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7:裏切りの気配

 エルナ達は開け放たれた大きな扉をくぐった。ディグラルディの別荘の中で、おそらく最も豪華絢爛な作りになっている部屋だ。煌びやかなシャンデリアと実用性を無視した高価な材質の暖炉など、目が痛くなりそうな部屋である。

 しかしそんなものよりも、エルナ達の目に入ってきたのは恐ろしい光景だった。元々、それが人であったのかどうかさえわからぬ肉塊が血にまみれて転がっている。黒いコートの男が丸いモノを踏みつけて、水分を含んだ何かがつぶされる不快な音がした。

「ヘルテイト……ッ!」

 忌々しげにその男を睨みつけるのは、長い銀髪の白装束を着た女性。エルナにとっては既視感のある光景。白い装束の脇腹を赤く染めている。レイピアを握ってはいるが、意識を保つだけで精一杯といったところだろう。

「新入り」

 エルナより先に来ていた天が低い声で言った。

「そいつとクーを連れてここから離れろ。俺はこいつに用がある」

 ヘルテイト・バーレイグと対峙する天の背中からは、その場にいるだけで足がすくんでしまうほどの怒気がにじみ出ている。エルナはそれに従う以外になかった。先ほどまでの天の戦いから、彼の実力が圧倒的に自分よりも上であることはわかっている。下手に手を出せば足手まといになってしまう。

 そして、ヘルテイトという男の威圧感もそれ以上に感じていた。紅い瞳が放つ独特の殺気は、その目に睨まれただけで全身の毛が逆立ってしまうほどの恐ろしさを持っている。

 こんな相手と向かい合うことになれば、秒を要さずに恐怖に押しつぶされてしまうだろう。ヘルテイトはそれほどまでに恐ろしい男だった。エルナにも、見ただけでそれがわかるくらいに。

 白装束の女性は何か言いたげだったが、脇腹の傷の深さがそれを許さないようだった。エルナは肩を貸して、部屋の外まで彼女を連れていった。天を止めるべきか迷ったが、今この場にいる者の中で、ヘルテイトを止められる者は天以外にいない。

 広い部屋の中央にいる天とヘルテイト。部屋の外に出れば、巻き込まれることはないだろう。白装束の女性を壁に寄り掛からせる形で座らせて、エルナは立ち上がった。

「クレレ。艦長達に連絡して、ここまで来てもらおう」

「は、はい……」

 クレレは震える手で連絡用の携帯端末を取り出した。ドレッドノートへの連絡は登録した番号を呼び出すために数キーの操作で済むのだが、思うように操作できない。恐怖が指を震えさせ、一つキーを間違うごとに焦りが震えを助長する。

「大丈夫。大丈夫だよ。だから、落ち着いて」

 そう言いながら、エルナは大剣から手が離せなかった。もし、天が敗れるようなことがあったら、あのヘルテイトとか言う男はこちらにやってくるだろう。そうなったとき、クレレを守れるのは自分だけ。天が敗れるような相手にどれだけの時間が稼げるかはわからないが、いつでも剣を振るえるようにしておかなければならない。てのひらに滲む汗が不快だった。

 唾を飲み込む音さえ聞こえるほどの静寂の中で、対峙する魔術師が動き出す。


―――◆―――


「何の用だ」

「妹が世話になったらしいな。その礼をしに来た」

 その二人以外の時が凍りついたような世界。広い部屋の中央、電気的な証明を散乱させるシャンデリアの真下で、ヘルテイト・バーレイグと白柳 天が対峙する。

 互いに忌々しげに睨みあって、LPを構える。紅眼の男は自在に変化するLPを剣の形状にして、対する白いシャツの青年は愛用の杖の駆動部に増幅回路を十個セットして。

 そこにあった椅子の傍に転がる血塗れの肉塊など、彼らの目に入ってはいない。怒りを以って挑む天に応えるように、ヘルテイトは剣を振り下ろした。ミドルレンジの間合いからでは刃は届かないが、刃にまとわせた魔術の炎は蛇のように天に向かって飛んでくる。

