表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/24

5:剣に刻まれた想い

 ドレッドノートにまたしても政府関係機関から依頼が来た。これはとても珍しいことだ。

「宇宙の終焉でも近づいてるのかな?」

 いつものようにコーヒーを飲みながらノクス・アージェンタイム副艦長が言った。彼なりの驚きの表現だろうが、あまり冗談に聞こえないのでやめてほしいとエルナは思った。

「今回の依頼は急を要するわ。それも血沸き肉躍る戦闘任務。議事堂城下町に入り込んだ魔獣の掃討よ」

 なんだかとてもうれしそうな艦長の説明を聞いていたのは、エルナ、ノクス、天、千香の四人。ミーティアは先の任務で倒れてしまったので、この任務には参加しないことになっている。クレレも顔色が良くなかったし、そもそも彼女は非戦闘員なので参加メンバーではない。

 ドレッドノートの出動の際には、実質的に戦闘が可能な人員をお留守番役として船に置いておくことになっている。ミーティアもクレレも、現状では戦闘不可能。よって、その二人を除く五人の中から番人を選ばなければならない。

「じゃ、千香ちゃんで」

 即決だった。千香も同意したが、天があからさまなため息をついた。

「こらこら、ぐったりしないの。天ちゃんだって重要な戦力なんだから」

「あのね、だからって技師(エンジニア)を頻繁に戦場に連れてくのはどうかと思わねぇの?」

 白柳 天は魔導技師だ。ドレッドノートを技術面から支えている。自動航行システムや長距離砲(LRC)のメンテナンスも、必要ならば船員のLPの調整だって行うこともある。

 魔導工学の分野に特化した知識・技術の持ち主であって、本来彼は戦闘員ではない……と本人は主張している。

 ぶつぶつと文句を言いながら、天は立ち上がった。彼が望もうと望むまいと、船はすでに議事堂付近に着陸し始めているのだ。艦長命令となれば乗組員である彼に拒否権はない。

 天はロッドタイプのLPの駆動部とポケットに無造作に突っ込んだ増幅回路を確認しながら、任務に向かう準備を始めた。その姿は、エルナには魔術を中心に戦うタイプの戦闘員にしか見えない。これまでに聞いた艦長の話から総合しても、天が相当の実力を持っているのは疑いようのないことだ。

 最初の任務を思い出すと、そういえば天は錬金系と合わせて拘束系の術式を行使していた。錬金系は扱いが非常に難しい系統の魔術だ。クレレが用いていた水の生成陣は戦闘のような秒が命運を分ける世界のものではないが、戦闘において錬金系を使いこなす魔術師というのは間違いなく主戦力レベルだ。

「彼の実力なら心配しなくていいよ」

 そう言ったのはノクスだった。この人もこの人で相当な使い手のような気配を持っている。艦長のガンタイプや天のロッドタイプのように、目に見えるところにLPを持ってはいないが、それも今回の任務で明らかになるのだろう。

「何やってんだお前ら。置いてくぞ」

「あ、すみません!」

「ああ、すぐに行くよ」

 長い杖を肩に担いで、天は艦長と一緒に先に船を下りて行った。

「なんだ、意外と乗り気じゃないか」

 ノクスがおかしそうに笑ったので、エルナも釣られて曖昧に笑った。


―――◆―――


 無駄な装飾がなく、建物自身もそれほど新しくない議事堂の前では、いくつかのモニターの前で小柄な男がキーを叩いていて、その傍らに口ひげをはやした中年の男が立っていた。司令官だろう。

 二人とも迷彩色の軍用制服を着ていることから、連邦軍に所属している男であることがわかる。近くに貼られたテントの下では、重傷者がひしめいていて、救護班は確実に人員不足だった。

 玲菜の姿を見つけるなり、司令官と思しき中年の男が話しかけてきた。

「お久しぶりです。教官」

「ハーヴィ中将もお変わりないようで」

 中年の男は背筋を伸ばして玲菜に向かって敬礼した。玲菜も軽く敬礼をして、今回の作戦に関する話が始まった。

 教官、というのは玲菜のことらしい。年齢を考えれば(おそらくは)玲菜のほうが年下だろうが、ハーヴィ中将の態度から考えて、立場的には玲菜のほうが上らしい。

「艦長、昔は防衛師団の教官やってたんだとよ」

「へぇ、そうなんですか」

 天が教えてくれたことは、エルナにとっては少し不思議なことだった。玲菜は容姿から判断するに、まだ二十代前半と言っても十分通る。天の言う「昔」がどれほど前の話なのかわからないし、玲菜と今話しているハーヴィ中将はどう見ても四十を超えている。ひょっとしたら五十代かもしれない。顔に刻まれた深いシワが、中年独特の貫録を醸し出している。

 そんな相手――ひょっとすると自分の倍は生きているような相手――よりも、玲菜は上の立場なのだろうか。そんな相手に戦術指南をしていたのだろうか。あり得ない話ではないが、あまり自然な話でもないような気がした。

