトでつながれている。フォーカス用の大きなレンズが付いていることから、写真に関係のある仕事をしている人物のようだった。
ノクスにも劣らないほどの整った顔立ちだが、その女性からにじみ出るある種の欲望が二人の雰囲気を正反対に分かつ。半そでの白いブラウスと膝まで隠れる黒いスカートのその女性は、闊達な笑みを浮かべて名乗った。
「私はスペースタイムズの龍見 マヤと言います。以後お見知りおきを!」
冗談のつもりなのかそれとも彼女なりのあいさつなのか、右手で敬礼をしている。ノクスのように制服と呼べるほど形式ばった服装でないためか、友人と話しているような気楽さを感じさせた。色々と突然すぎて状況が把握できていないエルナは、曖昧に「はぁ」と答えることしかできなかった。
スペースタイムズと言えば、宇宙で最も広く読まれている新聞雑誌のことだ。情報の速さと正確さに定評のある、信頼できる新聞として有名である。見たところ、このマヤという女性はその記者をしているらしい。情報に貪欲な姿勢と知ることへの欲望が、彼女の純粋で深い好奇心を露わにした眼光の原因だろう。
「さーて、これは一大スクープですよー!」
そう言ってカメラを構えてフォーカスを合わせ始めたマヤの視界を、ノクスが遮った。
「確かに君には記事のネタを提供すると言ったけれど、これは見逃してくれないかな。彼女の命がかかってるんだ」
「む、むう……。仕方ありませんね」
覗き込んでいたカメラを下ろして、マヤはため息をついた。エルナは二人の視線の先を見た。先ほど襲いかかってきた巨大な腕の持ち主が、そこに立っていた。人の形をしているが、明らかに人ではない大きさの腕を持つその人物は、エルナもよく知っている相手だ。
「ミーティア……」
右の肩から先が異常なまでに膨張して、巨大な血管の浮き出るグロテスクな腕になってしまっているが、それ以外は顔も形もミーティア・エンシスハイムそのものだった。
だが、エルナの知るミーティアとは少し違うような気もした。快活な彼女らしさはどこへやら、うつむいた顔をゆっくり上げた時、エルナはその悲愴な瞳に息を飲んだ。ドームの冷たい空気を震わすかすかな音とともに、ミーティアの唇が小さく動いた。
「見ないで」
人の姿を保っている左手で顔を押さえて、ミーティアはもう一度言った。
「見ないでよ……!」
涙で震えた悲痛な声が、彼女がまだミーティアであることを証明していた。
何が理由でああなってしまったのかわからない。ただそこにあるのは、ミーティアの腕が人のモノではなくなってしまったという事実だけだ。
「『スティグマ』の暴走か。こんなに早く来るとはね」
「どういう、ことですか?」
『スティグマ』はミーティアの魔力を喰らっていた。休むことである程度回復するとは言え、『スティグマ』の捕食量が回復量を上回ってしまえば、いつかはミーティアの魔力は枯渇する。
喰らうべき魔力が不足することによって、『スティグマ』が制御を失って暴走する、と言うのだ。
「インテリジェンス・ウェポンの中で最悪と言われた能力があの程度のはずはないから、彼女が必死で抑え込んでるんだろう」
そう淡々と付け加えて、ノクスは視線をミーティアからエルナに移した。鋭い眼光にまっすぐ貫かれて、エルナは背筋が伸びるような気がした。
「君は、どうしたい?」
どうすべきだと思うか、ではなく、どうしたいか。ノクスの問いは今の状況が決して良いものではないと物語っていた。
今どうすべきか、という答えがノクスの中に存在しないか、あるいは存在するにしてもそれが最後の手段であるかのどちらかなのだ。ノクスの左手に握られた弓が、最後の手段の残酷な輝きを帯びていた。
エルナは迷わずに手を差し出した。ノクスの右手から、名前の刻まれた大剣を受け取った。守るための刃、未来を切り開くための剣を、ミーティアに向かって構えた。それがノクスの問いに対する、エルナの答えだ。
構えを崩さずに一歩一歩、距離を詰めていく。
「来ないで!」
今、ミーティアの右腕は人のそれではない。異常なまでに膨張したその腕の力は、先ほど吹き飛ばした白装束の女性がいまだに目覚めないことが証明している。不意打ちとはいえあれほどの使い手を一撃で気絶させる力に、消耗したエルナが真っ向からぶつかったところで勝ち目はない。
しかし、エルナがミーティアの鋭い拒絶を受け入れることはなかった。その叫びを合図に、剣を脇に構えて駆け出した。全てを破壊する剛腕が横薙ぎに迫ってくる。このまま走れば直撃コースだ。それでもエルナは止まらない。
