18:交わる事のない線
「なにを、してるんですか」
青い草原の中に立つ青年に問いかけても、答えは返ってこなかった。
感情が死んだような冷徹な眼差しを向けてくるだけだ。
彼は右手でいつも使っている杖型のLPを担いで、左手を腰に提げた刀の柄にかけていた。
放たれるのは無言の威圧。ここから立ち去らなければ、間違いなく戦いになるだろう。
「力ずくで止めろってことですか……!」
千香の心に、ふつふつと怒りが湧いてきた。大臣を殺し、三区王宮を敵に回すという行為はドレッドノートに対する裏切りである。
それを兄である天が行ったという事実は千香にとって衝撃的なものだったが、同時に憤慨させられるものでもあった。
天は以前から興味の対象外の事に関しては無頓着だった。彼が身勝手な振る舞いをしても許されてきたのは、身勝手の程度をわきまえているからでもあり、与えられた仕事はしっかりこなしてきたからだ。
だが、今は己の欲望を満たすために一人で暴走している。これは赦しがたい事だった。
全ての時間を剣に捧げてきた千香がうらやむだけの素質、実力を持っておきながら。魔導工学に関しても卓越した知識と技術を誇っておきながら。どうしてこの男は、それを自分勝手な空想を実現するために使おうとするのか。
目標だったのに。超えたい背中だったのに。ずっと、追いかけ続けてきたのに。
強く在り続けてくれるという信頼を、常に一歩先で涼しい顔をしていてくれるという期待を、くだらない機械人形のために裏切って、幻滅させるのか。
鞘から刃を抜き放って、青眼に構える。天も同じように抜刀し、しかし右手には杖を持ったまま、左手で剣を構えた。
本気の戦いになる。これは稽古ではない。剣だけの戦いでは、ない。
最初の剣戟。斬り結んだ刃を押してつばぜり合いへ。右手に握った別の武器も密接すれば無力化できる。だが、それは読まれていた。
力を横へ受け流され、頭部を狙った杖による殴打が放たれる。それを鞘で弾いて、千香は一度転がって距離を取った。
立ち上がり際に切っ先を左へ向け、横一文字に構える。追撃は草原の大地から生える異質な鋼の刃だった。
天の足元、杖でなぞられた場所から銀の輝きが奔り、錬金系の術式によって構成された鋼の剣が飛び出す。
まっすぐに千香を狙って飛来するそれを素早く下段払いで弾き飛ばし、深い踏み込みから返す刃で左斜め上へ一閃。金属の激突が甲高い音を奏で、杖が宙を舞った。
呼吸を研ぎ澄ませた渾身の一撃は片手で受け切れるものではなく、杖を手放した天は地を蹴って後退する。千香も同じように距離を取り、遠間へ。二人から遠く離れた場所に杖が落下して突き刺さった。
これで、現実的に使用に耐えうる魔術は封じたと言っても良い。だが、天が諦める気配は無かった。左に持っていた剣を右に持ちかえ、鞘に納めて低い姿勢で構える。
千香も納刀し、柄に右手をかけた。抜刀術の構え。先の先の読み合いを制した方が勝つ、極限の緊張状態。
神経を張り巡らせ、一筋の光の線を手繰り寄せるように、深い呼吸を大気に溶かす。
風が止み、凪の状態となっても二人の距離は分かたれたまま。真剣を用いない稽古試合では到底経験し得ない、高揚感さえもたらす程の切迫が、次の一陣の風と同時に臨界を迎える。
刹那。交わる事のない一対の光の線が奔り、剣を振り抜いた二人は互いに背を向ける格好になった。
膝をついて、両手を地面についたのは千香。
何も考える事ができなかった。全身が震えて、目の前の青い草原の光景が歪んで見えた。
背後から鈍い音がした。
「あァ、クソ……」
気息奄々の呼吸の合間に、せき込みながら絞り出す声は弱々しい。
振り返ることが恐ろしかった。けれど、千香はそうせざるを得なかった。
剣を握った手に確かに感じた手ごたえが、嘘であって欲しいと思っていたから。
いつものように悠然と、涼しげな顔で立っていてくれる事を期待していたから。
現実は無情で、冷たい。