 天は杖の先端を前方の床に向けた。術式の構成はLPにストックしてあるため、増幅回路と合わせて高速で発動することができる。錬金系の術式に従い、床の材質が変化する。錬金系は固形物の形状と材質を操作する魔術だ。材質の劇的な変化に耐えきれず、床が地鳴りのような轟音で悲鳴を上げた。

 直後、床から銀色の刃が無数に突き出した。天の足元から始まったその変化は加速しながらヘルテイトの場所までたどり着く。ヘルテイトはそのうちの一つに飛び乗った。そうしなければ、突然の床の隆起に対応できずに体勢を崩し、そのまま剣の山に突き刺さるところだった。

 迫る炎の蛇をくぐって天は駆けた。途中、一本だけ柄が上を向いていた白銀の剣を引き抜いて、ミドルレンジからショートレンジ、そしてクロスレンジへ肉薄するまで秒を要さない。ヘルテイトの剣を白銀の剣で弾き、体勢を低くして跳ねるように相手の顎を蹴り上げる。

 爆発。ヘルテイトの爆炎の術式が炸裂して、二人のいた場所が煙に包まれる。天は素早く後ろに跳んで煙から抜け出し、杖を煙の中に向けてもう一度床を隆起させる。錬金によって生成された三本の鋭い柱が煙から飛び出て天井に突き刺さり、シャンデリアを破壊して落下させる。

 ガラスの割れる音が響いて、部屋は明りを失った。大きな窓から差し込む青白い月の光だけが世界を照らした。

 紅い光が(はし)った。炎の柱が三本、煙の中から飛び出て天に絡みつこうとする。天はそれをくぐって煙の中へ。直後に響くは激突する剣の金属音の連打。

 晴れた煙の中では剣戟が続いていた。刃と刃が交わって甲高い音を奏で、均衡が崩れそうになると押されているほうが魔術で仕切りなおす。

 天が神速の突きの連撃でヘルテイトの剣の動きを封じれば、紅眼の左手から炎の柱が襲いかかってくる。それをかわすために後ろへ下がり、迫りくる刃の追撃をいなして床を隆起させる。互いにミドルレンジまで離れて、それから再びショートレンジへ。互いにクロスレンジへ踏み込ませないだけの技術を持ち、相手の動きを常に予測して刃と魔術を繰り出す。

 幾度かそれが続いて、もう一度爆炎によって二人が煙に包まれる。天は強化術式で剣を極限の速さで振るう。金属音。受け切れずに後退するヘルテイトに追撃をかけようとして、再び爆炎に阻まれた。

 しかし、強化術式が効いているのは剣を振るう腕だけではない。爆炎の中に潜り込んで、岩石さえ貫く鋭い突き蹴りを放つ。ヘルテイトの腹部に突き刺さったが、衝撃を最小限に緩和され、互いに煙の外へ出る。間合いは再びミドルレンジに戻った。

 身体強化術式は術者への負荷が大きい。筋肉や骨に無理な負荷がかかって過熱し、その疲労が痛みとなる。しかし、その痛みさえも今の天にとっては燃え盛る怒りに並々と注がれる油でしかない。

 再び、ヘルテイトから爆炎の魔術が放たれる。

「イグニス」

「イージス」

 つんざく轟音の後、煙が晴れて現れたのは天を守るようにそびえたつ白銀の壁。錬成された全てを防ぐ白銀の盾。その上を飛び越えて再びショートレンジに間合いを詰めて剣戟。刃と炎と白銀が飛び交い、戦いは佳境へ上り詰めていく。

 幾度目になるかもわからない爆発と煙。両者は接近し、肉薄し、そして終わることのないとさえ思われた戦いに、終焉がもたらされる。


 最後に響いたのは金属音ではなく、刃が肉を貫くおぞましい音だった。


―――◆―――


「あ……」

 あり得ない。こんなこと、あるはずがない。

 連絡用の端末を取り落して、クレレはただ目の前にある現実を見つめるしかできなかった。

 足から力が抜けて、膝をついた。絶望という鈍器で頭を殴られたようだった。

 白いシャツの背中から突き出る、鋭く尖ったアレは何?

