21:竜の涙
ドレッドノートのブリッヂで、紺のダブルジャケットを着こなした長身の青年が、お気に入りのマグカップを揺らして茶色の水面を見つめた。
気持ちを落ち着けてくれるその液体も、今は感傷的な気分を増長する要因になってしまっていた。
手首にいつもつけているブレスレットは、今は天に預けている。無性に軽い腕が、いつも使っているものの重みを再認識させた。
ドレッドノートの副艦長。副艦長とは名ばかりで、実質的にただの戦闘員と変わらない。それ自体はどうでも良いし、若いクルーの中で二番目の年長者なのだから、常に周りに気を配っているくらいはできる。
ただ、その戦闘員としての腕に疑問が生じると話は違ってくる。ドラゴンと戦った時、有効な攻撃手段を持たないまま逃げ回る事しかできなかった事、集中を欠いて負傷してしまったという事実が、己の未熟さを突き付ける。
ディガンマ事件で、天が自分を頼ってくれなかった事もそうだ。あの時は一人で突っ走っていた彼を一方的に殴ってしまったが、自分の腕が信用されていなかった事に対する八つ当たりで無かったかと言われて、完全に自信を持って首を縦に振る事はできない。
守るためには、力が必要だ。それはかつて守られる事しかできなかった時に痛感させられた事でもあるし、連邦騎士団に姉を人質に取られた時にも思い知らされた。少しは強くなったはずだった。もう守られるだけの存在ではないと、そう証明するためにドレッドノートに加わったのに。
気が付けば、更なる力に脅かされるだけ。これでは、あの時と何も変わらない。
こんな事を突然考えるようになったのは、やはりディガンマ事件とそれに付随する彼らの変化のせいだろう。ブリッヂにやってきた二人は、以前ではあまり見ない珍しい組み合わせだった。
「ざっと見たとこ、かなり古めかしい作りだな。それでいてよくできてやがる。下手に手を加えるとダメになっちまうタイプだ」
「そうなんですか。メンテナンスで気を付ける事とか、ありますか?」
「その辺は一般的なLPと変わらないな。たまにはオイルで磨いてやれよ」
「はい!」
大剣を背負った少女……に見える少年と、煤けた白衣姿の青年。方やドレッドノートの研修生であり、方やドレッドノートの技術担当である。
この二人が一緒にいる事は、以前ではあまり無かった。というか、天のほうが昼間に寝て夜に活動する生き物だったため、誰かと二人で歩いている事自体が珍しい事だった。
彼なりにふっきれたところがあるのか、最近では生活リズムがめっきり規則正しくなってしまった。雰囲気も以前のものから棘が無くなって丸くなってしまっている。こちらが本来の彼なのだろうが、まるで別人だ。
彼から手が差し出される。指先で細かい作業をしているためか、手はノクスのものと比べてやや黒ずんで見えた。
「ほれ、できたぞ」
「ああ、ありがとう。後で早速試してみるよ」
受け取ったブレスレットを傍に置いて、もう一度カップの中のコーヒーを飲む。ここでいつもなら嬉々として性能の説明を始めるはずなのだが、天はそれをせずにいつもの指定席に深く座ってため息をついた。
「君がため息なんて珍しいじゃないか」
「俺にも色々あるんだ」
「てっきり、魔導機械と千香ちゃんの事しか考えてないのかと思ってたよ」
「そいつぁ間違ってねェな」
皮肉や嫌味が通用しないところは相変わらずだ。変わったところと言えば、剣と千香について言及する際に嫌な顔をしなくなった事だろうか。ディガンマ事件の解決と共に、彼の中で渦巻いていた葛藤についても整理を付けたと言う事だろう。
千香のほうは逆に、あれから時折表情を曇らせるようになった。何か思い悩んでいるようだったが、昨日、ついに倒れてしまった。兄があれなら、妹も一人で抱え込みがちになるらしい。こうなった原因については天に心当たりがあるらしく、先ほど千香の部屋へ行って話をしてきたとのことだった。
