22:守るための力
二三隔壁管理所はひどい有様だった。謎の触手の化け物に侵食され、辺りにはここの職員だったであろう人間の死体がいくつも散乱していた。
シャンテは増援を寄越すとは言ったものの、到着の時間はまだ先になりそうだったため、エルナとノクスの二人は当初の作戦通りに触手達を切り捨てながら隔壁管理所の奥へ進んだ。
ある地点を踏み越えたところで触手の動きが活発になり、二人は分断されてしまった。触手達の動きからして、一ヶ所にとどまっているのは危険である。
結果として、二人は別々に隔壁管理所を進んでいく事になった。
幸い、クレレの探査によって管理所の大まかな構造は把握している。突入時に聞いたその記憶を頼りに、ノクスはしつこく追ってくる触手を切り捨てながら進んだ。
隔壁管理所は無数のエリアに分かれており、触手はそのエリアを隔てる扉を越えて襲ってくる事は――とりあえず、今のところは――無いらしい。
灰色の床のメインエリアから、明かりの無い薄暗い倉庫のようなエリアに移動して身を潜め、ノクスは深く息をついた。
薄い扉を隔てた向こうでは、まだ粘液をまとった触手の這いまわるグロテスクな音が断続的に響いている。
倉庫の入り口には、胴が真っ二つにちぎれて絶命した男の上半身が転がっていた。このエリアに逃げ込む寸前に食い殺されたのだろう。
手には小さな鍵が握られていた。扉の鍵と言うには小さく、隔壁管理所の設備と比べてかなり古くなって黒ずんでしまっている。
この哀れな男が、小さな鍵を持って慌ててこのエリアに逃げ込もうとした事は間違いないようだ。何か脱出のために役立つものがあるかもしれない。
温度センサーが働いているのか、少し奥へ進むと倉庫内の蛍光灯が一気に点灯した。先ほどまでのエリアの白い光と違う、やや青みがかった光が倉庫に満ちた。無機質で清潔感漂う明かりだが、あまり長居したいと思えるような色ではない。
倉庫はいくつもの縦長の棚が平行に並んでいて、そこには古めかしい紙媒体の資料や非常食などの物資が保管されていた。
黒いひび割れた革の背表紙の本が目に留まった。ひび割れているとは言え、他のホコリを被ったものよりも手入れされていて、この本がある場所だけ不自然に綺麗である。
おそらく最近使われたものだろう。ノクスはその本を開いた。今時、紙媒体の本は古い専門書か秘匿性の高い重要文書に限られる。この本もそのどちらかだろう。
『深淵の魔に対する対策
深淵の魔は不定期に発生し、襲いかかってくる。
発生を確認し次第、速やかにキーを用いて石化し、徹底的に砕く事。
キーの使い方は以下に示す通りである。
一、鎖をはずし、アルルーナの花弁を飲ませる
二、魔の発生エリアに放ち、三十分ごとに様子を見る
三、魔を砕き終えた後、アルルーナの根を飲ませ、再び鎖につなぐ』
あまり読んでいて気持ちの良い文章ではなかった。
キーと呼ばれる道具を用いて深淵の魔――おそらくはあの触手――を石化させ、それによって事態を収拾するのだろう。
だとすれば、あの触手は今回に限らず、これまで何度もこの施設を襲っていた事になる。
そして何より気になるのが、「キー」という道具。鎖につないでおり、アルルーナの花弁と根と飲ませるという表現から、おそらくは何らかの生物兵器であろう事が伺える。
アルルーナは魔導植物の一種であり、精神に強い影響を及ぼす薬品として扱われる危険物だ。花弁は興奮剤として、根は鎮静剤として用いられる。一種の強烈な麻薬的作用を持つため、使用はおろか栽培や所持にも厳格な規定があったはずである。
この黒い背表紙の本の近くには、ラベルのついていない白と黒の瓶が一つずつ置かれている。おそらくはそれが花弁と根だろう。
連邦が運営する施設だけあって、そういったものを扱う特権が与えられているのかもしれない。キーなる生物兵器も、アルルーナと同等かそれ以上に危険な存在なのだろう。