 ハーヴィ中将は軍用制服の上からでも鍛え上げられたことがわかる。腰に下げているブレードタイプのLPを使って戦うのだろう。魔術にはさほど頼らないタイプかもしれない。

 ハーヴィ中将の話は軍人らしく簡潔だった。議事堂城下町に魔獣が侵入したこと、防衛師団で殲滅にあたっているが、負傷者が多すぎること、第一防衛ラインを捨てて第二防衛ラインにまで前線を引き下げたことなど。

 彼らがドレッドノートに依頼したのは、この防衛戦の援軍だ。魔獣の掃討と、発生源の除去が今回の仕事になる。

「お、CE(チェイス・アイ)か。どれどれ……」

 天の目の色が変わった。追尾眼は特殊形状のLPで、一般ではほとんど使われることがない。普通に生活していてはめったにお目にかかれない代物だからだろうか。天はモニターを見てすぐにそれが追尾眼の映像であることを見抜いた。声の色も心なしか嬉しそうだった。

 だが、直後に彼の表情は一変した。だんだんと血の気が引いていくようだった。直後に彼が発した言葉は、その場を騒然とさせた。

「引かせろ! 第二、第三防衛ラインはもう使い物にならねぇ! ここまで一気に来るぞ!」

「な……そんなはずはない!」

 反対の声を上げたのは追尾眼の持ち主、小柄な男スキルヴィル。モニターを一目見る限りでは、スキルヴィルの主張が正しいかと思われた。魔獣を相手に奮闘する師団員達の姿が映されていたからだ。

 しかし、天はその声を無視した。

「クソッ! どうしてこうなるまで放っときやがった! OSは何だ? CEならソニックシリーズだろうが……」

 それは質問などではない。スキルヴィルの存在は天にとってもう見えてすらいないようだった。小柄な男を力づくでモニターの前からどかして、キーの操作をのっとった。指の動きが目に見えないほどの速さで操作を続けながら、彼の表情は徐々に険しくなっていった。

「バ、カヤロォ! 通信系にシンプル入れるヤツがあるか!」

 彼が叫ぶのと同時に、銃声が響いた。魔獣の断末魔が響いて、重傷者を手当てするテントの前に黒い体が倒れ、溶けた。それを合図にするかのように、幾多の獣の咆哮が木霊した。

 黒い狂犬ヘルハウンド。その大群が押し寄せてきたのだ。テントにいる重傷者の血の匂いに反応しているのだろう。議事堂のほうにはわき目も振らず、狂犬達はテントを目指した。

「死ぬ気がないならおとなしくしてなさい!」

 鋭い声とともに、銃声がいくつも連なった。艦長のガンタイプLPが火を噴いたのだ。先ほどまでハンドガンの形をしていたのが、モードチェンジャーによってサブマシンガンの形状となっている。

 テントの中にいた者は、全員静かになった。下手に騒いで逃げ出そうとすれば、流れ弾に当たってしまうからだ。玲菜の放つ赤い魔導弾丸は着実に黒い狂犬達に命中し、その息の根を止めていく。

「玲菜ちゃんの教官時代の通り名、教えてあげようか?」

 エルナの隣に立っていたノクスが言った。この緊迫した場にそぐわない、とても楽しそうな声色で、エルナには微妙にそれが怖かった。

「紅弾丸の鬼狂官」

 ノクスが言ったすぐ後に、玲菜のガンタイプLPの咆哮が響き渡った。


―――◆―――


 白柳 天はキーを叩きながら苛立ちの頂点に達していた。追尾眼はウィンドミル社が開発した特殊形状のLPだ。武器としての使い方はほぼできないに等しいが、静音性と低視認性に優れた偵察道具として、軍用では特に重宝されている。

 ウィンドミル社が開発するLPには、同社が作成したソニックシリーズという基本ソフトウェア――通称OS――が入っている。その中で最も広く普及していて扱いが容易なものが、シンプルソニックだ。

 ただし、このシンプルソニックには穴がある。基本的な機能以外は搭載されておらず、改造を行う場合、セキュリティの面から余分な改造が必要になる。低知識層向けに販売されるものであって、改造されることを前提としていないのだ。

 したがって、半端な知識を身に付けた者が改造を施したりすると目も当てられない事態になる。特に、通信系であれば傍受はおろか伝達情報の操作、すなわち通信の割り込みさえ容易く受け付けてしまうのだ。

 通常、改造至高の場合はカスタムソニックシリーズを用いる。シンプルソニックなんかで改造をするのは馬鹿か猿のやることだ。

「双方向通信だぁ? どんだけゼロセキュリティだよ……」

 スキルヴィルは小柄な男だが、天よりは年上だ。プライドをズタズタに傷つけられたのか、頭に血が上って顔が赤くなってしまっている。ここでわめかないだけの分別はあるようだが、天の毒舌は止まらなかった。