 白かったシャツの背中を、真紅に染めていくアレは何?

 それを言葉として理解するよりも早く、意味が理解された。密かな憧憬の対象ですらあった青年は、自らの腹に突き刺さったそれを引き抜かれて、ゆっくりと――まるで空気の粘性が変わって水中になってしまったかのように――倒れた。あまりに軽い音を立てて、白銀の剣が転がった。

 気が遠くなった。全てが現実でないような気さえした。頬をくすぐる一筋の涙さえ、自分のものではないように感じられた。

 腹を貫かれて倒れた青年を、紅い目が見下ろした。つまらないゴミでも見るように、退屈そうに鼻を鳴らして、踵を返した。月の明かりが差し込む窓へと歩いていく。

 クレレの肩が跳ねた。紅眼の男の左腕を、床から飛び出た白銀の刃が貫いたからだ。真っ赤な血の海に横たわりながら、天はしっかりとロッドタイプLPを握っていた。

「キ、サマァ……ッ!」

 ヘルテイトは振り返り、貫かれたほうとは逆の手を上へかざした。LPは刃の形状から元のブレスレットに戻っている。大気を巻き込み、橙色に光る粒子が渦巻いてヘルテイトのてのひらに集まっていく。輝きが臨界を超えてそれは炎の玉となって燃え始めた。

 ヘルテイトが振り下ろす手に従い、炎の弾が倒れた青年の体を叩いて、爆ぜた。怒りにまかせてもう一発、火炎の術式を組み上げようとする。

「やめて、ください……!」

 クレレが振りしぼろうとした声は震え、音にならずに霧散する。吐き出されるのは小さな空気の塊だけ。もう一度、てのひらに火の玉が形成される。

 しかしそれは、振り下ろされる前に消えた。紅眼の男は貫かれた手を見て、目を見開いた。銀色の刃が形を変え、腕の筋肉を貫いていく。針の玉になるように、刃から新たな刃が生えていく。

 やがて、何かが液体を叩く水音がした。肘から先が完全に切断され、白銀の剣の山とともに床に転がったのだ。ゆらゆらと、倒れそうになりながら、紅い目の男は窓の傍までたどり着き、背中から元々頑丈なつくりになっていなかったであろうガラスを破って外へ落ちて行った。

 ここは二階だ。背中から落下すれば、タダでは済むまい。ヘルテイトという脅威がいなくなったことで、暗く広い部屋から、緊迫した空気が消え去った。代わりに残されたのは、血だまりの中で動かない青年。

 連絡を受けてノクスが駆けつけた時には、ディグラルディの別荘は涙と血が流れる悲劇の場となっていた。


―――◆―――


 駆けつけたノクスの迅速な対応によって、天は病院に搬送された。エルナは、船の自室に戻って崩れるようにベッドに倒れた。

 深いため息が沈黙の部屋に溶けて行った。静寂が耳にうるさい。何か、時計の針が動く音でも良いから、聞いていたい。だけど、声を発するだけの気力さえも残ってはいなかった。

 どこで間違ったんだろう。屋敷に突入しようとする天を、無理やりにでも引き留めておくべきだっただろうか。あの場からすぐにでも離れて、この船に逃げ帰ってくるべきだっただろうか。

 壁に立てかけた大剣が、嫌に遠く感じられた。顔も知らない誰かの名前とともに刻まれた決意が、自分から離れていってしまうような気がして怖かった。

 あの悲劇を、ただ立ち尽くして見ているしかなかった。その事実が心を深くえぐり取っていく。何のための大剣だろう。剣を託してくれた誰かは、この剣で何を為して欲しかったんだろう。