だが、この窮地を脱する方法の一つとして、今のノクスにとって有用な情報である事に変わりは無い。先ほど倒れていた男の持っていた鍵は、おそらくそのキーの鎖をはずすためのものだ。
もう彼には必要のないものだろう。千切れた男から小さな鍵を拝借して、更に倉庫の奥へと歩みを進め、突き当たりに到達したノクスは、絶句した。
手に持っていた鍵を取り落とすと、その金属を弾く高い音に、右手首を鎖につながれていたキーは怯えたように身を縮こまらせた。
「なんだ、これは……」
鎖につながれてそこにいたのは鋭い牙を持つ猛獣でも、害意を持った悪魔でもなかった。
まだ十才にも満たないような少女が、光の無い瞳で震えながらノクスを見上げていた。
彼女の身を覆うのはボロ切れ一枚で、右の手首は壁から吊るされた鎖につながれ、痩せこけた肢体を震わせて怯えていた。
「いったい、何が……」
喉の奥が焼けつくように熱かった。食いしばった歯の間から漏れる呼吸は不快な熱を帯びて、強く握りしめた拳から食いこむ爪が痛い。
「何が君をここまで追い詰めた……!」
絞り出すように零した言葉はつながれた少女を怯えさせるだけだった。
ノクスは小さな鍵を拾って、少女の手枷をはずしてやった。
―――◆―――
父は乱暴な人間だった。家にいる時は、酒を飲んでいるか暴力を振るっているかのどちらかだった。
母はそれに耐えかねて早いうちに死んでしまった。暴力の矛先は姉と幼い弟に向かった。
弟はただ恐怖し、姉の陰に隠れる事しかできなかった。姉は弟を守り、二度と立ち上がれない体になった。
そして、月日は流れ……。
「君も、立てなくなったのか……」
守られるばかりだった弟は、あの時自分をかばってくれた姉と、その影に隠れる事しかできなかった自分の両方に重なるその少女に手を差しのべた。
子供が弱いのは当然だ。守られて当然。守る存在がいるべきなのだ。
結局のところ、過去の自分の正当化なのかもしれないが、それでもノクスは手を差し伸べずにはいられなかった。
今はまだ安全かもしれないが、いつ扉の向こうの触手が薄い扉をぶち破って来ないとも限らない。そんなところに、子供一人を置いていくほうがどうかしている。
しかし、少女はノクスの手を握り返さなかった。どころか、鎖が外れて自由になったというのに、その身を縮こまらせて震えていた。
その瞳に映るのは繰り返された悪夢か、これから起こるかもしれない惨劇か。拒絶と恐怖に塗りつぶされた表情で力なく、首を横に振る。
ノクスは、胸の奥に不快な空気が溜まるのを感じた。やり場のない怒りが渦巻いて、けれどそれを表に出さぬよう、小さく息をついた。
彼女は病んでしまったのだ。鎖につながれ、およそ人間とは言えない扱いを受け、目に映る人間全てが恐怖の対象でしかなくなった。髪は色を失い、幼い瞳からは光が失われた。
己に向けられているものが優しさであろうと悪意であろうと、全てを等しく恐れてしまうその姿に、ノクスはかつての自分を見せつけられているようで苦しかった。
信じる事を忘れ、何か――恐怖の対象――に追われるようにがむしゃらに物事に取り組んでいたあの頃の自分は、今にして思えば情けない事この上ないものだった。
けれど、今は違う。相手を信じる事ができるし、相手に信じてもらう事もできる。
「僕は、ノクス。君の名前は?」
目線を同じ高さに合わせ、簡単な言葉で問いかける。今は、彼女の視界を奪う恐怖という目隠しを取り除いてやるのが先決だ。
青い光に照らされる二人の間に流れる沈黙が、少女を雁字搦めにしていた負の感情とともに少しずつ解されていく。
それだけの力が、ノクスの声と瞳にはあった。強さとはすなわち、優しさである。鼓膜から心を震わせる穏やかな声の調子と、瞳から心の奥底を優しく撫でるような目線。
自らの正体を明かし、そして相手の名を問う言葉は、しかし決して少女を急かしたりしなかった。