「ミジンコがふざけたマネしやがって。危うく殺されるとこだ」

 キーの操作を終えて追尾眼を強制シャットダウン。これ以上この装置を稼働させていても、情報を得るどころか逆に利用されてしまいかねない。それに、必要な情報はもう得た。

 伝送情報の改ざん手段の解析、それから逆探知による黒幕の座標特定。おそらく、魔獣を呼び出した召喚核も同じ場所にあるだろう。必要な情報だけを書き込んだ特殊な増幅回路を、艦長に投げる。

「改ざん者と魔王石の座標だ!」

「さんきゅ!」

 天はロッドタイプLPを持って立ち上がった。面倒だが、この状況で戦闘を怠けることはすなわち死を意味する。

「ノっ君と天ちゃんでここの守りは十分だよね。エルナちゃん、行くよ!」

「は、はい!」

 艦長と新入りが走り出して、その脇をすり抜けてヘルハウンドの軍勢がやってくる。

 天はそのうちの一匹、自分に迫ってきていたものを硬化術式で強度を上げたLPの駆動部で殴って黙らせ、頭蓋ごと踏みつぶす。副艦長が大型の武器を薙いで、群がる狂犬達をまとめて吹き飛ばした。

「そんじゃあおこぼれ頂戴と行くか」

 増幅回路をセットして、天は得意の錬金系術式を構成し始めた。


―――◆―――


 軽く一薙ぎして、左右から飛びかかってきた下級魔獣を斬り崩した。雑魚には構うなと言われているので、エルナがこうやって倒す魔獣は少ない。何匹も脇を素通りさせてしまうが、艦長は副艦長と天の実力なら問題にならないと判断したのだろう。

 事実、もうだいぶ遠くまで走ってきたはずなのに、後ろからは激しい炸裂音が断続的に響いてくる。天か、あるいはノクスが大暴れしているらしかった。

 後ろで起こっている戦闘の状況に身震いしながら、白いタイルが規則的に敷き詰められた中央の道を駆け抜ける。

 突破力、という意味ではエルナも多少なりとも自信はあったのだが、艦長を前にするとその自信もどこかへ消えてしまった。かと言って、自信を失って落ち込むかと言われれば、艦長の実力はそれすら許さないほど電撃的で刺激的だった。

「邪魔よ!」

 そう短く言い放つ艦長の手に握られたLPは、モードチェンジャーによってチョークのないショットガンの形状になっている。大経口の大型銃を脇に抱えるようにして構え、装弾から射出までのタイムラグは小数点(コンマ)一秒かと思うほどの手慣れた操銃。雷管の弾ける音が立ちふさがる黒い狂犬達の動きを止めて、そのうちの数匹の頭蓋を射出された九発の散弾が打ち抜いた。

 人間がまだ一つの星に住んでいた頃からの形状を忠実に再現したバックショット。多数の弾丸を一度に射出・拡散させる中型獣用の弾丸で、チョークのないソードオフ・ショットガンで放つ場合は特に、至近距離の集団制圧に向いている。

 一つだけ単純な銃器の散弾と異なるのは、着弾後にもう一度弾が弾ける炸裂弾になっているというところだ。弾丸に破壊術式を組み込んだ特殊な増幅回路を埋め込んでいるために可能な芸当で、近接戦における破壊力は数ある武器の中でも群を抜いている。

 そして何より、この局面で炸裂弾を使用したことで得られた利点は、その音にある。鋭い炸裂音が狂犬達の動きを、一瞬とは言え止めたのだ。彼らが怯んだのはわずかに二秒だが、ドレッドノートの艦長、本川 玲菜にとっては充分すぎるほど長い時間だった。

 モードチェンジャーで形状を変更する場合の処理は極限まで短くしてあり、二丁のハンドガンタイプに変更して装弾から初弾を放つまでが一秒。残りの一秒で低空をまっすぐ前に跳んで、体をひねりながら前と左右に向けて乱射、近距離にいた魔獣達を全て撃ち落とす。

 空中で体が地面と水平になった状態から、片方のハンドガンをくわえて空いた手で地面を弾く。魔術的要素を一切なしにそれだけで体勢を整えなおして着地。着地した時にはすでに装弾が終わっており、次の乱射が開始されている。

「こ、これ、ボク必要でしたか……?」

「まあね。もう少ししたらわかるわ」

 撃ち漏らしたヘルハウンドが横から飛びかかって来るのを適当に蹴飛ばしてハンドガンの正確な射撃で追い打ちをかける。

「それ来た。ここからしばらくエルナちゃんのお仕事増えるわよ」

「あ、はい!」

 エルナにもそれはすぐにわかった。ヘルハウンドに着弾したその弾丸が炸裂弾として弾ける際の衝撃が、小さくなっているのだ。

 ヘルハウンドは結果として一瞬で死ぬことができずにその場でもがき苦しむ。すぐにエルナが追い打ちをかけてトドメを刺した。辺りの空気も変わっている。

「広域対魔法結界(アンチルーン)。だいぶ効果範囲が広くなってるみたいね」

 アンチルーン(AL)とは魔術の基礎となるルーンの効力を弱体化させる特殊な構成の対魔法用の結界である。魔力素の固定化によって術式の構成そのものを阻害するため、並の術者では魔術が完全に無力化されてしまう。