 ただ黙って、刃に貫かれる背中を見ていることだろうか。絶望と悲しみの涙に背を向けて、虚勢を張ってその場に立っていることだろうか。もしそうなら、剣を振るう意味とは何だろう。

 やわらかい人工光で薄い西日が差し込んだような色に染まった天井を見上げた。頭の中でぐるぐると何かが回っていた。後悔のようでもあったし、あるいはそれ以外の何かだったのかもしれない。その正体を考えるほどの余裕は、今のエルナにはなかった。

 どれだけ時間が経っただろうか。五分だったのかもしれないし、一時間くらい経っていたかもしれない。ドアをノックする音が響いた。返事をするのも億劫なくらいに参ってしまっていたが、無視するわけにもいかない。よろよろと立ちあがって、ドアまで歩く。内開きの茶色いドアを開けて、返事をする。

「やあこんばんは。お休み中だったかな?」

「いえ、お構いなく」

 煩雑な手続きを終えたのだろう。やってきたノクスは柔らかい笑みを浮かべてはいたが、その裏にやや深刻な色――ある種の疲労か何か――を持っているように見えた。ノクスの後ろには、思わず目をそむけたくなるほど憔悴したクレレの姿があった。

 虚ろとさえ言える青い瞳が、エルナの心に深く突き刺さった。照れくさそうにもそもそと帽子をかぶりなおす彼女はどこに消えてしまったのだろう。アースワームを撃退した時のような、頼もしいとさえ思った声は、どこに消えてしまったのだろう。

「ブリッヂまで行こうか。大事な話なんだ」

 エルナは立てかけてあった剣をとって、ノクスの後に続いた。まず目に飛び込んできた光景が悲しかった。初めて来た時のブリッヂの賑やかさがまるで嘘のように静まり返っていた。白い人工光で照らされるブリッヂは、悲しいくらいに広すぎた。

 コーヒーを入れたりもせずに、ノクスはエルナとクレレの二人に座るように促した。艦長はいない。ノクスの話によると、こんな時にどこかに出てしまっているということだった。

 エルナの頭に、一つの恐ろしい可能性が浮かび上がってきた。

「あの……」

「まずは状況を説明しておきたいんだ。君の考えならその後で聞くよ」

 有無を言わせぬ言い方に、エルナは従うより他になかった。天を病院に送り届けた後、危うくディグラルディ殺害の容疑で捕まるところだったこと、白装束の女性が容疑を晴らしてくれたこと、クレレと一緒にもう一度ディグラルディの別荘に行ったこと、ヘルテイトが飛び降りた場所に転移陣が描かれていて、クレレがそれを探査したことによってヘルテイトの居場所がわかったこと。

 そのどれもがエルナの最悪の想像を否定してはくれなかった。むしろ、肯定する材料になり得てしまった。ノクスは必要な情報を話し終わると、エルナに話すように促した。言ってしまって良いものかどうかエルナはずっと迷っていたが、やがて決意した。

「ボクの思い過ごしなら良いんですが……艦長が今どこにいるか、わかりますか?」

 ノクスは黙って首を横に振った。ドレッドノートの艦長、本川 玲菜は今、行き先も告げずに船を下りてどこかへ行ってしまっている。

「艦長が、ヘルテイトと内通していた、ということは、考えられませんか」

 ノクスの目が鋭くなった。クレレも信じられないと言った表情でエルナを見た。

「そう思う根拠は、何だい?」

「議事堂城下町襲撃事件の時、ヘルテイトはどうして都合良くメンバーの留守中にこの船に来ることができたんでしょうか。

 ヘルテイトが襲撃事件の共犯者だというのはベズヴィルドの証言からわかっています。もし、ヘルテイトの目的が最初からこの船のミーティアを連れ去ることだったとしたら、防衛師団がドレッドノートに援軍を依頼することを最初から知っていたことになります」