「……キー」
絞り出すように、恐る恐るといった感じで、少女が呟いた。おそらく、彼女が先ほどの書類に書かれていたキーで間違いないのだろう。
すると、彼女には何らかの強い力――深淵の魔とやらを石化させる力――が備わっているはずだ。
少し思案していたのが伝わったのか、キーは再び身を強張らせた。
「大丈夫。君の嫌がるような事はしないよ」
ノクスはすぐにキーの力に関する思考を捨てた。彼女にどんな力が備わっていようと、今の彼女を救う事ができるのは自分だけなのだから。
「こな……いや……」
今にも消えそうな震える声も、決して聞き逃さない。その意味を即座に理解し、ノクスは先ほど見た、ラベルの付いていない白と黒の瓶を手に取った。口の部分は細くなっており、指と指の間に挟む形で簡単に持ち上げる事ができる。
少女の声にならない悲鳴をよそに、ノクスは二本の瓶のプラスチック製のふたを取り外した。中の粉末は片方が茶、片方が紫色をしており、備蓄量はさほど多くないためか瓶は軽い。
花弁の粉末を呑ませる事で強制的に精神を高揚させ、石化させる力とやらを使わせたのだろう。同じ事をすれば、外にいる触手どもを無力化できるかもしれない。
けれど、ノクスはその選択肢を最初から捨てていた。おもむろに二本の瓶を逆さにし、その場に全ての粉末を足元に落としてしまう。
瓶が空っぽになったのを確認してからおどけたように笑ってみせる。灰色の髪の少女は、ただ目を丸くするばかりだった。
「……どうして?」
その反応を見て、ノクスは自分のとった行動が正解であったと確信した。瓶を適当に転がして、再び少女に手を差し伸べる。
「僕が囚われの姫君を助けに来た王子様だから、ってのはどうかな?」
しばしの沈黙。その後、キーは小さく首をかしげた。どうやら、意味が通じなかったらしい。
「ごめん、今のは忘れてくれ」
軽いジョークのつもりだったが、真剣に悩まれても困る。それに、こんなセリフを玲菜にでも聞かれたら、向こう一カ月くらいはこれをネタにいじられるだろう。
とにかく、彼女の心を解きほぐすという目的は達成された。それが確認できただけでも、気障なジョークで滑った甲斐があるというものだ。
「君を助けたいと思っているのは本当だ。こんなところからは、一刻も早く逃げ出そう」
恐る恐る伸ばされる小さな手。その手が、差し伸べたノクスの手を握った直後、背後の扉から不穏な音が聞こえてきた。
鋼に何かが衝突するような打撃音だ。どうやら、触手が本格的にこの倉庫への侵入を試み始めたらしい。薄い扉はみるみるひしゃげて、突き破られるのも時間の問題のように思われた。
もう時間の猶予はない。ノクスはキーの小さく細い体を抱き上げて、左手で抱えた。
「これから、君を安全な場所まで送り届ける。しっかりつかまってて」
戸惑いながらも小さくうなずいて、両手でしっかりと肩にしがみついてくれたのを確認して、ノクスは彼女を左手で抱えたまま、右手のブレスレットを騎士剣の形に変形させた。
記憶を頼りに、これから移動する先について冷静に考える。隔壁管理所のエリアは、ドレッドノートの艦が入ったポートエリア、中央部でありもっとも広いメインエリア、それに隣接する倉庫エリア等のサブエリアから成っている。
触手の化け物に侵食されているのはメインエリア。倉庫エリアから出てすぐの場所には、もう連中が徘徊している。これまで来た道はすでに触手に埋め尽くされていて引き返す事ができない。
可能な限り素早くエルナと合流し、触手をなんとかしてポートエリアに帰還しなければならない。エルナがあのままメインエリアを進んでいれば、彼はメインエリアに挟まれた最初のサブエリアに到達しているはずだ。
ここから引き返さずに、反対方向からそのサブエリアに到達する事ができれば良い。扉の外を確認すると、幸いにも触手達は別の場所に集中しているのか、突破できない量ではなさそうだった。