「悪いね。忙しいのに時間を取らせて」
「ついでだ、ついで。新しい技術がある程度安定してきたからな。そいつを活用できるならそれでいい」
自分の技術について誇らしそうに語るところも変わっていない。
守りたいモノのため、という理由だけではないだろうが、己の力を磨き続ける姿勢はとても眩しく見えた。
嫉妬に近い面白くない感情を紛らわすため、視線を反らす。天と一緒にブリッヂに入ってきたエルナは、適当な場所に座って、その小さな体躯に見合わぬ大剣を見つめて何か考え込んでいた。
その背後からジリジリとにじり寄る影。ノクスがそちらのほうを見ている事に気付くと、人差し指を立てて、「バラさないで」とサインを送ってきた。
「わっ!」
「ひゃあああ!?」
急に背中を叩かれて、エルナは悲鳴を上げながら跳び上がった。そして、小さな悪戯の正体に気付いて、深くため息をついた。
実に無邪気だ。子供っぽい悪戯に抗議する少年と、照れ隠しに笑う少女の姿が、自分と姉に重なった。
(この年になってホームシックとはね)
冷めたコーヒーは不味かった。
―――◆―――
最初は憧れだった。剣を振るう後ろ姿に追いつきたくて、同じ地平を眺めたくて、自分も剣士になる事を誓った。
いつしか、いつまで経っても追いつけない苛立ちが募って、本当の気持ちを忘れていた。
超えたかったわけじゃない。近づきたかった。ぶっきらぼうだけど優しくて、やる気が無いようで真剣になると誰よりまっすぐな目をするあの人に。
千香は自分の部屋のベッドの中で目を閉じて、もう一度眠ろうとした。
ここのところ眠れなかった。目を閉じると、肉を切り裂くあの感覚が蘇った。
目標だった人を斬って、斬って、斬り刻んで、そんな事望んでいなかったのに、夢の中の自分はまるで無感情に刃を操り、無抵抗なあの人を血に染めていった。まるで、あの機械人形になってしまったかのように。
そんな悪夢で目が覚めて、眠る事が怖くなった。何日もそんな状態が続いて、結局、倒れてしまった。さっきもまた、見たくない悪夢にうなされて、目が覚めた。
思い当たる理由はたった一つ。三区王宮のパーティの警備をしていた時に聞きそびれてしまった、あの人の本当の気持ち。それに何かを期待している自分と、その答えを聞いてしまう事を恐れる自分のせめぎ合い。あの人に対する自分の気持ちも、これまで考える事を避けてきた。
きっと、それを考えている内に、不安だけが膨らんであんな夢を見せていたんだろう。あの人の気持ちを聞いた今では、不安は嘘のように消えていた。
あの人を斬った時の感覚は、まだ忘れていない。忘れてしまいたくない。他の何かを斬る時と同じであった事に失望し、絶望したのは、その感覚に特別な何かを求めていたから。
もしもこの気持ちを、好きと呼ぶのなら。絡まる迷いの糸も、少しずつ断ち切っていける。そんな強さを与えてくれる感情を、まだ伝えないでおこうと思った。
(兄さんが、焦らしたんですからね)
照れくさそうに部屋を出ていった兄の表情を思い浮かべながら、千香は安らかな気持ちで意識を手放した。
―――◆―――
背後から幼馴染に驚かされて心臓が飛び跳ねるような思いをした後、エルナはまた形見の剣に目を移した。刀身は腹が広くなっており、鈍色の輝きを放っている。重量感を感じさせるものだし、実際に重たいものでもある。
背負ってきたその剣の重さは、エルナにとっては負担と言うよりも心強い味方だった。この大剣を託してくれた人に会うためだと思えば重たいそれを扱うための体力作りは苦にならなかったし、何よりその重さが戦いの中では強力な武器になった。
ひょい、とミーティアがエルナの後ろから剣を覗き込む。
「天さんに調べてもらったんだっけ?」
「うん。この剣を託してくれた人の事が、少しはわかるかもしれないと思って」