大の字に倒れた青年の、腰から胸を通り過ぎて肩にかけて、逆袈裟に走る赤く深い傷。今にも消えてしまいそうな浅い呼吸と、力の抜けた手から転がり落ちる剣が戦いの終わりを告げた。
立ち上がり、血振りを終えてゆっくり納刀する。今まで何も考えずに行ってきたその動作を、こんな状況でも冷静に行えてしまえる自分が恐ろしかった。
ふらふらと――自分が歩いている感覚さえわからなかったけれど――近づいて、顔を覗く。血の気が引いて、目もまともに開けていられない状態の痛々しい姿が、千香の心を抉った。
「俺の剣はナマクラだ」
己の無力を呪うように。天は歯を食いしばって拳を握った。
「迷いの一つも、斬れやしねえ」
意識をつなぎとめる最後の糸が切れたかのように、天の体から力が抜けた。
草原を撫でる湿った風が、千香の目尻から零れる透明なものをさらっていった。
―――◆―――
昼間だというのに、大海洞の近辺には誰もいなかった。
血塗れの天を背負ってドレッドノートにたどり着くまで、千香は誰にも会わなかった。
大事なものが全て抜け落ちてしまったかのように、兄の体は軽かった。
艦に戻るとエルナが出迎えてくれた。千香とその背中でぐったりしている天を見て驚いていたが、艦長を呼んでくるように頼むと慌ててブリッジのほうへ走っていった。
医務室のベッドに天を寝かせる。彼の来ていた青い作業着はすでにかなりの面積が赤黒く染め上げられ、それとは対照的に肌が蒼ざめていた。
エルナに呼ばれて駆け付けた玲菜によって、治癒魔術が行使される。今回の任務の報酬として手に入れていた、治癒魔術の能力を飛躍的に向上させる大海洞の聖水を使用したため、彼の傷は驚くべき速さでふさがった。
「何があったか、教えてくれる?」
一通り可能な治療が終了した後、玲菜は千香の方に振り向いて聞いた。
「私が、斬りました」
頭の中を巡るその事実だけを、言葉にした。それ以上の説明はできなかった。
玲菜は小さく息をついて、しばらく部屋で休むように言ってくれた。
きっと、自分は今、さぞ余裕のない表情をしているのだろう。千香は玲菜の心遣いに甘えて、部屋に戻る事にした。
帯から鞘ごと刀を抜いて、ベッドの脇に置いた刀掛けに託す。
何も考えられなかった。血に濡れた背中が冷たくなった。同じつくりの予備の衣に着替えても、寒気は消えなかった。
紺の道着に血痕は目立たないが、そのままにしておくわけにもいかない。脱いだそれを洗濯用のカゴに放り込んでしまうと、もう何もする事が無くなった。
普段なら、刀を持って訓練室へ向かうのだが、今、千香は剣を握りたくなかった。
いまだ手に残る、人の肉を斬るおぞましい感覚。これまでも、魔獣やならず者を斬り捨てた事はあった。今回の手ごたえも、それと同じ。
同じだからこそ、恐ろしかった。刃の前には善悪も貴賤も無く、切っ先が描いた線にとっては全てが等しく剣の錆びとなる。
ベッドに座って、剣を見る。今握ってしまえば、何か別の物を斬ってしまえば、この手の感覚が消えてしまう。新しい手ごたえに上書きされて、忘れてしまう。
ずっと目標にしてきた、超えたいと思っていた相手だったのに。この戦いで超えたはずなのに、得られた感情は求めていたものと、違う。
「千香さん? もしもーし」
すぐ傍から声を掛けられて、千香ははっとした。ノックの音にも、部屋に入ってきたミーティアの気配にも気付いていなかったらしい。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
「私は、平気です」
目を合わせる自信はなかった。うつむいていると、ミーティアは無遠慮に千香の横に座った。
「でも、千香さん泣いてる」
言われて、初めて頬を伝う熱いものに気が付いた。
気が付いたら止まらなかった。今、自分は後悔している。悲しんでいる。それに気付いた時、溢れる涙はもう止めようがなかった。
背中に手が回されて、暖かい感覚に包まれる。
「つらかったね」
抱き寄せられ、降ってきた言葉の意味を理解して、千香は声を上げて泣いた。