 もっとも、ALにも出力や効果範囲の制約があり、維持し続けるためには術者に負担を強いるために扱えるのは訓練された者だけなのだが。

「ハーイ。久しぶりね、ベズ」

 跳びかかってくる狂犬を短刀で器用にいなして、ハーヴィ中将と同じ軍用制服に身を包んだ女性が現れた。軍人にしては珍しく前髪が少し長い。しかし、背筋はまっすぐに伸びている。玲菜よりも少し背が高いように見えた。

「ゆっくり紹介できれば良いんだけど、そういう事態でもないのよね。ベズ、防衛ラインの状況は見てきた?」

「第一、第二防衛ラインは破棄。第三防衛ラインも撤収を開始した。最終防衛ラインを死守する形になるだろう」

 やはりこの女性も軍人らしく簡潔にモノを話した。

「そうね。私達が来なければそうなっていたでしょうね」

「何……?」

 直後、信じられないことが起きた。玲菜のLPから放たれた紅い弾丸が短刀を持つ女性の頬をかすめたからだ。

「召喚核のありかを言いなさい」

「……何のことだ」

 またひとつ、弾丸が発射された。弾丸はその女性の足元のタイルをえぐり取ってめり込んだ。

「三度目の正直よ。ベズヴィルド・ハートゥーン。慈悲深い教官の計らいにたっぷり感謝しながら吐きなさい」

 小さく歯をかみしめる音が聞こえて、直後にエルナは動いた。大剣を突き出してその刃を受け止めた。

 短刀による素早い攻撃。ベズヴィルドなる女性軍人から放たれた一撃は危うくエルナの首元にまで届くところだった。懐まで潜り込ませた場合、大振りなこの武器を扱うエルナに勝ち目はない。

 そう踏んで後ろに下がっておいたのは正解だった。短刀を受け止めて、少し力を込めれば逆に押し返すことができる。問題は、この後体勢を崩されないかということだ。

 小振りで密着した状態でも融通の利く短刀は、エルナの大剣と比べてより精密な力加減で操ることができる。短刀に込める力を少しずらされてしまえば、エルナは体勢を崩してその隙に心臓をグサリ。それでおしまいだ。

「やっぱりあんたが犯人か。お姉さん悲しいぞー」

 だが、この場には玲菜がいる。エルナがすぐに間合いを取るべきでないと判断したのはそのためだ。玲菜はベズヴィルドの後頭部にハンドガンを突き付けた。

「ALが利いている状況下ではその武器は無意味だ」

「じゃあ、そのALをいつまで維持できるか試してみる?」

 ALを維持し続けるためには術者に負荷がかかる。ベズヴィルドは玲菜が教官を務めていた頃からALの扱いに長けていたが、それでも持続時間には限界がある。

 単独行動では挟み撃ちにされたこの状況から抜け出すことはできない。したがって、ALを維持し続けるのは無意味だ。ベズヴィルドは短刀を捨てた。そのLPに彼女自身の力を流し込むことで発動していたALは消える。重苦しい空気が晴れた。

「殺せ」

「だーめ。召喚核の場所を吐いてもらわないと。それから教官が愛を込めてお説教してあげるから、それまでおとなしくしてなさい」

 ポケットから取り出した手錠をベズヴィルドの両手首にはめた。ALと同時に逃走防止用の術式が編みこまれた対魔導師用の手錠で、これをつけられたら魔術を使うことはもちろん、物理的に所有者から半径五十メートル以上離れることができなくなる。

 召喚核の場所はベズヴィルドに聞き出してすぐにわかった、第一防衛ラインの付近の広場にある噴水だ。

「なるほど、真っ先にそこを潰して、追尾眼もクラックしといたのね」

 第一防衛ラインを制圧して、しかしその情報を隠すためにスキルヴィルの追尾眼に間違った情報を流し込む。兵長という立場にあるベズヴィルドなら十分に可能な芸当だ。

 噴水の真ん中、台座の上から沸き出る水に守られるようにして、丸い紫色の宝石が鎮座していた。先の任務で天が回収したようにごつごつしていないことから、それが人工の召喚核であることがわかる。

 やはり、今回の議事堂城下町襲撃事件は人為的なものだ。そして、ベズヴィルドという内部の人間が犯人または共犯者としてこの件に加担していた。

 エルナは魔術にあまり頼らない戦いをする。増幅回路を使った火力重視の技は封じられるが、AL領域下でも安定した戦いはできる。それに比べて、ノクスはわからないが、天は魔術を重視した戦いをするのだろう。人工召喚核は無力化に特別な知識を要しないため、天を連れてくる必要はなかった。