刀身に刻まれた名前と、エルナに名前をつけてくれたという事実。それ以外は何一つわからない、LEONARDという人物を探すため、エルナは剣を振るう事を決意した。
残してくれた剣に手掛かりがないか、科学的に調べれば何かわかるかもしれない。そう思って、天に調べてもらったのだ。
「なんで、今更?」
「だ、だって、最初は天さんがすごく怖そうで、頼めなかったんだよ……」
天はいつも仏頂面をしていたし、任務の時以外、昼間から起きている事が全くと言っていいほど無かった。何を考えているのかわからず、かと言って話し掛けるには威圧的な雰囲気が強く、ディグラルディの屋敷に突入する時になってようやく彼が心根の優しい人間なのだとわかったくらいだった。
それ以降はディガンマ事件の解決まで暇が無かったため、ここまで先延ばしになってしまっていたのだ。
「なんか、エルナがこの船に配属された理由がわかってきたよ」
「う、あの時は……」
円環状の宇宙は分厚い壁で四つの区域に隔てられている。地球を含む、人類が最初に存在した場所を第一区画として、反時計回りに第二区画、第三区画、第四区画と続く。
ドレッドノートが弱小艦と呼ばれてしまっていた理由は、区画間を分かつ隔壁を通り抜けるために必要な装備を持っておらず、辺境の第四区画から出られなかったためだ。
エルナの目標とする、剣を託してくれた人は第四区画の外にいる。役所に調べてもらった第四区画居住名簿の中に、LEONARDなる人物はいなかった。本来なら、エルナは第四区画から外に出る事のできる、もっと有力なギルドに研修に向かうべきだった。
それが出来なかったのは、エルナが犬に吼えられただけで飛び上がってしまうノミの心臓の持ち主だからだ。戦いの中で剣を握っている時は平気だが、どうも平時には度胸が小さくなってしまう。
自分の優柔不断さ、要領の悪さを思い出して自己嫌悪していると、ブリッヂの正面にある大スクリーンに高優先度通信を示す黄色いメッセージボックスが表示された。
高優先度通信は、一般通信よりも通信ワーム内の領域をより広く確保する事ができるが、それに見合うだけの費用がかかる。二三隔壁に向かっているドレッドノートに対して、この方式で通信を求めてくるとすれば、相手は限られてくる。
メッセージボックス内に表示された通信元の名前は、CHANTEZ。見送りのためにわざわざ高優先度通信をしてきたとは考えにくい。などと考えていると、艦長室にも連絡が行ったのか、玲菜がブリッヂに駆け込んできた。
ノクスが手元の操作で通信をつなぐと、後からクレレやアエルと燐もブリッヂにやってきた。千香以外の全員がこの場に揃った事になる。
ブリッヂ正面の大スクリーンに映し出されたのは、金髪を結い上げた空色の瞳の女性。第三区画の王女だが、今は王族としてでなく連邦騎士団として連絡してきているらしく、服装は初めてドレッドノートと接触した際の白一色のワンピースのようだった。
「すまん。二三隔壁、開かないらしい」
スクリーンに映し出された金髪の女性――シャンテ――は、彼女らしく簡潔にそう言った。
ドレッドノートは現在、第三区画と第二区画を隔てる二三隔壁に向かっている。次の任務は第二区画でとあるギルドに接触する事なのだが、このままでは第二区画へ行く事ができない。
「詳しい状況の説明をお願いできるかしら」
「それがな……」
シャンテの説明は全く以って格式ばったものではなく、親しい友人の間で交わされる会話のようなものだった。
彼女自身はさほど深刻ではない風に振る舞っているが、事態は芳しいものではなかった。
四つの区画を仕切る隔壁にはそれぞれ管理所が存在し、隔壁の通過や一時封鎖が適切に行われているかどうかを常に監視している。
二三隔壁の管理所との通信が途絶えたというのだ。ここしばらく、第二区画が隣接する二つの隔壁については封鎖されていたのだが、それを解除する際には何ら異常は存在しなかったという。