走りながら勢いを利用して思い切り大剣を振り抜く。右から左へ。エルナは悟った。剣に刻まれたあの人が為して欲しかったのは、こういうことなんだと。守りたい者の為に剣を振るい、戦う。そうすることの意味を考えるより、そうしたいと思い、行動することが大切なのだと。
成功するかどうかはわからない。確率は良く見積もって五分。迷いを捨てた刃は風を切り裂き、道を切り開くべく弧を描く。エルナは怪物の腕に正面から挑むように大剣の腹を叩きつけ、そして、柄から手を離した。
重たい大剣が回転しながら宙を舞う。それが鋼の床に突き刺さるまでの短い時間の出来事だった。刃を弾き飛ばした腕をくぐり抜け、エルナはその手を伸ばして、つかみたかった未来を、ミーティアの肩をつかむ。
「な、んで……」
息が上がっていて、エルナは涙と困惑で震える声に答えることができなかった。だから、せめて少女を抱きしめる腕に力を入れて、応えた。
自らに近づく者を全て排除しようとしていた腕は、しかし密着したエルナをとらえることができない。
「大振りな武器は、間合いを詰められると、使い物にならないんだ」
息をなんとか整えて、エルナは笑ってみせた。手も足も震えて仕方がないけれど、心の底から笑った。
「やめてよ……私に笑いかけないで。そんなことされたら、わかんなくなっちゃうよ……!」
首を横に振って、けれどその声の感情に頑なな拒絶の色はない。あるのは大きくなった不安と迷いに潰されそうになっているか弱い少女の心だ。
「わかんなくて、いいよ」
肩を優しくつかんで、エルナはまっすぐにミーティアの目を見た。お気楽に笑っていた頃とは違う。迷いと悲しみの涙が頬を濡らして、まぶたも赤く腫れていた。
「わかんなくても、いい。一緒に考えようよ。何も言わずにいなくなってそれきりだなんて、寂しいよ」
ジワリと、ミーティアの目から新しい涙が溢れてきた。大粒の雫が落ちて、エルナの制服を濡らした。少女はかすれた声で、けれど確かにエルナの名前を呼んだ。
エルナはその声を聞いて、ようやく安堵した。ミーティアは「見ないで」と言ったから、醜くなってしまった自分を見られたくなかったのだろう。もうドレッドノートのメンバーとは一緒にいられないと思っていたのだ。何も言わずに孤独の殻に閉じこもって、一人で朽ちるつもりだったのかもしれない。悲愴な瞳からは、その覚悟が伝わってきた。
だから、そんなものはわからなくても良いと伝えるために、エルナは剣を振るった。ミーティアを傷つけるためではなく、守るために。腕が一本大きくなったからと言っても、ミーティアを嫌いになったりしないと、悩みがあるなら一緒に悩もうと、そう言える頼もしい仲間がいることを、伝えるために。そのために剣を囮にしてミーティアに近づいて、抱きしめた。
成功するかどうかはわからなかった。少しでもタイミングを間違えばあの腕に吹き飛ばされて死んでいたかもしれないし、ミーティアが心を許してくれるかどうかもわからなかった。大きな賭けだったが、ノクスが取ろうとしていた最悪の場合の手段よりはずっと良い。
ミーティアの右腕が、膨張する前の、元の人間のそれへ戻っていく。ミーティアの意思によって『スティグマ』の暴走を抑えていたなら、それを後押しすれば腕は元通りになるのではないかと考えたのだが、その通りだった。
とにかく、これでミーティアは無事に連れ戻すことができそうだ。安心した途端に、全身から力が抜けた。今までも立っていられるのが不思議なくらいに震えていたから、仕方がないかもしれない。
抱きしめたミーティアの重みもあって、エルナはそのまま真後ろに倒れた。
「いたっ」
やっぱり、固い床に頭をぶつけた。痛かったけれど、同時に心地よい疲労がまぶたを閉じようとした。
閉ざされる視界の中で、泣いていた少女が笑いかけてくれた気がした。
―――◆―――
乾いた破裂音の直後、紅い瞳と鋼の口が視界から消えて、真っ白になった。
背中から落ちていく感覚。ゆっくりと、けれど確実に加速しながら、意識も闇へ落ちていく。
心臓が圧迫されるような独特の感覚は、長くは続かなかった。
何故。そう頭の中で繰り返しても、答えは出ない。今わかっているのは、自分を引き取ってくれた相手に銃を向けられて、その銃が発射されたということだけ。
ぐらぐらと、体を揺さぶられる。誰かがため息を吐く音が聞こえた。
「クレレ、良い夢を見ようと思うなら、もう少し起きていたほうが幸せになれますよ」
頭の上から降ってきたその声に、強く閉じていた目を恐る恐る開ける。
「……あれ?」