「斬っちゃった……。わたし、にいさんを、きっちゃった……」
たった一人の兄、超えたいと思っていた存在、心の支えですらあった相手を刃で斬り裂いた事に対する後悔。その感情の激流が声と涙となってとめどなく溢れた。
兄の裏切りを知った時の失望と怒り、戦いの最中に感じてしまった昂り、ずっと目標であって欲しかったという身勝手な願い。渦巻くすべての感情を懺悔しても、ミーティアは黙って受け止めてくれた。
やがて激情が落ち着いて、もう大丈夫だと軽く胸を押すと、ミーティアはすぐに解放してくれた。
「また、情けないところ見せちゃいましたね」
思えば、スティグマ事件の時もそうだった。何もできない自分の無力さを嘆く千香を、ミーティアが励ましてくれた。
「千香さんだって、私の秘密を黙って胸にしまっておいてくれたよ」
ミーティアは首を横に振ってから、「だからおあいこ」と言って微笑んだ。
一人で抱え込んでいた先ほどまでより、心はずっと軽くなった。一つ深く呼吸して、立ち上がる。
「艦長にも事情を説明しないと。それから……兄さんからも、話を聞かないと」
消えない不安も、それを共有してくれる相手が一人いるだけでだいぶ楽になった。
―――◆―――
日が落ちて夜が辺りを覆う頃。医務室のベッドで眠る天を見つめながら、エルナは今回の事件について考えていた。
どうして、こんな悲劇が起きてしまったんだろう。実の兄を斬ったという千香の言葉は、寒気がする程に震えていた。
その後で報告を受けた天の行動も気になる。どうして彼は大海洞へ一人で向かったのか。どうして、大臣を殺さなければならなかったのか。
否、大臣を殺したかどうかはまだ確定した情報ではない。千香が目撃したのは殺す瞬間ではなく、大臣の死体を見下ろす彼だったのだから。
「夜、か」
「気が付いたんですか」
うっすらと目を開けて、呟くように言った天の言葉の中には、底知れぬ深い感情が渦巻いていた。
「面倒かけたな」
「その言葉は、千香さんにかけてあげてください」
エルナは苛立っていた。白柳 天という青年はどうも自分の事を話したがらない。それはそれで構わないのだが、何も話さないまま周囲の人間に迷惑をかけるような行動をするのはやめてほしい。
ヘルテイトの事件の時は玲菜達と事前に意思の疎通が済んでいたらしいが、今回は誰も彼の行動の真意を知らない。せめて何か相談してくれれば、こんな事態にはならずに済んだかもしれないのに。
「何があったんですか」
天は口を噤んだ。エルナは質問を変えた。
「本当に、天さんが大臣を殺したんですか」
天の眉が動いた。しばらくして何かを振り払うように深くため息をついてから、ベッドに寝たままの青年は話し始めた。
「俺だよ。俺が作った魔導機械人形、ディガンマが殺したんだ」
エルナは己の耳を疑った。ディガンマは昨日、四人で破壊したばかりだからだ。
その時は、天も一緒にいた。ソアが大槌でディガンマを再起不能な状態にまで潰し、天はその後ディガンマを調べていたはずなのに。
「あれはただの劣化コピーだ。別にオリジナルのディガンマがいる」
天の話は驚くべき内容だった。かつて彼が作り上げたという、自立魔導人形。それがディガンマのオリジナルだと言うのだ。
その人形は危険すぎたため、第四区画から追放された。それをどんな経緯でか知らないが、第三区画の大臣が手に入れてコピーを生成していたらしい。
大臣が本当にそのような事をしていたのかはわからないが、裏付けはある。彼は魔族との開戦を望む過激派寄りだったし、ディガンマのコピーを倒したエルナ達が帰ってきた時に宴の準備を申し出たのは、第三者――特に、ドレッドノート――が大海洞へ来る前にディガンマ・コピーの残骸を回収したかったからだと言うのだ。
大海洞周辺に見張りがおらず、大臣が一人で死んでいたのも彼が人払いを済ませたため。
では何故、天は誰にも告げずに一人で大海洞へ行ったのか。
「夜が恐ろしいと思ったことはあるか」
不意の問いにエルナが言葉を詰まらせている間に、天は続けた。