「そこでだ。緊急任務として、隔壁管理所の様子を調査してほしい」
「拒否権は無いのよね」
「働きに応じた報酬は約束しよう。関連文書を転送しておいたので、確認しておいてくれ」
玲菜の承諾によって、ドレッドノートは進路を変えた。連邦騎士団からの依頼である第二区画での任務は、現状続行不可能である。その障害を取り除くための任務であるため、アエルはこの件にも特に反対しなかった。
各人に任務に出る準備をするよう指示が出され、すぐに作戦会議が始まる事になった。
―――◆―――
二三隔壁の隔壁管理所は、円環状の宇宙の中央に近い場所に位置している。
円環状の宇宙の中央には『昏き深淵』と呼ばれる事象の境界面によって区切られた観測できない空間が存在し、それを取り巻くように連邦が航行禁止区域を定めている。
航行禁止区域よりも内側へ行ったところで法的な罰が与えられる事はないのだが、安全な航行は保障されなくなる。光すらも外へ出てくることのできない事象の境界に近づく愚かな行為は、どんな命知らずでもしない。
隔壁管理所は、そんな航行禁止ラインのギリギリに位置している。区画間の移動の全てを管理する重要な施設であるため、外部の人間を極力近づけたくないのだ。
ドレッドノートの遠前方に、蜘蛛のように足を広げた無機質な機械の建造物が姿を現す。その足の一本から一筋の赤い光線が円環の外側に向かって放たれており、第二区画と第三区画の隔壁がそこに存在する事を表している。
赤い線を許可なく越えようとすると、強制的にその線から内側に戻されてしまう。通行許可を得た艦だけが、区画間を行き来できるのだ。
現在、その区画間隔壁システムに異常が生じているらしく、許可を発行してもこの赤い線を越える事ができないという。このような不具合が生じた事件は過去にも存在しないわけではないが、たいていは隔壁管理所の働きですぐに復旧する。
今回はその復旧すらできていない。そこで、ドレッドノートが管理所を調査する事になったのだ。
異変はその施設に近づいただけですぐに全員が感じ取れる程のものだった。
「なんか、嫌な感じ……」
漠然とした感想を述べたミーティアに、エルナは頷いた。見回しても、誰もが妙に胸騒ぎのするような不快なものを感じ取っているようで、ブリッヂは重苦しい空気に包まれていた。幼いとは言え、連邦騎士団から派遣された燐が縮こまって耳を塞ぎながら震えているのは奇妙だった。
「魔王石、だな」
天が困惑気味に言った。別に、魔王石そのものが珍しいわけではない。問題は、それなりに距離のある施設の内部にその気配をはっきりと感じる事ができるというところにある。
魔術的慧眼に優れた人物であっても、一般的な規模の魔王石の気配を感じ取ることができる範囲はせいぜい半径十数メートル程度が限界だ。遠方に見える施設から、魔法の心得も素質も無いエルナにも感じられる程の気配となれば、尋常な規模ではない。
隔壁管理所の内部の状況は、おそらく芳しくないだろう。魔王石によって呼び寄せられた魔獣がひしめいている可能性が高い。突入直後からの戦闘はまず避けられないものだと、その場にいた全員が理解した。
「これは高く付くね」
ノクスの声を合図に、エルナ達も立ち上がった。
「これより、二三隔壁管理所へ突入する。ノっくんとエルナちゃんは無理しない程度に深部の調査、天ちゃんとミーティアちゃんは突破口を開いたら艦の防衛、クレレちゃんは私と後方支援。良いわね?」
玲菜の指示にドレッドノートのメンバー全員が了解の返事をし、昇降口へと向かう。
のだが、エルナは一人、ブリッヂを出る前に立ち止まった。
「あの、大丈夫?」
しゃがみこんだまま動かない白い少女、燐に手を差し出そうとするが、その手は途中で止まってしまった。