「なるほど、玲菜ちゃんがヘルテイトと通じていたなら、つじつまは合うね。出撃メンバーを決めたのは玲菜ちゃんだし、師団長とも親交があった彼女なら、議事堂城下町を襲撃すれば防衛師団が援軍を依頼してくることくらいは予想がついただろう」

 新参者が失礼なことを言うなと一蹴される可能性も考えていただけに、ノクスが話の筋をしっかりと理解してくれたのはエルナにとっては心強かった。だが、クレレは違った。

「玲菜さんに限って、そんなこと、あるはずがないのです!」

 震える声と今にも泣き出してしまいそうな目。両手を机について、勢いよく立ちあがりながら言ったクレレは、唇を固く結んでエルナを睨んだ。怒りと悲しみの入り混じった感情が、エルナの心に重くのしかかった。

「ボクだって、こんなこと信じたくない。だけど、根拠はこれだけじゃないんだ」

 エルナはクレレの目をまっすぐ見た。自分に向けられる敵意が辛かったけれど、全て話さなければならない。そうしなければ、残されたこの二人だって危ないかもしれないのだ。

「城下町襲撃事件の時、艦長は犯人がベズヴィルドだって知っていたんだ。あの時はハーヴィ中将から聞いたって言ってたけど、本当はそうじゃなかったのかもしれない」

 それからノクスに向きなおって、エルナは一番大事なことを話す。

「今までの流れを見ると、ドレッドノートの戦闘員が一人ずつ狙われているように見えるんです。

 カリダの遺跡でミーティアがアースワームと魔導砲を打ち合って魔力枯渇になりました。

 千香さんが船に襲撃したヘルテイトによって負傷しました。天さんがヘルテイトと戦って負傷しました。その時はボクもクレレもいましたけど、戦力として数えられていなかったんだと思います。

 そして、白装束の人がいなかったら、ディグラルディ殺害の罪を着せられてボクやクレレ、ノクスさんが捕まってしまうところだった」

「戦力を分散させて一人ずつつぶしていく、か。そう考えると、毎回出撃メンバーを自由に決定できた玲菜ちゃんは十分怪しい」

 目を閉じて思考を重ねたノクスは立ち上がった。彼が要点をまとめてくれるおかげで、エルナも自分の考えにだんだんと確信が持てるような気がした。信じたくないことではあるが、この考えが正しかった場合、覚悟を決めておくに越したことはない。

 クレレは下を向いて震えていた。エルナにとっては辛いことだが、ここで覚悟を決めておくことは、彼女を守ることにもつながる。

「どうだろう? すぐにでもヘルテイトの居城に乗り込もうと思うんだけど」

 確かに、艦長のいない今を逃せば機会はないような気がした。ノクスの口ぶりでは、一人でもヘルテイトのいる場所まで行くつもりでいるようだった。

 エルナが戦力として数えられていない以上、次に狙われるのはノクスだろう。エルナは少しためらったが、立ち上がった。自分の剣で誰かが救えるなら、その機会は逃すべきではない。ヘルテイトに連れ去られたミーティアだって、ひょっとしたら助け出せるかもしれない。

「私は、行きません」

 クレレがうつむいたまま言った。

「私は、玲菜さんを信じています。だから、ここで待ちます」

 クレレの顔から、何か光るものが落ちて弾けた。ノクスは玲菜が裏切り者であると仮定した上で行動を提案した。玲菜を待たずに行動することが、クレレには許せないのだろう。

「良いよ。君がそうしたいなら、ずっとここで待っていると良い」

 クレレをまっすぐに見たノクスの言葉は、驚くほど冷たかった。その言葉を向けられたクレレだけでなく、エルナさえも責められていると感じてしまうほどに。

 顔をあげてノクスを睨んだクレレの顔を見て、エルナは胸が締め付けられるような気がした。あふれた涙が頬を伝って、それでも青い瞳は悲しみをこらえてまっすぐノクスに向けられている。口は言葉を押し込めるように固く一文字に結ばれて、しかしその表情がどんな言葉よりも痛切に彼女の気持ちを語っていた。