かつて、魔導工学の全能性を固く信じていた少年がいた。
少年は家柄上、剣の稽古を強制される身だったが、剣は好きではなかった。
そんな物騒なもの、人間が振るう必要はない。そんな野蛮な事をするよりも、ずっと何かを作っていたい。
そう考えた少年は、魔導の力で動く機械の人形を作った。
人形は剣を振るう事ができた。少年が思い描いていたよりも、ずっと鋭い剣閃だった。
人形は魔法を使う事ができた。少年が思い描いていたよりも、ずっと強い魔力だった。
その両方を以って、少年は自慢しようとした。機械に剣が振るえるものかとバカにした祖父を見返したかった。
夜になって、人形はひとりでに動き出した。
人形は少年の歪んだ願いを具現化したものだった。壊せば、また作れる。純粋で、純粋すぎて狂った願いは、取り返しのつかない結末を呼んだ。
少年は魔力を奪われた。人形が動くためにはその動力として、多大な魔力が必要だった。
祖父は片目を奪われた。人形が示した剣の腕は、達人と称されていた少年の祖父の片目を潰す程のものだった。
少年は夜に眠る事を恐れた。
「でも、それがどうして一人で行く事につながったんですか」
「あのジジイが遅れを取ったんだ。達人でもない奴がアレに勝とうと思うなら、刺し違える覚悟が無くちゃならねぇ」
何を言っているのかわからなかった。わかりたくなかった。エルナは奥歯を噛みしめた。
「それだけで、千香さんと戦ったんですか……!」
悔しかった。自分だけではなく、ドレッドノートの全員が見くびられていると思った。
握った拳が白くなるくらいに力が入って、腹の底からわき上がって来る憤りを喉元で抑える事で精一杯だった。
「少し怪我させる程度で済ませて、それからディガンマを壊すつもりだった。お前の言う通り、見くびってたんだろうな」
天は上体を起こした。傷はすっかりふさがっているが、まだ痛みが残っているのか、表情を歪めて胸を抑えた。
無理に起き上がらないように言おうとして、エルナは異変に気が付いた。突然の頭痛に、頭を抑えていると、布摺れの音がして、ベッドから天が立ちあがった。
彼を止めようと立ち上がろうとするが、頭痛が激しくなってしまい、ベッドに向かって倒れ込む形になってしまう。
少し逡巡してからサイドテーブルの上に置かれた新しい作業着を着て、天は意味深なため息をついた。
「なに、を……」
「ったく、艦長も人が好すぎだ。こういう救えねえ頑固者は縛りつけとかなきゃ、また何かやらかすんだって」
自重気味な声が聞こえる。頭痛が徐々に収まっていくが、それと同時に急激な眠気がエルナを襲った。
背中から掛け布団をかけられ、穏やかな声が降ってきた。
「じゃあな、新入り。元気でやれよ」
「天さん、ダメだ……」
去っていく足音を聞きながら、エルナの意識は闇に飲み込まれた。
―――◆―――
「どこへ行くんですか」
医務室を出た天を待ちかまえていたのは、千香だった。どうやら、先ほど催眠術式発動の時間稼ぎのためにエルナにした話は全て聞かれていたらしい。
「ちょっと風に当たりに出てくるだけだ」
「杖と刀を持ってですか」
睨みつけてくる目は険しい。先ほどの会話を全て聞かれていたなら、当然だ。
これ以上誤魔化す事に、意味はない。天は千香をまっすぐに見返した。
「甘く見ていたんですね」
「ああ、その通りだ」
言った直後に、千香の動きが止まった。いや、止まるように仕向けた。
催眠術式を発動させるだけの時間は無かった。無ければ、作ればいい。
強引に重ねた唇から伝わるのは全身が痺れる程の甘い痛み。震えるまつ毛、驚愕に見開かれた瞳の中に光が揺れて。
時が止まったような錯覚、眩暈のする瞬間が互いの動きを全て封じ込め、脳髄を甘美な背徳という名の毒が侵食していく。
やがて、抱き寄せた体から力が抜けて、千香は倒れ込んだ。
「甘く見すぎてたんだよ。お前への想いを」
抱き止めた相手の重みと苦しそうな寝顔は、刃で受けた傷よりもずっと痛かった。