顔を上げた少女の目が白く、焦点の合っていない虚ろなものだったから。彼女がまとっていたか弱い気配が一辺して、虚ろな視線が殺意となってエルナを貫く。
怯えていた表情は消え、左右に長く裂けた狂気的な笑みが、エルナを恐怖に染め上げた。
「死にたいの?」
静寂に響く鈴のような声。燐は白く細長い指を伸ばして、エルナに近づいてくる。逃げなければ命は無い。けれどもエルナは金縛りにかかったように動く事が出来ず、呼吸さえもままならない状態だった。それほどの恐怖が、エルナを押し潰そうとしていた。
指がエルナの顎に触れんとする。その距離がゼロになった瞬間に、終わる。ここまで来た決意とか目標が全て消え去って、ここまで築いてきた関係や生活も無くなってしまう。とても恐ろしい事なのに、動く事はできない。
粘性の強い時間の中で、エルナは死を強く意識させられた。嫌だとは思っていても、動こうとする意思が筋肉に伝わらなかった。目を閉じて、震えながら時を待つ事しかできなかった。
「おい」
誰かの声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、エルナは自分が無事だった事に安堵して尻餅をついた。
燐はアエルに首根っこを掴まれてグッタリしている。
「あ、ありがとうございま」
「急いだ方がいいだろう」
エルナが助けてもらった礼を言い終わる前に、アエルは燐の首を掴んだままブリッヂを出て行ってしまった。
とにかく、よくわからない二人である。エルナにとっては、どちらも悪い人ではないような気がしているのだが、特に燐のほうが全くわからない。
普段は部屋に籠りっきりで、外に出てきても言葉を発しようとしないし、目を閉じて眠っているかのような状態であることが多い。
先ほどの豹変と何か関係があるのかもしれない。けれど、それ以上の事は考えてもわからないだろうと思考に区切りをつけて、エルナは昇降口へと向かった。
―――◆―――
これ以上の消耗はまずい。冷たい鋼の壁に背を預け、縁の無いメガネをかけた女性は暴れる呼吸と鼓動を整えようと胸を抑えた。
白いブラウスは所々煤けて黒くなってしまい、黒いスカートも破けて不細工なスリットが入ってしまっている。
物影に隠れる事はできたが、この状態も長く続けていられるものではない。
何としてでも、ヤツラの目をかいくぐって深部にたどり着かなければならない。
そこまで考えて、龍見 マヤは恐ろしい違和感に襲われた。理解を拒もうとする本能を無理やり抑え込み、思考をめぐらす。
目。そうだ。
ヤツラの目はどこにある?
悪寒と予感に突き動かされ、背を預けていた壁から素早く離れる。
直後、金属の歪む嫌な音と共に、鋼の壁はハチの巣になっていた。分厚いはずの鋼の壁には無数の無造作な穴が開き、そこからヤツラの片鱗が姿を見せた。
ぐねぐねとうねる、粘液に包まれた細長い何か。手足のように自在に操る事ができるらしく、外敵に対しては容赦なく攻撃を仕掛けてくる。
撃退しようにも、打撃では粘液に阻まれてまともにダメージを与えられない。その癖、逃げても逃げても追いかけてくる。
無数の触手に四方を囲まれ、もう逃げ場は無くなった。触手はどこか見えない場所から伸びてきている。その奥に目があるのか、あるいは目が無くても獲物の場所を正確に知る能力があるのか。
どちらにしても、これ以上考えている余裕はなさそうだった。覚悟を決め、眼鏡をはずそうとした。
瞬間、マヤの脇を何者かがすり抜けた。それに驚いて身動きが取れないうちに、その何者かが振るう大剣が青白い軌跡を描きながら触手達を斬り落としていく。
二度三度瞬きする間に、マヤを取り巻いていた触手達は全て切断され、転がる残骸がまとわりつく粘液で蛍光灯の光を反射していた。
「大丈夫ですか?」