 玲菜が連れてきたのはエルナ。ここまで――ALを持つ相手と対峙することまで――玲菜は見通していたのだろうか。

「あなたに不穏な動きがあったのはハーヴィ中将もとっくにお気付きだったわ。隠し事が下手なのね」

「ふ、私は踊らされていたに過ぎないのか」

 ベズヴィルドから小さく漏れたのは自嘲の笑み。

「じゃあ、一応動機を聞いておきましょうか」

「出世と金に目がくらんだ愚かな者の愚かな選択だ。これで十分だろう」

「いいえ。不十分すぎる。誰よりも思慮深く行動したあなたがそんな理由で凶行に走るはずがない。あなたは愚かではないわ。少なくとも愚かな選択の理由を説明できるくらいにはね」

 玲菜はまっすぐにベズヴィルドの目を見た。厳しく、それでいて優しい眼差し。

 エルナはその眼差しに、どこか懐かしさを感じていた。かつて、孤児院で面倒を見てくれたシャズおばさんに叱られたときを思い出した。

「どうだかな。教官が期待するほどの分別など、とうに捨ててしまったよ」

 ベズヴィルドは拒絶した。ただ目を閉じて、静かにうつむいていた。

「話してください」

 そう言ったのは玲菜ではない。エルナだった。エルナは我慢ならなかった。

「黙ったまま牢獄の中に入るつもりなら、今ここで話してください。あなたにはそうする責任があります」

 突然の発言。その中に渦巻く激しい感情を、エルナは精いっぱい隠そうとしたが、おそらく隠し切れていないことは自覚していた。それでも、こう言わなければならないと思った。

 エルナはまっすぐにベズヴィルドを見た。自分よりも背は高い。どこか繊細な印象があって、しかし力強さも秘めている。きっと師団内でも尊敬される立場にあっただろう女性。

「罪人に釈明の余地などない」

「関係ありません。あなたは話さなければなりません。あなたを想っていた人がいたかもしれない、あなたを追いかけていた人がいたかもしれない、あなたが守りたかった人がいたかもしれない。

 それだけの人を置いて、黙したまま冷たい牢獄に入るのは許されません。あなたには可能な限りの釈明をする義務がある。だから、どれだけ情けなくても、ここで話してください。あなたに選択を迫った理由を」

 言い終わってから、エルナは自分の心臓の鼓動が加速しているのに気付いた。頭に血が上って熱くなってしまっているのも、なんとなくだがわかった。

 間違ったことを言ってしまっていないか不安にもなった。研修生の分際で出しゃばったマネをしてしまったのはまずかっただろうか。感情に任せてモノを言ってしまうのはあまり良いことではないとわかっているのに、止められなかった。

 それでも、まっすぐにベズヴィルドを見た。彼女が目を合わせてくれるまで、そうしているつもりだった。確かに間違ったことを言ったかもしれない。感情に流されるままに嫌なことを言ってしまったかもしれない。だけど、これが間違っていると認めてしまったら、今までの努力が全て無に還ってしまうような気がして、恐ろしかった。

 心臓が押しつぶされるような不安だった。呼吸が苦しくなってくる。頭の中が焼けるように熱くて、足が地面を踏みしめているかどうかもわからない。ただ黙って、ベズヴィルドの返事を待つことしかできない。あるいは、玲菜に咎められるだろうか。そうならば早くそうしてほしいとさえ思った。

「もう見たか。防衛師団の情けない姿は」

 やがて、ベズヴィルドは顔を上げた。まっすぐにエルナの目を見返してきた。先ほどまでの頑なな色は消えていた。

「訓練で互いの優劣を競うばかりで実戦の恐ろしさを知らない。そのくせ、狭い環境で己が優れた実力の持ち主だと思い込む。挙句、襲撃に対しては及び腰だ。まともに戦いの世界を知っているのはハーヴィ中将くらいのものだよ。私が今回の件に関わった理由の一つはそれだ」

「防衛師団の現状に嫌気がさして、彼らに実戦の世界を教えるために?」

 静かにうなずいて、ベズヴィルドは続けた。

「もう半分は別の理由だ。私はある高利貸しから多額の借金をしている。この戦いで手柄を立てれば私は出世し、臨時手当も入るだろう」

「なるほど。妹の入院費用を借りていたけど、そろそろ限界になってきた、ってところね?」

 玲菜の言葉に、ベズヴィルドは目を見開いた。

「そこまで、調べられていたのか……?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。あなたの上司は部下思いなのよ」

 ベズヴィルドの上司、つまりはハーヴィ中将のことだ。ベズヴィルドは妹の入院資金が足りず、高利貸しにまで頼らなくてはならなくなっていた。それを完全には知らなかっただろうが、最近のベズヴィルドの様子から彼女が何かに追われるような事態にあることを、中将は見抜いていたのだ。