キーに力を使わせるわけにはいかない。彼女は長い間、鎖でつながれて道具として扱われ、精神を蝕むアルルーナの薬品によってやつれ、人間を恐れるようになってしまったのだ。
誰かを守るだけの力なら、この手にある。タイミングを見計らい、邪魔な触手を切り裂いて、ノクスは少女キーを抱えたまま隔壁管理所のメインエリアを駆け出した。
―――◆―――
無機質な黄色の壁に背中を預け、力なく座り込む。エルナは、剣を振り上げる事ができなかった。いつもよりも重く感じられたそれは、鈍い音を立てて傍に転がった。
マヤはナックルダスターをはめた拳を躊躇い無く機械にぶつけ、シリンダー内の生命を維持する装置を破壊した。そのたびに、シリンダーの中にいる少女が苦しそうにもがき、痙攣し、最後には力なくうなだれる。
最初にマヤがそうした時、エルナは止めようとした。けれど、できなかった。
「彼女達は意思を持たぬ魔獣。このまま生かしておくわけにはいかないのです」
「でも、そんなの……そんなの、実際に話してみないと」
「わからないでしょうね。これが復旧した隔壁管理所に解き放たれれば、また全滅です。
あなたにその責任が取れますか? 目先の悪魔の命を助けたがために、多くの罪無き命が奪われることの責任が」
納得などできるはずがなかった。クローンとは言え、一つの命に変わりは無い。
しかし、この状況で――隣接するメインエリアに触手の怪物が徘徊し、クローンエリアに二人だけが閉じ込められたこの状況で――、魔獣化した竜族の成長を放置するわけにはいかない。
自分が生き残るために、自分の命を脅かす存在を殺さなくてはならない。それは当たり前の事だった。これまでだってそうして魔獣を殺してきたし、そうする事に躊躇いもなかった。
けれど今は、シリンダーの中にいる命は、人の姿をしている。自分と大差ない年頃の少女も、その中にはいた。生命維持装置を破壊され、苦痛に目を見開いて死んでいった。
自分にとって守るべきものとは、何だろう。単に生命を守るだけなら、人の姿をした生命体を守るだけなら、この場のクローン達を見殺しにしてはいけないはずだ。
それなのに、体は動かない。クローン達は魔獣だ。解き放たれれば、他の生命を奪うだろう。そして何より、装置を破壊し続けるマヤの悲痛な表情が、エルナに身動きを許さなかった。
「……ありがとう。彼女達のために憤ってくれて。あなたはどうかその優しさを無くさないでください」
親友と同じ顔をした少女を、間接的にとは言え何人も殺さなければならない心境はどんなものだろう。想像するだけで心が抉られるようだった。
全てが終わった後、シリンダーの中には何も残されなかった。魔獣は死ぬと灰になって消滅する。大量の死体を見なくて済んだのは、幸いだったかもしれない。
オリジナル――マヤの親友だったドラゴン――も完全に魔獣化してしまっていたのか、その命が尽きるとともに体を灰に変え、消滅してしまった。
深いため息を吐いても、胸の奥につかえた重苦しい塊は消えない。
エルナは、剣を杖にして立ち上がった。
このままじっとしていると、もっと気が滅入ってきそうだった。なんとかここから脱出し、ドレッドノートへ帰る手段を探そうと辺りを見回して、
エルナはとっさに駆けた。その異常に気付かずに気を抜いてしまっているマヤを素早く抱き抱えて跳んだ。
直後、凝縮された空気の塊が先ほどまでマヤが立っていた場所に直撃し、その衝撃で二人は黄色い床を転がった。鋼の床が砕けて抉れ、大きな破片がエルナの顔の真横に落ちた。床に激突する際の鈍い音が恐怖となって全身を這いまわった。こんなものが直撃すればタダでは済まない。
恐怖に呼吸すら忘れかけるが、じっとしていたら第二波に押し潰されてしまう。エルナは強引に呼吸を整えて、近くに転がっていた大剣をつかみ直して構えた。