玲菜に発砲されて、後ろに倒れたところまでは記憶の通り。しかし、クレレに銃弾が命中したような外傷は全くないし、そもそも先ほどの緩やかな頭痛以外の痛みさえない。
声が降ってきたほうを見上げると、千香がいつもの澄まし顔をしていた。後ろに倒れたクレレを千香が受け止める形になっていた。前方、ガンタイプのLPを構えていたはずの玲菜が、クレレに向かって手を差し伸べていた。相変わらず瞳は紅いが、表情はクレレのよく知る――大好きな――優しい笑顔だ。
真顔で謝られて銃を向けられ、発砲されたと思ったらこの状況。クレレには何がどうしてこうなったのかさっぱりわけがわからなかった。
よくわからないまま玲菜の手を掴んで、立ち上がる。立ちくらみで今度は前に倒れてしまいそうになるが、玲菜がしっかりと受け止めてくれた。そのはずみで床を見て、クレレはそこにピンポン玉程度の大きさの球体の残骸が転がっていることに気がついた。
「追尾眼、ですか?」
ベッドから少し乗り出して、千香が言った。彼女の言う通り、それは監視用LP――追尾眼――の残骸だった。
「ごめんね。もっと早く撃ち落としてあげたかったんだけど」
玲菜の説明によると、その追尾眼はカリダの遺跡から戻ってきた段階ですでにクレレにくっついていたらしい。船内及び船員の動向を何者かが監視しているという状況に最初に気付いたのは天だった。だが、監視されている状況下でそれを伝えようとすれば、監視者側に気付かれる恐れがある。監視者側を出し抜くために議事堂城下町の防衛任務に出て、そこで玲菜に、クレレに追尾眼がとりついていることを伝えたのだ。
ちなみに、クレレが頭痛に悩まされていた原因もこの追尾眼だ。クレレにとりついて魔力を強引に吸い出して幻覚術式を展開し、迷彩性を確保していたのだ。幻覚術式をここまで高度に編み込める者は限られる。千香を襲った犯人が幻覚術式を使ったという情報を得て、追尾眼の持ち主もその人物なのだとわかった。
それからノクスがある筋から情報を得て、犯人とその居場所を特定。その後はクレレも知っての通り、三人でディグラルディの屋敷へ行って天がヘルテイトに重傷を負わせた。
その説明が終わる前に、クレレは玲菜に抱きついて泣いていた。
「良かった……良かった……! みんなが玲菜さんを疑って、わたしも最後の最後で信じ切れなくて、それで、怖くて、不安で……!」
胸につかえていた不安を、心を押しつぶすような恐怖を全て吐き出すように、震えながらもかすれながらも、クレレは自分の中にあった感情を音にして発した。もう何も心配することはない。それを確かめるように、玲菜の胸の中で泣いた。玲菜はただ黙って頭を撫でてくれた。
しばらくそんな状態が続いて、
「あー、もしもし? 感動的なお話の最中申し訳ないんですが」
ちっとも申し訳なくなさそうな声が玲菜の後ろ、医務室の入り口から飛んできた。クレレにとっても聞き覚えのある声だった。今までも何度か、玲菜と話しているのを聞いたことがあるからだ。
これ以上玲菜を独占していてはいけない。クレレが自分はもう大丈夫だということを頷いて伝えると、玲菜は訪問者に向きなおった。
「お久しぶりね、マヤちゃん」
半そでの白いブラウスと膝まで隠れる黒いスカート、肩まで伸びた黒髪はクセがついているものの、汚らしさを感じさせない。玲菜が振り返った瞬間に、マヤがカメラを構えて、白い閃光が医務室を満たした。
「む、なかなかやりますね……」
「あなたの考えそうなことくらいわかるわよ。撮れたにしても、使うのはあなたの主義に反するのではなくて?」
玲菜の手がカメラのフォーカス部分を鷲掴みにしてレンズを塞いでいた。
「それもそうですね。玲菜さんがバーレイグだなんて驚きすぎてつい反射的にフラッシュ炊いちゃいましたけど」
「そんなことより、あなたの後ろで足止め喰らってるうちのカワイイ研修生を通してあげてくれないかしら」
マヤが退いて、医務室に入ってきた人物を見て、クレレは胸が詰まるかと思った。疲労しながらも、ミーティアを背負ってきた少年はクレレの視線に気付いて、笑いかけてくれた。弱々しくて、けれど頼もしい笑顔だ。
ミーティアをベッドに寝かせて、エルナ本人もあいているベッドに倒れ込んだ。
「ノっ君、余裕があるんだったら二人とも担いで上げればよかったのに」
「王子様の役目を奪っちゃいけないだろう?」
ノクスもエルナ達の後ろからいつもの調子で出てきた。クレレが心配しているほど玲菜に対して敵対心がないどころか、これまでと全く変わらない様子だ。安心を通り越して、クレレは気が抜けてしまった。