「そうか……。師団長にも迷惑をかけてしまった。教官、ひとつお願いがある」

「何?」

「連邦騎士団のフォルラムルに連絡をお願いしたい。私の名前を出せば応じてくれるはずだ。『セーレイズの面倒を頼む』と、伝えてほしい」

「ほい了解。さて、それじゃあ共犯者がいないかどうかも聞いておきましょうか」

「召喚核をここに置くように言った者がいる。今回の作戦はヤツの指示だが、私はヤツの素性を知らない。正体もわからぬ相手と手を組んだのは我ながら軽率だったな」

 魔王石の回収は無事に終わり、召喚核を無力化したことで新たな魔獣は召喚されなくなった。ベズヴィルドを連行した時、スキルヴィルは驚いていたようだったが、ハーヴィ中将はただ苦い表情でそれを受け入れていた。

 最終防衛ラインだった場所は綺麗さっぱり魔獣が掃討されていて、天とノクスの実力が確かなものだったことを証明していた。

「エルナちゃんすごかったんだから。意地になってる犯人の心を揺さぶるあのセリフと視線! かわいいだけじゃない男の娘って良いわねー」

「え、えっと……」

「ほぉ、お手柄だったわけだ」

「玲菜ちゃんの様子からすると、期間が終わっても引き抜きたい逸材かな?」

 周囲からの称賛がくすぐったくて、エルナは曖昧に笑った。

「まあ、そこは本人の意思次第ね。何か他の目的があるかもしれないし」

 依頼は無事に完了。ベズヴィルドが言っていた共犯者は見つからなかったが、それを探すのは防衛師団の仕事だ。

 ドレッドノートへ戻る途中、エルナは空を見上げた。果てなく続く宇宙。位置を緻密に計算された人工太陽によって、昼間は青く、夕方になれば赤く、夜になれば暗くなる空。同じ空の下に、という古典的な表現があるけれど、銀河系を飛び出し、広大な宇宙を四つに分割した人類にとって、同じ空の下、とはどういう範囲を指すのかわからない。

 ドレッドノートでの生活は悪くない。むしろ、個性的なメンバーに囲まれて仕事ができるのは楽しい。けれど、ここにずっととどまったままではいられない、とも思う。

 研修期間が終われば、また学園で訓練と勉学に励む日々がやってくる。いつか第四区画から抜け出して、探したい人がいる。顔も知らないけれど、一振りの剣を残してくれた人。幾度となく夢に見て、けれど、一度だって会うことができなかった人。

 LEONARD(レナード)という、剣に刻まれた名前以外はわからない。この宇宙のどこかで、生きているのかどうかもわからない。けれど、エルナが必死に勉強して魔法学園に入学したのはこういう理由がある。

 きっといつか、広い世界へ飛び出して、探す。その決意がある以上、ドレッドノートのメンバーとして正式に迎えられることはないだろう。

 探したい人が残してくれたのはこの大剣だけ。シャズおばさんもハーンおじさんも、その人の行方は知らない。黙ってどこかへ行ってしまったその人に、憤りを感じることもある。だから、先ほどのベズヴィルドに対しては熱くなってしまった。どんな事情があったって、生きていることや居る場所がわかるのは、わからないよりもずっと良い。

 第四区画の外へ飛び出すために。まずそのために、ドレッドノートで与えられた役目をしっかり果たそう。

 強く心に刻んで、エルナは歩き出した。


―――◆―――


 眠るミーティアの表情はだいぶ落ち着いてきた。千香は安心した。先ほど目覚めたときの涙は、悲しみによるものだったのだろう。そしておそらくその悲しみは、背中の傷に関係があるのだ。

 ミーティアの、誰にも知られたくない傷。それを千香は知ってしまった。知ってしまった以上、知らないものとして彼女に接することはできないだろう。

 逆に言えば、知っているからこそ支えられる部分もある。秘密を抱え込まなければならないというのは、それだけで心を圧迫する。その重圧を少しでも肩代わりできる存在になれれば、と思う。

 自分はおせっかい焼きだろうか。そんな自分に酔っている部分も少なからずあるのだろう。天は、親族にはだらしがないと言われ続けてきたが、あれで隙がない。おせっかいを焼く余地がほとんどないのだ。

 散らかっている部屋も、自作の自動掃除機(ダストイレイサー)で清潔に保っている。「ハイパージョン君」とか言うあり得ないネーミングのその機械のおかげで、ドレッドノートの船内もちりひとつ残らない。

 心のどこかで、あの人に優っている部分を欲しがっているのはわかっていた。だから、礼儀作法に関しては家の教えを忠実に守っているし、剣の修行にもとことん打ち込んだ。おせっかいを焼いて、自分があの人より優れた存在であると証明したかったというのもあるかもしれない。