「……どうやら、一匹だけ生き残っていたみたいですね」
マヤも立ち上がって身構える。視線の先には、先ほどマヤが倒したものと変わらない黒いドラゴンの姿があった。成長しきったクローンが一匹だけ残されていたらしい。
マヤはもう消耗しきっていて本来の姿に戻る事はできないし、かと言ってエルナも一人でドラゴンの相手ができるほど強いわけではない。スティグマ事件の終わりに戦ったドラゴンとほぼ同形の相手だが、あの時だってミーティアと千香の二人がかりで、エルナが傷を負わせたドラゴンをやっと倒したくらいだ。
今この場には、魔導砲を撃ってドラゴンのブレスと正面からぶつかり合えるような反則的な力を持つ者はいない。状況は不利を通り越して絶望的ですらある。
剣を構える手に汗がにじむ。真っ向から突っ込んだのでは、鋼すら抉る高圧ブレスに直撃してひき肉にされてしまうだろう。なんとかそれをかいくぐって、一撃を入れなければならない。
スティグマ事件後のドラゴンとの戦いとほぼ同じ状況。違うのは、目の前のドラゴンが片翼を折られた状態でない事と、ブレスの種類だ。
空気を圧縮した風のブレスなので、その攻撃範囲が視認しづらい。予備動作から軌道と範囲を見極め、回避しなければならない。
小細工をする暇はなかった。マヤが動きまわってドラゴンの気を引いてくれている間に、素早く身体強化の増幅回路を二つ、大剣にセットする。負荷も大きいが、一撃で勝負を決めるなら必須だ。
首を振り上げ大きく空気を吸い上げる予備動作が始まった。同時に、エルナは駆け出した。首と巨体の方向から、ブレスはマヤを狙ったものではなく、エルナを狙ったものらしい。
首を振り下ろしながら圧縮された空気の塊が飛来する。大気がわずかに歪んだのを見てからでは遅い。それが認識できる頃には、エルナはすでにブレスの直線軌道上から反れ、緩やかな弧を描くようにドラゴンの真横方向に回り込み、肉薄していた。
ドラゴンはブレスを吐いた直前直後の短い間だけ、硬い鱗の装甲が柔らかくなる。そこを狙って、増幅回路の力によって青い光を帯び、強度を増した大剣を叩き込む。首から翼を切り裂いて、エルナの剣はドラゴンに深い傷を負わせた。
ドラゴンは耳を塞ぎたくなるような鋭い悲鳴を上げて大きく後退し、その場に崩れ落ちる。
「や、やった……!」
手ごたえは十分だった。腕の筋肉は加熱していたが、それでもまだ息切れしていない。スティグマ事件のドラゴン戦以来、トレーニングを強化していた効果が出たらしい。
確実に強くなっている。目の前のクローンを殺さなければならないという事実には心が重くなるが、マヤを助ける事はできた。努力が実を結んでいる事を実感できた。ある種の充実感のようなものに満たされて、深く息をついて、
「避けてください!」
「えっ」
マヤの鋭い声に顔を上げると、前方の空気がわずかに歪んで見えた。
ドラゴンのクローンが傷つきながらも再び立ち上がり、もう一度ブレスを放ったのだ。
―――◆―――
圧縮された空気の塊が硬い物を叩く音が聞こえた。けれど、痛みは無い。
「ダメじゃないか。トドメはしっかり刺さなきゃ」
前方にドラゴンは見えなかった。代わりに見えたのは紺のジャケットを着た背中。その前を覆うように展開された巨大な盾。
聞き覚えのある声と、見覚えのない盾だった。
「天に改良してもらったのさ。ドラゴンブレスから身を守るためにね」
まさかこんなに早く役に立つとは思わなかったけど、と続けて、ノクスは前方のクローンドラゴンを睨みつけた。
ノクスのLPはメタモルと呼ばれる特殊なタイプのもので、登録されたあらゆるタイプの武具に形を変える事ができる。エルナが見た事のある形状は剣、大槌、槍、クロスボウの四種類だったのだが、どうやら新しく盾の形状を扱えるようになったらしい。
「すぐに片づけるから、しばらく待ってて」