もう戻るまいと思っていた自分の部屋のベッドに寝かせて、艦を後にする。
やはり、大海洞に至るまでは誰も見当たらなかった。ディガンマを利用しようとして逆に殺されてしまった大臣だが、やはり彼の亡き骸はまだこの洞窟に放置されているらしい。
青い景色の中に入ってすぐに、天は抜刀した。右手の杖に増幅回路をセットして、いつでも戦える体勢を取る。
冴える銀の刃が断ち切れなかった迷いを呼び起こす。ずっと彼女の目標でありたかった。ずっと、自分だけを見ていてほしかった。
なんて甘く、傲慢で、独りよがりな願望。相手の気持ちを考えもせずに、自分の感情だけを押し付けて、それを続けていたいだなんて。結局、その弱さが抜刀居合いでの敗北につながったのだろう。
「くだらねぇ」
呟く最後の魔法。全てを捨てて大洞窟を駆ける。青い草原には大臣の亡き骸が放置されていた。
その脇に隠していた魔王石の欠片に向かって杖をかざす。奴が好むのは魔術の匂い。魔王石から力を溢れさせる事で、おびき出す。
赤黒い肉体を鼓動させながら、二本の剣を握った機械人形がその場にやってくる。ゆっくりと、確実に獲物を射程にとらえるために。
構えを待つつもりなどなかった。杖を地面に突き刺し、草原に大量の銀の刃を発生させる。ディガンマは避ける素振りも見せなかった。天を中心に、同心円状に次々と発生していく銀の刃は、その機械人形の周りだけ避けていた。
魔術が通用しない。
この機械人形に魔力を奪われ、LPと増幅回路に頼った術でなければ実用性が低い彼の魔術は、せいぜい小細工程度にしかならない。
勿論、小細工が通用するような相手ではない。
「上等だ……ッ!」
刺突の一撃が弾かれ、甲高い金属音と同時に次の一撃が飛ぶ。
天の髪が舞い、額に赤い筋が入って、しかしその隙に杖による強烈な殴打が機械人形の肩を襲う。
衝撃波が視認できる程の打撃。身体強化系の術式ならば、相手に影響を及ぼす事が無いため、ディガンマの周囲でも無効化はされない。天の腕への反動も尋常ではないが、構ってなどいられない。
転がって衝撃を緩和させようとする機械人形に更なる追い打ちをかけるべく、剣で薙ぎ払う。刃の激突から、その反動を利用して立ち上がるという無茶な芸当を成し遂げたのは、機械だからこそだろう。
しかし、そこに隙が出来る。振りかぶった杖はもう一度、今度こそ左肩を再起不能にしようと打ち下ろされる。
花が咲くように、一際大きな音がして、杖の先端に存在する駆動部が砕け散る。もう、魔術にしても何にしても使い物にはならないだろう。天はそれを投げ捨てた。
「結局、最後はこれしか残らねえのか」
ディガンマの肩も、一対のうち左側が粉々に砕け散る。激しい衝撃を与え続けた結果だろう。あとは一撃。奴の心臓部に刃を突き刺せばそれでいい。
体力も腕の筋肉も限界が近い。これが、最後の一撃になる。腰に引きつけて切っ先を前に向け、駆ける。奴の右腕が刃を振り下ろす軌道は、天にとって間違いなく致命的なものだった。それでも、避ける事は考えない。考えていたら、こいつを壊す事はできない。
時間の流れが泥の中にいるように遅い。心臓部を貫かんとする刺突と、斜めに斬りつけてくる斬撃。先に届いたのは刺突。だが、
貫けない。赤黒い躯体に突き立てた刃は、しかし強固な鎧に阻まれたかのように、それ以上奥へ突き進む事はない。ディガンマの動きは止まらない。吐き気を催す程緩やかに流れる時間の中で、突き付けられた決定的な敗北と振り下ろされる刃。
激しい衝撃によって、天の意識は暗転した。
―――◆―――
襟首を掴まれ、無理やり起こされる。抵抗する気力は残されていなかった。
再び訪れる激しい衝撃。今度は顔面に対して。先ほどのものよりもっと直接的で、脳がシェイクされるようだった。視界が回って、天は草原を転がった。
「少しは目が覚めたかい?」
痛みに耐えながら声の主を見上げる。紺色のダブルジャケットを着こなした長身の青年だ。腕につけたクロスボウがその形状を変えてブレスレットに戻る。周囲にディガンマの姿がないので、彼が追い払ったのだろう。一度目の衝撃はどうもそういうことらしかった。