 ノクスはその瞳に睨まれても、決して己を曲げようとしなかった。やがて、クレレはブリッヂから走り去ってしまった。追いかけるべきかと思ってエルナも走りだそうとするが、ノクスに肩を掴まれた。

 静かに首を振ってから、ノクスは言った。

「あの子は優しいからね。玲菜ちゃんを疑うこともできないし、かと言って僕達を嫌うことだってできない。今は僕達が何を言っても、あの子を傷つけるだけだ」

 ブリッヂの出入り口のほうを見つめるノクスの顔を見て、エルナは悟った。二人とも、優しいのだ。その優しさが食い違って衝突して、それでもまだ優しい気持ちを捨てられない。だから、クレレはこの場にいることに耐えられなかった。

 ノクスだって、これ以上クレレに冷たい言葉をぶつけることはしたくなかったのだろう。少しだけ安堵の意味を込めたため息をついて、立ち上がった。右手首につけたメタリックグリーンの小さなバングルに軽く触れて、その形状を変化させる。

 どうやら、ノクスはメタモルの使い手らしい。剣、槍、槌などに変化させてLPに異常がないことを確認して、エルナのほうへ振り返った。

「君はどうする? かなり危険な戦いになるかもしれない。研修生である君が、無理についてくることはないよ」

 これは最後の確認。ここでの答えが、未来を決定づける。エルナにはなんとなくそれがわかった。ノクスはそれだけ真剣だったし、エルナもこの機会を逃せばもう二度と剣を振るえない気がした。

「いえ、ボクにも行かせてください」

 ノクスは小さくうなずいた。二人は船を下りて、目的の場所へ向かうことにした。船に残っているのは怪我をした千香とクレレだけ。それが少し気にかかるが、大丈夫だろう。次に狙われるのは十中八九ノクスなのだ。

 そして、ノクスはそれさえも見越して、クレレを置いていくような状況を作り出したのだろう。すれ違う優しさが悲しかったが、エルナは振り向かないことにした。ヘルテイトと戦うことはできないかもしれないが、ノクスのサポートくらいならできるだろう。

 今できることを剣とともに為す。恐れてばかりではいられない。自分の中に確かに芽生えた決意を感じながら、エルナはノクスとともに歩き出した。


―――◆―――


 夜中と早朝の間、第四区画の中央惑星の首都には、太陽も月も見えなくなる深淵の時間が存在する。人工の軌道で人工の間隔で回る月の見える時間は、夜の間であるというのは決まったことだが、それでも衛星軌道を完全に操ることはできない。夜から朝にかけて、月と名付けられた巨大衛星が見えない時間帯が存在する。

 従って、この白い廊下には外から欠片も光が差し込まない。人工光もロビー付近の一画を除いて全て消灯している。本川 玲菜はそんな暗い場所に来ていた。

 金色の碇マークの刺繍が左胸に施された紺色の制服を着た彼女は、この場所に相応しい制服――白衣――を着た男性と向かい合っていた。男性は玲菜よりも少し年上なのだがそれを感じさせないような清潔感を持っていた。腕を組んで玲菜と話す彼は、二十代と言っても十分に通るだろう。

「天ちゃんは面会謝絶にすること。それと、絶対に外に出さないでね」

「あの状態じゃ立ち上がることだってままならんと思うがね。まあ、玲菜ちゃんの頼みならしゃあない。良いだろう。彼はきっちり閉じ込めておこう」

 おそらくは医師であろう彼は、玲菜の要求をすぐに飲んだ。玲菜は軽く礼を言ってから病院を出た。役所の近くに停泊しているドレッドノートのほうとは、逆の方向へ歩き始めた。