そう言ってノクスは少女をその場におろして頭を撫でた。この施設で保護したのだろうか。かなり痩せていて、ボロ切れ一枚しか身にまとっていない、十才にも満たないような少女。
少女はノクスの言葉に小さくうなずいた。
「エルナ、少しの間この子を見ててくれるかな」
「あ、はい」
エルナが安全だとわかったのか、少女はエルナの服をつかんでしがみついた。エルナは小さくて軽い少女を抱きあげた。
そして、前方のクローンドラゴンのほうを見る。驚くべき事に、エルナが斬りつけた時の傷が溶けてゆがんだ形に接合され、奇妙に回復していた。
翼と首の傷がつながった形で治癒したのだろう。その過程を想像して、エルナは顔をしかめた。
「いやー、驚きました。魔獣化で再生能力まで身につけちゃったんですね」
魔獣には再生能力を持つ者もいる。体内の核を潰さない限り、何度でも傷ついた肉体を再生できるのだ。
このドラゴンは、クローン複製による副作用か、その再生能力が異常に作用してしまったらしい。
いつの間にやらマヤがクローンから見てノクスの後ろに隠れていた。先ほどまでの憂いの表情は無く、これまで会った時と同じような能天気で快活な調子だった。
「うーんしかし借りができてしまいましたね。今度おいしいコーヒーでも奢りましょうか」
「その申し出は素直に喜べないけど、言ったからには覚悟してよ。僕はコーヒーにはうるさいんだ」
ドラゴンを前にして軽口を叩けるのは頼もしい限りだ。だが、奇妙な再生をしたとは言え、腐ってもドラゴン。ブレスが飛んでこないわけではない。
盾で防ぐにしても限界があるはずだ。防いでばかりでは勝つ事はできない。
「さて、そろそろ君の力を借りたいんだけど」
ノクスの声の先には、鉄の腕をまっすぐドラゴンに向けた黒いロングコートの何者かがいた。
「フン、言われずともこの出来損ないを焼き切る準備はとうにできている」
低く威圧するような声には、聞き覚えがあった。できれば、もう二度と聞きたくない声でもあったし、聞く事は無いだろうとも思っていた。
「イグニス」
ドラゴンがブレスを放った瞬間、紅い目のその男は口元を釣り上げて嗤い、鉄の腕から轟音と共に熱線を放った。
熱線はクローンドラゴンの核を撃ち抜き、それだけでは飽き足らず、反対側の壁に綺麗な円形の穴を開けた。あらゆる衝撃を想定して作られたはずの合金の壁が、考えられない程の高熱によってくり抜かれてしまったのだ。
「う、うわ、うわ……!」
灰になって消滅したドラゴンのいた場所を一瞥し、その背の高い紅目の男はエルナ達の方に向き直った。その目に見つめられるだけで、背骨の代わりに氷の柱を埋め込まれたような恐ろしい寒気がした。
「ありがとう。助かったよ」
ノクスがメタモルをブレスレットに戻し、その男に礼を言う。
「勘違いするな。俺は邪魔な魔獣を消しただけだ」
ノクスには目もくれず、黒いロングコートの男はエルナのほうにつかつかと歩み寄ってくる。血の色をした瞳に睨まれて身動きできず、エルナはただ立ち尽くすしかなかった。
「おい貴様」
鋭い声に肩が跳ねる。が、その言葉はエルナに向けたものではなかった。
エルナが抱き抱えている少女を覗きこんで言っているらしい。
こんな威圧的な態度に少女が怯えないはずがなく、彼女はエルナの制服を強く掴んで震えていた。
いきなり手を出してくる可能性も無いとは言えない。いつでも回避行動が取れるように身構えようとするが、その前に予想外の言葉が飛び出した。
「怪我は無いか」
「……えっ?」
その場にいた誰もが固まった。強面の男に睨まれて言われた言葉がこれでは、すぐに反応しろというほうが無茶である。
「怪我は無いかと聞いている」
不機嫌そうな男の威圧に、少女は更に強くしがみついて、けれど首を縦に振った。
それを見てようやく満足したのか、男は鼻で小さく息を吐いてエルナから離れた。
「またまた驚きました。あのヘルテイト・バーレイグがまさかロリコンだったなんて!」