マヤの目の奥には純粋すぎて恐ろしいくらいの欲望がある。ただ一つのものを純粋に追い求める、子供のような頑固さと残酷さを秘めた何かが。早く目的のものを手に入れたい、という彼女の気持ちが、その目を見ただけでもすぐにわかった。
「玲菜さん? そろそろ約束のスクープを頂けると嬉しいんですが」
「そう焦らないの。天ちゃんなら今面会謝絶だから独占性は保証されてるわ」
クレレの肩が跳ねた。後ろにいた千香に気付かれはしなかっただろうかと考えてしまって、また小さな自己嫌悪が生まれた。
天は今、病院にいるはずだ。あれほど深い傷では、治癒促進が効くかどうかもわからないし、効いたにしても完治までは相当長い時間がかかる。そもそも治るものなのかどうかもわからない。
「焦りもしますよー。こちとら一四隔壁抜けて来てんです。正規の一般ルートじゃあ最短でも一週間はかかるところを半日で跳んできたんですから、それなりの対価はいただかないと。ねぇ?」
そう言ってマヤが横目でノクスを見る。珍しくノクスが肩を落としていた。要するに、それなりの対価の一部をすでに搾り取られた後らしかった。
「……どのくらいとられたの?」
「お財布が悲鳴を上げてるよ。しばらくコーヒーがお預けになりそうなくらいにはね……」
玲菜の問いへの答え以上に、深いため息が彼の心情と懐の状況を物語っていた。
宇宙連邦領の四区画は互いに隔壁によって隔てられており、通行の際に必要に応じてその一部を開く。第一区画と他の区画を結ぶそれは特に頑丈で、第四区画とは行き来の機会がほとんど存在しないために、一四隔壁と言えば越えられない壁の代名詞にもなっている。
その一四隔壁を何らかの形で抜けるとすれば、隔壁を開くための手続きを踏むために時間がかかり、ひどい時には第二区画、第三区画を経由して一週間以上かけて第四区画に来たほうが早い場合もある。正規の一般ルートではないにしても、相応の対価を支払わなければ半日で第一区画からこの第四区画まで来ることはできない。
つまり、ノクスがうなだれているのは、その対価の一部を払わされたからなのだ。一部だけでも、今後しばらくコーヒーの購入を躊躇させるくらいには激しい金額だったのだろう。
すでにコーヒーが生活の一部になってしまっている彼にとって、これほど辛いことはない。だが、逆に言えばそれだけのことをしてでも龍見 マヤに頼らなければならなかったのだ。
「速くて正確な情報が必要だったからね」
情報の速さと正確さはスペースタイムズの売りの一つだ。それは、紙面上に限ったことではない。
第四区画にいるマヤの部下にディグラルディやヘルテイトの情報を調べさせることの対価として、マヤ自身にスクープを提供する、ということになったらしい。
それなら第四区画にいる部下にスクープを渡したほうが効率が良いとノクスも説明したのだが、マヤはそれで納得するような人物ではなかった。
「バーレイグ絡みの事件は偏見が多いですからね。私は真実のみを追い求めるのですよ」
スクープに対して貪欲な姿勢は少し恐ろしいが、クレレも情報に対して変な色眼鏡をかけないマヤの見方は正しいと思った。バーレイグは連邦に反逆して追放された過去を持つため、瞳が紅い、というだけでその人物を差別する風潮があった。玲菜が普段、カラーコンタクトをして目の色を隠していたのはそういう理由もある。
「とても良い心掛けね。それじゃあそろそろ行きましょうか。クレレちゃんと千香ちゃんも来る?」
「どこにですか?」
「天ちゃんのとこ」
千香はまだ、天が入院しているということを知らない。玲菜の口ぶりでは天がこの船の中にいないことはすぐにわかる。天は、あまり出歩かずに部屋の中で機械を弄っていることが多い。千香は怪訝そうな顔をしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
足の傷はほとんど塞がっているようだがまだ痛みはあるらしい。立ち上がる際に千香の表情に苦痛が見えた。しかし、松葉杖を使うかと聞かれても千香はそれを拒んだ。
クレレは肩に手を置かれて心臓が跳ねるかと思った。千香の表情は柔らかく、優しい。
「クレレが心配しているような事態には、なっていないと思いますよ」
声も手の温もりも、不安を鎮めてくれる。クレレも天の病室に行くことを決めた。玲菜のことだから、何かしらの考えがあるに違いない。天の傷もきっと良くなる。根拠はないが、優しい仲間に囲まれているとそう信じることができた。