二度目の衝撃は、彼の握った拳が物語っていた。見下ろしてくる冷たい視線が痛くて、天は目を反らした。
「君は恐れなき者の意味も忘れてしまったのか」
「俺が、何を恐れたって言うんだ」
恐れるものは全て捨てたはずだった。けれど、鋭いノクスの目は天に残されたあらゆる迷いを見透かしているように揺るがない。
「恐れてばかりじゃないか。だから、自分を犠牲にして逃げる事しか考えられないんだ」
天は奥歯を噛みしめた。心の中では必死に否定したがっていても、筋の通った理屈が出てこなかった。吐き出したい怒りは、生き長らえてしまった事で生まれたわずかな冷静さが押し込めた。
誰にも、ディガンマと戦わせたくなかった。その行動原理からして、そもそも矛盾しているのだ。ディガンマに仲間が斬り殺される事を、恐れていた。天の行動は、その恐怖から逃れるために、自分一人で突っ走っていただけに過ぎない。
「全く腹立たしいね。僕は怒ってるんだ」
ノクスのため息と強く握った拳から、やり場のない怒りが伝わってくるようだった。
これだけ身勝手な裏切り者を前にしたのだから、怒って当然だ。突き付けられる苦い痛みに耐えるように、天は目を閉じた。けれど、次のノクスの言葉ではっと目を開いた。
「君が僕らを信じてくれなかった事も。君の信頼を勝ち取れなかった僕らに対しても。彼女もきっと同じ気持ちだ」
そう言ってノクスが視線をやった方向には、天が最も守りたかった少女が立っていた。
紺の道着と袴、武術に携わる者の正装に身を包み、長い髪を首の後ろで一本に結わえた少女は、倒れたままの青年に駆け寄って、抱き起こした。
「大丈夫ですか?」
「どういう、事だよ……」
天には、信じられなかった。裏切り、傷付けた相手がどうして自分を心配しているのか。
どうしてこんなに、声を聞いただけでほっとした表情をしているのか。
全く以って、理解できなかった。偽りのない「良かった」という言葉。それをかけてもらえるだけの信用が、残っているはずはないのに。
抱き締めてくる力は強くて、少し苦しい以上に暖かい感覚が伝わってきて。目頭が熱くなって、視界が霞んだ。
「あァ、クソ……」
あれだけの事をしたのに。こんなに心配される資格などないはずなのに。
いっそ刃で貫いてくれたらどれだけ楽だったか。けれど、背中に回された手は柔らかく、優しく心を抉る。
誰より守りたかった確かな温度は震えていて、天が抱え込んでいた意地や決意を簡単に粉砕してしまった。
「君の剣はナマクラなんだろ? だったら」
ノクスの視線の先にいたのは、天が眠らせたはずの研修生。
彼は両手に大釜を抱えていて、その横にはそれを支える王女の姿があった。
「どんな名剣よりも切れる頭で戦えばいい」
ずしりと。心に重く響く信頼の言葉。
「やれやれ、王女にこんな重い物を運ばせるとはな。相応の結果を期待しているぞ?」
「謹慎を破ってここまで来ちゃったんです。ボクにも戦わせてください」
エルナとシャンテが持って来てくれた錬金釜の中には、両手で握る程の太い撹拌棒といくつかの金属片。錬金系の術式――天に残された魔導工学の可能性――を使えば、これであらゆる武器を作り出す事ができるだろう。
戦いに必要な道具はここから作ればいい。戦略を構築するためのカードは多い方が良いというノクスの判断らしかった。
「兄さん、私達の力、まだ信じられませんか?」
各々がまっすぐに見つめてくる。それぞれの瞳に輝くのは信頼と期待。おおよそ、裏切り者に対する目ではない。
「バカにしやがって……。ここまでされて信じられない奴がいるかよ」
両目を強く閉じて、視界を妨害する透明な液体を払う。
涙が心の不純物を押し流したかのように、澄んだ気持ちだった。後ろめたさを抉る信頼の重ささえも、戦う力に変わってくれる気がした。
開いた目で全員を見渡して、全ての信頼に応えるべく、宣言する。