「今度余計な事を言うと口を縫い合わすぞ」
「へえ、そんな腕になっても裁縫はできるのかい? 器用なもんだね」
「貴様、消し炭になりたいらしいな」
黒いロングコートの男は、スティグマ事件でドレッドノートと敵対した魔導師、ヘルテイト・バーレイグ。
ノクスや玲菜の活躍で逮捕されたはずだが、シャンテの言う「増援」とはこの男の事らしい。四区に来た際に、投獄されていた彼と接触していたのだろう。
天との戦いで失った左腕には黒光りする鋼の義手が取り付けられ、先端は手というよりも太い棒状になっていた。先ほどの熱線砲もそこから出ていたことから、義手として魔導砲のようなLPを装着したらしい。
「僕をこんがりウェルダンにしたところでおいしくはないよ。もっとも、そんな事をしている余裕はなさそうだけど」
「フン、しつこいイカだ。よほど腹が減っていると見える」
寒気のするようなブラックジョークのやり取りをやめ、ノクスとヘルテイトは遠くの壁に開いた――ヘルテイトによって開けられた――大きな穴を見た。もっと寒気のするような存在が、そこから這い出てきた。
粘液を滴らせながらうごめく、人の腕ほどの細さの灰色の触手。芋虫のようにその無数の触手を這わせながら、先ほどのドラゴンにも劣らないような大きさの得体のしれない生物がその姿を現した。
球体に近い全身に無数のこぶが付いており、そのこぶから触手が生えた異形の存在。それは今までに見たどんな魔獣とも異なる気配を持っており、近くにいるだけで体ごと押し潰されそうな重圧感を放っていた。
その体の中心、触手の生えていない場所の黒い皮膚が裂けて、嫌な水音を立てながら開かれる。そこから現れたのは、巨大な目だった。睨まれるだけで足から力が抜け、エルナはその場に膝をついてしまった。
何かしら呪術的な力を持った視線だという事に気がついたときにはもう遅い。四肢は言う事を聞かず、金縛りにあったかのように動かない。
「あれは、あぶっても……おいしくなさそうだね。身は、引き締まってるかもしれないけど」
「軟体生物風情が……!」
ノクスやヘルテイトも、エルナと同じように眼光に見据えられて力が抜けてしまっているらしかった。ノクスは剣を杖にして立っており、ヘルテイトも自らの機械の腕を支えにようやく倒れずに済んでいると言ったところだ。マヤもその場に倒れて、動けないでいる。
本体と思しき目とは反対方向の壁から、また触手が這い出てくる。黄色い部屋が灰色のそれに埋め尽くされて、退路は完全に断たれてしまった。
不気味な一つ目がグロテスクな音を立てて動き、エルナ達を睨んだ。
―――◆―――
目の魔力を受けなかったのは、グレーの髪の少女ただ一人だった。
他は皆膝をついたり剣を杖にしていたり、魔族の女性はより強く影響を受けてしまうのか、その場に倒れこんでしまっていた。
鎖をはずしてくれた青年が震える足で立ち上がり、襲い来る触手に備える。力が抜けてしまったなら抜けてしまったなりの動き方ができるのか、緩慢でありながらも無駄のない動きで触手を切り捨て、後ろにいる少女や動けない面々を守ってくれる。
後方の触手は紅い目の男が作り出した炎の壁に阻まれて進んでこられない。
だが、それも時間の問題だと、紅目の男は言う。
「俺の魔力が枯渇するか、奴の体力が尽きるか。どちらにせよ、長く続きはしないだろう」
忌々しげに粘液をまとった触手達を睨み、紅い目の男は機械の腕から炎を吐き出して壁を維持している。
「おい、力を使え」
肩が跳ねた。紅い目の男には、自分の正体が見抜かれている。少女は、急に寒くなった気がして、自分の肩を抱いた。
力。幾度となくあの触手達に向かって使わされてきた、呪いの力。自分がそれを持つ古代の遺物である事を知ったのは、鎖につながれながら朦朧とした意識の中でこの施設の職員達の会話を聞いていた時だった。