 それができないから、代わりにミーティアにおせっかいを焼いて心の隙間を埋めているのだろうか。あまり褒められたことではない、というのはわかった。わかったけれど、だからと言ってミーティアに対してそっけなく接することはできそうにない。ある程度冷静に自分を見つめられたとして、その自分を矯正することができるかどうかは時と場合によるのだ。

 ミーティアは一応、自分より一つ年下だ。せめて、この心の迷いが悟られないように強くあり続けよう。それが先輩である自分にできる唯一の強がりだ。

 刀型LPの収まった鞘を持って、医務室を出る。ブリッヂに足が向きかけて、ふと思いとどまった。そう言えば、他の面々は任務で出てしまっているのだ。

 今、ドレッドノートに残っているのは千香とミーティア、そしてクレレだけだ。クレレは遺跡での任務が終わった時に顔色が悪かったようだが、大丈夫だろうか。おせっかいな自分に小さく苦笑して、千香はクレレの部屋に向かった。

 扉を軽くノックする。返事はない。ドアノブをつかんで音を立てないようにゆっくりと開けた。そっと中を覗き込むと、明りはついている。忍び足で中に入って、ベッドの前まで歩いた。

 白い制服を着た小さな少女は、ベッドの上で丸くなって寝息を立てていた。目元が濡れて小さく光っていた。アースワームとの戦いでミーティアに負担をかけてしまったことを悔やんでいるのだろうか。クレレは優しい子だ。ドレッドノートの中で最年少で、それでいて全ての船員をよく観察している。

 本人が直接戦うことはできないけれど、それでも自分の役目をしっかり果たそうとしているし、その努力に見合った相応の結果は伴っている。他人を気にかけるだけの余裕も持っているのだから、たいしたものだと思う。

 長いまっすぐな金髪を梳くように、クレレの頭を撫でた。寝顔に安堵の色が見え始めたと思ったのは自惚れだろうか。気持よさそうに眠るクレレの顔を見ていると、なんだか自分まで眠くなる気がしてきた。

 だが、留守中に眠ってしまうのは良くない。規則正しい生活を心掛けてきたこともあるし、ここで眠ってしまうわけにはいかなかった。音を立てないように明りを消して、部屋を出る。

 食堂でお茶でも入れよう。目の覚めるローズマリーが良い。少し刺激を与えないと、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだった。

 ゆっくりと歩き始めて、数歩進んだところで、足の力が急に抜けた。おかしい。そんなに疲れるような任務ではなかったはずだ。任務前の訓練の疲れが今更出てきたのだろうか。

 壁に手をついて、深く息を吐く。神経を研ぎ澄ませて、眠気に抗う。視界の端に、何か黒いモノが映った。

(魔、獣……? どうしてこんなところに……)

 危うく刀を取り落すところだった。そうせずにしっかりと鞘と柄を握ることができたのは、剣とともにあり続けた鍛錬の日々があったからかもしれない。

 袴に取り付けた丈夫な刀帯に鞘をくくりつけて固定し、低く構える。鯉口を切るのと踏み込むのは同時。神速の居合いが人の背丈ほどもある巨大黒カマキリの首と胴を切り離す。

 ゴトリ、と音を立てて、首から上が千香の足元に転がった。なぜここに魔獣がいたのか、千香にはわからない。訓練室の人工召喚核を誰かが持ち出したのか、天の部屋にあった回収済みの魔王石が誤作動でもしたのか。

 意識が睡魔にかき乱されていく。少しでも気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの、強制される眠気。

(まさか、催眠術式……?)

 訓練室の人工召喚核を最後に使ったのは千香だ。確かに動力は落としたはずだし、そうでなくても召喚された魔獣が訓練室の外側に出られないような工夫は施してある。天が回収した魔王石を誤作動する状態で放置していくほど愚かではないことは、千香も良く知っている。

 であれば、この魔獣の存在理由には何者かの悪意が介在する。ミーティアとクレレが眠っていたこと、そして千香も不自然な眠気を感じていることから考えて、強力な催眠魔術が行使されている可能性が高い。

 そうであるなら尚更、ここで眠ってしまうわけにはいかない。刀の柄を握る手に力を込めた途端、千香の体を激痛が走りぬけた。

「がっ……!?」

 刃の先を突き立てて、足元に転がっていた魔獣の首から上にトドメを刺す。首の根元にくっついていたカマが、千香の左足に食い込んでいた。トドメを刺された黒カマキリは霧散したが、千香の傷からは赤い液体が滴り落ちる。

 痛みは眠気を阻害する。悪意の持ち主を捜すため、千香は足を引きずって歩き出した。クレレの部屋から、訓練室へ。人工召喚核はその部屋の隅に鎮座していて、何者かが触れた気配はない。