 くるくると人差し指にひっかけてハンドガンを回す彼女の足取りは軽い。作戦がもうすぐ完遂されるのだ。空の明かりが消えた闇の中で、彼女は小さく笑った。


―――◆―――


「が、ああ……!」

 ちぎれた腕が痛む。肘から先を失った左腕を抑えて、ヘルテイトは低く唸った。右手に付けたブレスレット型のLPを失わなかったのは不幸中の幸いか。

 もっと力が必要だ。宇宙の中で最も優れたバーレイグという一族として、辺境の錬金術師風情に屈するわけにはいかない。そのような事実が存在してはならない。

 炎の術式を組み上げて、ちぎれた腕にかざす。焼けつく痛みが体の感覚を塗りつぶして、皮膚を溶かしていく。溶けた血管をつなぎ合わせ、溶けた皮膚を張り合わせて、元からそうであったようにしてしまう。

 バーレイグは古来より人工遺物を管理してきた、選ばれた一族。敗北などという事実は認めない。失ったのはただの飾りだ。頭の中をめぐるのは強い選民思想のみ。

 痛みからようやく解放された意識で、ゆらゆらと暗い廊下を歩く。悔しいが、失った血の量が多すぎて幻覚術式は小規模なもの以外、維持できそうにない。このアジトを隠すための術式を維持できない。忌々しい。元々、人目に付かないような場所にあるとは言え、『スティグマ』を継承する儀式に邪魔が入る可能性の存在する余地が生まれてしまうことが気に食わない。

 たどり着いたのはドーム状の空間。主の帰還を迎えるように、橙色の明かりが暗闇のドームを照らした。宇宙の始まりを模した炎の炸裂。永遠の輝きを象徴する太陽のように、ドームの頂上に橙色の光を発する球体が浮かぶ。

 それを作ったのが自分であることさえも、今のヘルテイトにとっては忌々しい。永遠の輝きを求めるということ、それはすなわち、輝きを失うことを恐れることに他ならない。宇宙で最も優れた一族が、暗闇を恐れたりなどするものか。

 ドームの中央には儀式のための十字架に張り付けられた現在の『スティグマ』の所持者がいる。ベージュ色の大きな三角形の襟のついた制服を着ている少女。確か、名前はミーティアとか言ったか。

 『スティグマ』というインテリジェンス・ウェポンはそれ単体で奪ったとしても意味がない。固有の手続きを踏んでそれを支配下に置かなければならない。一つのインテリジェンス・ウェポンに対し、二人以上の所持者が存在することは絶対の法則として認められない。

 それを継承するためには儀式を行う必要がある。かつて、この娘が愚かにも行ってしまったように。だが、それも今となっては良い。そのおかげで『スティグマ』の暴走は少しばかりおとなしくなったのだ。

 全ては『スティグマ』をバーレイグの管理下に置くため。万に一つの失敗さえも許されない。儀式の後はしばらく身動きが取れなくなってしまう。故に、儀式を邪魔する恐れのある可能性は全て排除しなければならない。

 幸い、連中の戦力はだいぶ落ちている。こちらに向かってくる者も二人だけだ。この情報は信頼できる。召喚核を操作して、守護者を呼び出す。四本の腕を持つ魔人。意志を持たぬゴーレムの最も優れた姿。ヘルテイトの二倍から三倍はあろうかという背丈の黒い魔人は、感情のない目を開いた。

 こいつがいれば、しばらくは安心だろう。紅い目の男は壁に背を預けて、座り込んだ。静かに目を閉じる。やがて訪れるであろう戦いに備え、万全の状態にしておかなければならない。

 連中さえどうにかしてしまえば、『スティグマ』の継承を邪魔する者は誰もいなくなる。橙色の光が満ちるドームの中で、紅眼の男は小さく笑った。


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