剣を下ろした少年が振りかえった。どうもよくよく縁のある相手らしい。マヤにとっては少し複雑な気分だった。
「うーん、今回は生勇者様に借りを作ってしまいましたね」
おどけた調子で言うと、不服そうな視線が飛んできた。
「どうして、こんな危ないところに一人で来たんですか」
「真実を追い求めるため、なんて曖昧な言葉じゃ納得してくれないんでしょうね」
ドレッドノートの研修生の目は真剣そのものである。玲菜から聞いている通り、こうなったらもう誤魔化し切る事はできないだろう。
いかに情報を得るためとは言え、命の危険を伴う場所に単身で乗り込むジャーナリストはいない。普通なら護衛をつけるところだ。
マヤが魔窟と化した隔壁管理所に一人でやってきたのには、相応の理由がある。
目的地へ続く鋼の廊下を歩きながら、マヤは口を開いた。
「魔獣の成り立ちは、ご存知ですか?」
―――◆―――
魔獣という言葉は本来、今の魔族を指すものだった。
人間の側が悪意を持って接したりしない限りは無害な存在であり、第三区画のリヴァイアサンのように時として人よりも優れた知性を持っている。
魔族という言葉は、人を襲うようになってしまった同胞と自分達を区別するために造り出された言葉だと、マヤは言う。
魔族の魔獣化は、魔王石が原因となっている。魔族が魔王石の影響を強く受け続ける事で肉体が変質させられ黒く染まり、やがては意思を失って無差別に人を襲う魔獣と化す。
一般に言われる、魔獣が円環状の宇宙の中心、すなわち昏き深淵から来たとされる説が間違いであるかどうかはわからないが、魔族が魔王石によって魔獣となるケースは確実に存在すると言う。
そして驚くべき事に、その変質が人為的に起こされる場合もある。
マヤが関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を蹴破ると、そこから先はそれまでの灰色の建造物とは雰囲気が異なっていた。
白い蛍光灯ではなく、薄暗い黄色の照明が一定周期で――鼓動するかのように――明滅している。壁や床の材質も、これまでのように灰色ではなく、黄色か、あるいは白色のそれが照明に照らされて黄色く見えていた。
天井がこれまでの部屋よりもずっと高く、それが誰もいないこの空間の不気味さを増していた。
「ここは魔獣炉。捉えた魔族の情報と魔力を吸い出してクローンを作るための施設です」
マヤは淡々と語った。その瞳はいつものように輝いたそれではなく、遠い過去を見つめるように細められていた。
ところどころに赤い線模様の入った黒い石が底に敷き詰められた巨大な透明のシリンダーの中に、膝を抱えた一糸纏わぬ姿の少女が眠っていた。
いくつも並んだシリンダーのうち半数程は、まだ子供と言うべき幼い姿の少女が液体の中に浮いており、奥へ向かうに連れて成長した体のそれに変わっていった。
見た目は人間のそれとほとんど変わらない。ただ一つ違うのは、背中に小さな翼のようなものが生えているという事だけ。これは、竜族の証なのだという。
Aから順番にシリンダーに番号が割り当てられており、液体の中に浮かぶ少女は精巧に作られた人形なのではないかと錯覚させるほどに生命感に溢れ、しかし微動だにしない光無い瞳が何か重大な欠落を思わせた。
マヤの言葉を裏付ける言葉が、シリンダーの前にある小さなディスプレイ上に表示されていた。
『コードEの成長 第七段階へ到達。栄養剤の投与量を更新。
...更新は適切にコミットされました』
何かが低く唸る音と共に、シリンダー内部の上下から機械のアームが伸び、Eという番号が割り当てられた少女の両腕両足を掴んで固定。アームに細長い針を突き刺され、瞬間、少女の体が大きく震えた。
『栄養剤 投与完了。生体スキャンを行います。
...個体に異常無し』
エルナは背筋を何か得体のしれないものが這うような悪寒を感じた。不快感が胃からせり上がってくるのを感じて、顔を伏せて口を抑える。