茶色い粉末状の何かを飲まされた後、意識が自分の物で無くなるような嫌な感覚がして、気が付くと触手達に向かって呪いの力を解き放っている。それが終わると、また鎖に繋がれる。
人の足音がすると、また粉末を飲まされるのではないかと怯え、やってきた職員に対して首を小さく横に振るのだが、少女に拒否権は無かった。
呪いの力を使うためには、あの粉末が必要。自分の意識を蝕んで、自らの奥底に眠る悪魔を呼び醒ますあの薬が。だというのに、紅い目の男は今ここで力を使えと言ってきた。
「どの道、お前が力を使わなければ俺達はここで終わりだ」
全身を嫌悪感が這いまわる。せっかく得た自由、無限に続くと思われた牢獄の中の生活から連れ出してくれた人、初めて暖かいと感じた、人の温もり。それも、つかの間の夢に終わる。ここで力を使って触手を排除しなければ、あの部屋の入り口に転がっていたモノのように、全員無残に引きちぎられてしまう。
「でき、ない」
震える声と一緒に出てきたのは、涙だった。その熱が頬を伝って、手に落ちた。
「お前にはそれができる。お前は人工遺物だ。自らの力を制御する術を持ち合わせているはずだ」
もう一粒、大粒の雫が手のひらにぶつかって弾けた。
嫌だ。粉末を飲まされる時に感じていたのとは違う感情の高ぶりが、瞳から溢れだした。
「力を使え。失う事が怖いなら、その手で勝ち取る事だ」
失う事が、怖いなら。
牢獄から自分を解放してくれた人も、鎖につながれることなく自由に動ける手も、涙を流す事を知った心も。その全てを、失いたくない。
「あの……!」
自分を救ってくれた青年を、今度は自分が助ける。小さな拳に決意を握り締めて、少女はまっすぐ顔を上げた。
―――◆―――
人間は追い詰められた時、心を強く持つために何かに頼ろうとする。
それは身近な存在であったり、貫き続けてきた信念であったり、あるいは精神に作用する薬物であったりする。
父は薬に溺れていた。母はそれを止めようとして、死んだ。
そう聞かされたのは、姉が歩けなくなってからだった。薬物に蝕まれる前の父は、もっと優しい人間だったと、姉は言った。
家族を守るため、仕事の心労に押し潰されそうになっていたところを付け込まれて、壊されてしまったのだと。
そう聞いた途端に、頭が熱くなった。今にして思えば、それは怒りだけによるものではなかった。恐怖や情けなさが混ざって、幼い自分には制御の効かない感情になっていた。
『もう沢山だ! 守ろうとして勝手に潰れるくらいなら、最初から構わないでよ!』
四区の学園寮に引き取られてからすぐに、行き場のない感情を押し付けてしまったまま、姉とは疎遠になった。
なんて勝手な理屈だろう。身を呈して自分を守ってくれた姉に向かってわめいた言葉は、感情に任せて暴力を振るった父と何ら変わらない乱暴なものだった。恩知らずにも程がある。
それに気付いた時には、もう後戻りできなかった。姉は先に学園を卒業してしまったし、自分はそれ以来意地を張って姉と会おうともせずに、ただ目標に向かって努力し続けていた。否、努力というよりは逃避だったのかもしれない。自分の気持ちをコントロールできない弱さから目を反らすために、目標とか努力という名で呼ばれる目隠しはとても有効だった。
数年後、ドレッドノートへの配属希望が通って、ついに姉を守れる立場になった。
そこで初めて、人を守るという事について自分が甚だしい誤解をしていた事に気が付いた。
『一方的な感情は悲劇の元になるわ。あなたの原動力になる気持ちの先にいる人とあなたの間に、信頼関係はあるかしら?』
信頼。互いが互いを信じ、そして互いを守る事。一方的に守ろうとするだけでは、簡単に潰れてしまう。けれど、相互に守ろうとする力は、それよりもずっと強い。
ノクスはそれを知っている。だから、キーが触手の化け物を倒すために協力を申し出てきた時も、真剣に応えた。