「後悔すんなよ。お前ら全員、巻き込んだからな」
全員が頷いた。
ディガンマを倒し、全員で生還するため。
交わる事のない線は、一つに束ねられた。
―――◆―――
青い草原での作戦会議は情報の整理から始まった。
いつディガンマが再来するかわからないので、エルナとノクスが見張りについた。
彼らにも話している内容は聞こえるし、必要ならば意見を述べる事もできる。
まず、ディガンマは今、自己学習した機能として最低でも二つの防御層に覆われている。これは実際に戦った天が言うのだから、間違いないだろう。
外側の層は対魔法結界。外部からの魔術による影響を最小限に抑えるものであり、従って魔術攻撃は威嚇程度の効果しか期待できず、威嚇にしても確実性が無いため頼れるものではない。ノクスが先ほど放った魔力の矢に対しても、おそらく自己学習機能で対策が施されているはずだった。
内側の層は硬化術式。魔術以外の、物理的な攻撃に対する対策だろう。天が放った渾身の刺突が完全に弾かれたというから、相当な強度を誇るものであるらしい。
また、あくまで可能性としてでしかないが、再生層がその内側に存在した場合、厄介な事になる。心臓部を潰さない限り、あの赤黒い肉体は何度でも再生してしまうのだ。
以上を踏まえると、強烈な武器攻撃で一撃の下に心臓部を破壊しなければならない、という事だった。
的確に一か所を狙える強力な攻撃が可能なのは千香だった。エルナでは狙いが反れるし、ノクスの武器では同じように狙いが反れるか、硬化術式を貫くだけの威力が期待できない。
鋼をも両断する千香の抜刀居合いが、この場合最も適した攻撃方法なのだという。
問題は、隙の大きさだった。納刀状態から狙いを定め、最大の威力で斬撃を放つためには、どうしても無防備になる時間が発生する。
かと言って誰かがディガンマを足止めするにも、振り抜く刃の範囲に巻き込まれてしまう。
対魔法結界層を無視でき、接近せずに動きを止める方法が求められた。
その方法として天はある物の使用を提唱した。
「トラバサミ?」
「ベアトラップのことさ。古典的だが、確かに動きを止めるくらいはできるだろう」
エルナにとっては聞き慣れない単語だったが、ノクスが言い直してくれたおかげですぐにわかった。円形の金属にのこぎり状の歯がついた設置型トラップだ。
踏まれる事で作動し、円形部分が半分に折れて半円上に合わさり、獲物の足を強く挟み込む古典的な狩猟用の罠である。古典的だが威力に関しては申し分なく、硬化術式を貫いて苦痛を与える事は十分に可能だと言う。
その根拠は、天が拾った棒だった。元々は彼のLPであったものだが、駆動部が砕けてしまって使い物にならなくなっている。その中身の部品を取り出して使いまわすらしい。
錬金釜の中で形を整えてトラバサミを作っている間に、設置場所とディガンマの誘導に関する話になった。
草原の草に隠れてしまう為、トラバサミは見えにくくなる。相手を誘導する段階で味方が引っかかってしまっては意味がない。
「目印が要るのだろう? この男を使ってやってくれ」
そう言ったシャンテの傍らには、青い草原を赤く染める大臣の亡き骸があった。
「それが、ディガンマを利用しようとしたこの男ができる唯一の償いというものだろう」
「そう簡単に信じていいのかよ」
確かに、ディガンマを利用しようとしたのは大臣だ。だが、それを確認したのは天であり、本当に信頼できる情報かどうかは客観的に見て疑わしいもののはず。
「こちらでも色々あってな。とにかく、お前達を信じる材料がある。それだけわかれば今は十分だろう」
シャンテはそう言うと、赤く染まった草の近くに小さな設置用スペースを作った。
エルナも手伝って、驚くべき速さで完成したトラバサミの設置を行う。地面は大海洞の他の場所に比べて柔らかく、罠の設置には適した場所だった。
土の下に鉤爪状の固定具をしっかりと埋め込み、準備が出来たところでそれぞれが配置につき、ノクスがその傍においた魔王石から魔力を抽出して滲ませる。