 訓練室から出て、栽培室。魔導植物の発育の関係上、この部屋の照明は特殊なものになっている。目を刺激する嫌な空間だが、見渡しても何も怪しいものはない。

 医務室の入り口前に、黒い人影が立っているのが見えた。神経を集中して、その正体の気配を感じる。

 背は高く、黒いロングコートを着ている、おそらくは男。顔立ちは中性的で、しかしつりあがった目元口元が冷血な印象を与える。

 その紅い瞳にとらえられた瞬間、千香はひどい寒気を感じた。まるで、背骨の代わりに氷の塊を埋め込まれたようなおぞましい感覚。血の色だからだろうか。どうであれ、この男に悪意があるのは間違いなさそうだった。

 その男が脇に抱えているのは、眠ったままのミーティアだったからだ。

「何者、ですか」

 刀を体に引き寄せるようにして、切っ先をそいつに向けて威嚇する、突き八双の構え。白柳の剣は一撃必殺を基本とする。先の居合いもそうだが、この構えも非常に攻撃的な構えだ。

「答える義理はない」

 冷たく低く言い放った男はミーティアを抱える右手とは逆の左手を薙ぐように振った。

 轟音とともに放たれるのは火炎。空間を走りながら灼熱の紅い炎が千香に迫る。四元系の中でも攻撃性の強い火の魔術だ。

 蛇のように迫る炎をくぐりながら、千香は素早い踏み込みでその紅眼の前まで迫り、刃を突き刺そうとする。踏み込みによる前方への推進力と鍛え抜かれた一撃必殺の突きが放たれる。

 肩を縫い付けて相手の動きを奪ってしまえば、勝ったも同然。命を奪わずとも、相手の動きを完全に殺す、これが一撃必殺。

 だが、刃が通り抜けた軌道上に、男はいなかった。足の激痛が動きを鈍らせ、確実に相手を仕留める刺突の一撃を反らしたのだ。

 一撃必殺の白柳の剣は、防御を必要としない。突き八双の構えはその中でも攻撃的で、速度と力に特化している。つまり、完全に防御を捨てている。

 その一撃が外れれば、それは決定的な隙になってしまう。

「ぐ、あ……ッ」

 腹部に拳が突き刺さる。前方に突き抜ける勢いをそのまま利用されたのだ。殴られた個所が熱を帯びていくのが分かる。魔力素が渦巻いて、収束する独特の耳鳴り音。

「イグニス」

 それが魔術であると理解した瞬間に、爆ぜた。千香の鳩尾を完全にとらえた拳はそのまま前方に突き出され、火炎の魔術を放ったことを示す煙が男の掌から上がった。

 千香は背中から壁に打ち付けられ、そのままずり落ちるように座り込む。ショックで一時的に呼吸が止まる。空気の塊を吐き出して、呼吸が戻った時に感じたのは激痛。

 足の傷と、殴られた際の痛み。それから、しつこく意識を奪おうとする催眠術式。全てが白柳 千香を蝕み、殺そうとする。

 だが、負けるわけにはいかない。

「その子を、離しなさい……!」

 おせっかい焼きでも、自分のコンプレックスを誤魔化すためだとしても、ミーティアの秘密を知ってしまった以上、その秘密を守り続けると約束した。相手の目的が何であれ、ミーティアを連れ去られてしまうわけにはいかない。

 正面に構えて、立ち上がる。奥歯が砕けるほどに強くかみしめて、自分の意識を殺そうとする激痛を押しこめる。

「邪魔するな」

 紅眼の男はその手から炎を放つ。命を燃料として燃える火柱が千香の周りを取り囲み、動きを封じる。

 千香は増幅回路を取り出した。薄く小さな黄緑色のチップ。あまり魔術は使いたくなかったのだが、そうも言ってはいられない。刀の柄の駆動部にセットして、その術式を発動する。

 四元系の中でも攻防一体の動きを可能とする風の術式。刃の周囲を取り囲むように風が渦巻いて、その力を術者たる千香に委ねる。

 炎の壁に向けて振り下ろす一撃。風の刃が炎を切り裂いて、一瞬だが通り抜ける道が形成される。そのまま踏み込んで、返す一撃。斜め下から切り上げる刃は男の顔面をとらえるはずだった。

 千香は驚愕した。刃が切り裂く手ごたえが全くない。確かに、男の目を狙った一撃だったはずなのに。

 男の姿が消える。男は千香が斬りつけた場所よりも後ろに立っていた。炎を操る術だけではない。何らかの幻覚系術式も使う相手なのだ。

「あ……」

 終わった。再び放たれた爆炎の魔術で吹き飛ばされた千香の意識の中に、最後に浮かんだのは諦念。背中から再び壁に激突して、ずり落ちる。

 世界から光が消える。意識の中で敵の気配を知ろうとしても、その意識さえも奪われていく。周りを取り囲む炎が酸素を喰らい尽くし、足の傷から流れ出る血が体の熱を奪って、千香の意識を殺す。焼けるように熱いはずなのに、その感覚が自分のものでないような気さえした。






 やがて、力を失った手から剣士の魂たる刀が落ちて、小さな音で戦いの終わりを告げた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