「誰が、こんなものを……」
「考えるまでも、ないでしょう」
誰も近づかないような隔壁管理所に隣接して造られているのだから、この施設を所持しているのは連邦に違いないだろう。
連邦が秘密裏に魔族をさらい、装置にかけてクローンを生成していた。
用途は考え得るだけでも様々だ。最も簡単なものは、自作自演による政治的利用だろうか。この施設で作られたクローンを暴れさせ、それを迅速な対応で鎮圧すれば支持の獲得につながる。
この施設の存在が明るみに出ても、罪を別の何者かに押し付けて糾弾し、この施設の撤廃を推し進めれば結果は変わらない。
「人間ってのは、命までも複製して食いつぶす生き物なんですか」
マヤの声は震えていた。
「その命が紡いで築き上げてきた記憶も夢も、友とのつながりさえも踏みにじって……!」
最も奥のシリンダーに手を当て、マヤは深く息をついた。
「下手に告発すれば、かつてのバーレイグがそうされたように、竜族狩りに発展するかもしれない。ここが機能不全に陥った今が、チャンスだったんですよ」
連邦という巨大な組織の上部が隠し持っていた施設なら、この魔獣炉の存在に気付いた者を生かしておくのは彼らにとって都合が悪い。全宇宙に情報を提供するスペースタイムズの記者となれば尚更だろう。
何かしらもっともらしい理由をつけて、マヤ及びその関係者を消しにかかってくる可能性は十分に考えられる。
魔獣炉をカモフラージュする隔壁管理所が機能不全に陥り、謎の触手に占領された今、誰にも気付かれずに魔獣炉に侵入する事は容易い。逆に言えば、これほどの異常事態でもなければ立ち入ることすらできない場所だったのだ。
突如、マヤを中心に強い風が巻き起こり、エルナは風に押されるようにして後退し、尻餅をついた。
マヤはその場に静かに立ち、最奥のシリンダーの中に眠る女性を睨んでいた。
「かつての親友です。私の手で始末をつけさせてください」
マヤはリヴァイアサンに竜族の娘と呼ばれていた。つまり、言葉の通りマヤは人間ではなく竜族なのだろう。
そして、この場所にとらえられていた竜族の少女達のオリジナルは彼女の親友だった。
エルナは、連邦ほどの大きな組織がこんなむごい事をするなんて信じたくなかった。けれど、マヤの言葉にウソは感じられない。
眼鏡を外したマヤの体が変質していく。夜空に星を散りばめたように美しく輝く翼、硬質で強靭な鱗、あらゆるものを貫く鋼鉄の爪と牙。
白い竜となったマヤがその拳でシリンダーを強引にぶち破ると、中にいた女性が目を覚まし、その濁った瞳をマヤに向けた。
生気の無い目で立ち上がった女性も、その姿を巨大な翼を持ったドラゴンへと変えていく。魔獣炉の影響を強く受けすぎて、全身が黒く変色してしまった竜へと。
小柄なエルナの三倍はあろうかという巨体が二つ、正面からぶつかり合う。
「そんな……こんな、ことって……」
エルナはそれを少し離れたところから見ていた。見ている事しかできなかった。
命を賭して危険な場所へ踏み込み、そして、かつての親友を殺す。その覚悟がどれほどのものであるかなど、エルナには想像すらできない。
それが悲しい事だとはわかる。口から吐き出す真空のブレスを黒い竜に叩きつけ、強靭な顎で噛みつく白い竜の瞳に、透明な雫が浮かんでいるのは見間違いではない。
けれど、エルナに止める事はできない。マヤの悲愴な覚悟の前で無責任な事は言えないし、何よりドラゴン同士の戦いに割って入るだけの勇気もない。
もっと別の解決があるのではないか。そう言いたくても、目の前で繰り広げられる戦いの迫力とマヤの決意の強さが、エルナに身動きを許さなかった。
やがて巨体が崩れ落ち、人の姿に戻ったマヤが親友の亡き骸を抱き締めて、涙と共に小さな声を落とした。
「遅くなって、ごめんね」