エルナは青い草原の端にある岩陰で天とシャンテの二人を護衛する役割だ。万が一ディガンマが狙いをこちらに定めてきた場合、強烈な大剣の一撃で相手を吹き飛ばす事で距離を取り、その後罠のほうへ誘導する。
千香はディガンマがやって来るであろう方角をいち早く察知して立ち回れるよう、トラバサミの近くに立っている。
「見てるだけってのがこんなに落ち着かないとはな」
「あなたが一人で出て行った時のボク達の気持ち、わかってくれましたか?」
「ああ、痛いほど噛みしめてるとこだ」
軽いやり取りの直後、青い草原に鯉口を斬る音が響いた。ノクスが罠の脇を抜けて、後方へ下がる。それを真横の方向から見ているエルナも臨戦態勢に入った。
ディガンマと罠をはさんだ反対側へ、無駄のない足捌きで千香が瞬時に移動する。
現れた機械人形は天の想像通り、叩きつぶしたはずの左腕を再生させていた。両手に握った刃で前方の標的を斬り裂こうと距離を詰めてくる。
千香は身体強化の増幅回路を刀の柄の窪みにセットして、低く構えた。目を閉じて神経を研ぎ澄ませ、至高の一撃を放つために時を見計らう。
残り三歩、二歩、一歩。怪物が金属の罠を踏みつけて足を取られた瞬間、一筋の光の線が迸り、剣を振り抜いた少女は敵の後方へ抜けていた。
斬鋼の剣閃はその場にいた全員の目に焼き付いた。鮮やかで無駄の無い剣の軌跡は全くぶれることなく機械人形の心臓部を通過した。
血振りを終え、刃の感覚を確かめるように指でなぞって、鞘に納める。青い草原を鳴らす湿った風が彼女の長い髪を撫でて、戦いの終わりを告げた。
一刀の下に両断された機械人形が動く事は、もう無かった。
―――◆―――
大臣の訃報は三区王宮に大きな動揺をもたらした。
しかしながら第一王女シャルフランテは彼の死をディガンマ事件の真の解決のための名誉あるものだとした上で、あらかじめ押収しておいた彼の日誌を公開した。
三年前の調査隊事件で第二王女を傷つけた事件の張本人も彼であり、その事についての懺悔が日誌に綴られていたという。
反魔族派であった彼は国政の円滑性を求めるあまり、過激な思考に陥っていった。ディガンマのコピーを作り出したという話もあり、彼の狂気が日に日に強くなっていく様が生々しく書かれていた。
そういった事情もあって、白柳 天は表面上としては無罪という扱いになった。彼は納得していないようだったが、「仲間を裏切ったのだからこのくらいの罪は背負っていけ」というシャンテの言葉に渋々了解した。
玲菜にはドレッドノートに対する裏切りの罰として強烈なデコピンを食らい、三区王宮からの特別任務に出向く事を命じられた。これもやはり天としてはけじめをつけるような罰を望んでいたのか、不服そうだった。
「揃いも揃って、罰の意味わかってんのかよ……」
終始マイペースだった彼も今回ばかりは精神的に堪えたのか、千香の隣を歩きながら深いため息をついていた。
「兄さんにとって不服じゃないと罰になりませんからね」
「なるほど、違いねえ」
罪を犯しながら許されるというのは、ある意味では精神的な責苦だろう。
千香はずっと心の片隅に居座って離れないあの事柄についても問い詰めたかったが、しばらくこうして隣で居心地悪そうにしている横顔を眺めているのも悪くないと思った。
やがて、ドレッドノートの彼の部屋であった場所にたどり着く。これから先も天の部屋として扱う事になるのだが、彼が一人で暴走する際に種々の機器を処分してしまったらしく、以前からは考えられないくらいに整然としていた。
「まさかこんなにあっさり戻って来れるとは思わなかったからな……」
「後先考えずに処分しちゃうからですよ。どうするんですか?」
広い部屋の真ん中まで歩いて、天は一つ息をついた。
そこにもう自嘲の色は無く、恐れも無く、振り返る彼の目はどこかふっきれたようなものだった。
「また作るだけだ」
今度はもう厄介な代物を作らないでほしい。千香は心の底からそう願った。
ドレッドノートへようこそ 第二章―完―