12:追憶からの解放
「彼は、無茶なことをするね」
ノクスは、自分で言っていておかしいと感じた。その感覚の正しさを、抱き起こしてくれた少女の表情が裏付けてくれた。
エルナ以上の無茶をしていたのはノクスだ。事実、エルナが空中にいるドラゴンに向かって飛びかかるなどという無茶をしなければ、ノクスはとっくに魔導砲の直撃を受けて消し飛んでいただろう。
「ありがとうクレレ。もう十分だよ」
不安そうな青い瞳を安心させるように、白い帽子の上に軽く手をのせて撫でる。この小さな少女が、肩を貸そうとしてくれるのを制して、ノクスは倒れかかった木に手をついて立ち上がった。
体の中から骨のきしむ嫌な音が聞こえてくるようだった。頭の神経が切れてしまいそうなほどの激痛が走る。呼吸のたびに肋骨が悲鳴を上げて、苦痛が意識を蝕む。
それでも立たなければならなかった。立つと決めていた。メタモルの形状を長剣に変えて杖の代わりに地面に突き刺し、研修生が一人奮闘している方向を見つめる。あのドラゴンは、何としてでもここで潰さなければならない。
一歩踏み出そうとしたその先に、両手を横に広げたクレレが割り込んだ。
「そこを、退いてくれ」
「無理です! 立ってることだって辛いのに、ドラゴン相手に何ができるって」
「退いてくれッ!」
クレレの肩が大きく震えて、ギュッと閉じた瞳から雫が落ちた。このまま押しのけてここを通ることはできるだろう。剣を一歩先の地面に突き刺して、白い制服の肩に手をかける。
持てる全ての勇気を振り絞って立ちはだかった少女の、震える肩を押しのけて、また一歩先へ。こんな体でも、囮くらいにはなるだろう。ドラゴンを排除できるなら、それでも構わないと、ノクスは強く思っていた。
思っていたが、彼は次の瞬間に前のめりに倒れ込んでいた。気力が続かなくなったわけではない。誰も手を出さなければ、彼は這ってでもドラゴンの元にたどり着いただろう。だが、そうしようとする前に、痛みで体が動かなくなった。後ろから、首の下の背骨の浮き出た個所に強烈な打撃を受けたせいだ。
「あ……?」
なんとか首だけ動かして、うつ伏せに倒れた状態からその犯人の素顔を見ようとする。見る前に、聞きなれたため息が聞こえた。
「兄さんや艦長が言ってた通りですね。頭に血が上ると冷静な判断ができなくなる」
和装に身を包み、刀の柄を握った少女、千香だ。どうやら、柄で強かにどつかれたらしい。
「ごめんなさいッ! ノクスさん」
あまり申し訳なくなさそうな謝り方の声が千香とは反対のほうから聞こえた。それについてノクスが何か感じる前に、その声はとても頼もしく宣言した。
「ドラゴンは、私達が仕留めてきますッ!」
ノクスが精一杯の力を込めて立ち上がる頃には、二人の背中はずいぶん小さくなっていた。それでも、立ち上がる途中に見えた研修生の背中は、あまりの力強さに見とれてしまうほどだった。
「なるほど、彼女なら、ドラゴンと真っ向から撃ち合えるってことか」
先ほど怒鳴りつけてしまった少女が手をとって、彼女の肩に回してくれた。
「少し歩いたところに、帰還用の転移陣を描きました」
すでに涙は拭いた後で、この小さな少女の声にも力強さが宿っていた。ノクスは笑いながら小さくため息をついた。
「帰ったら、玲菜ちゃんから大目玉だな」
―――◆―――
浮遊感。放たれた魔導砲の閃光が視界を焼き、轟音が鼓膜を突き刺した。
体が地を離れ、吹きつける風以外の感覚が全てなくなる。死ぬ、というのはこういうことかと納得しかけて、しかけたところでエルナの意識は現実に呼び戻された。
背中を地面に強かに打ちつけて、咳き込む。奇跡的にも魔導砲の直撃を免れたのだろうか。そう思って粒子熱線の放たれた場所を見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「えっと……えっ?」
ドラゴンの口から吐き出される黄金色の筒状ブレス。その先端が、淡い緑色の光の塊で押し返されている。その淡い緑の光の発生源には、巨大な魔法陣を目の前の空中に展開し、それに向けて杖を掲げた一人の少女の姿があった。
白いブラウスにベージュ色の三角襟、ひざより少し下までの丈がある長めのスカートと、肩の辺りまで伸びた茶色がかった髪が魔導砲が巻き起こす風で舞っている。
「ミー、ティア……!」
押して押されて。アースワームの時よりも強い魔導砲ブレスなのか、ミーティアの放つ魔術がやや押され気味だった。それでも彼女の表情に迷いや焦りは全くない。必ず勝つという信念さえ感じられるような勇ましい表情だった。
そして、その理由は間もなく理解された。鋭い何かがドラゴンの鱗を切り裂き、皮膚を貫いて辺りに鮮血を撒き散らした。ドラゴンの放つ魔導砲が消え、ミーティアの特大魔法陣から放たれる粒子の氾濫が直撃して爆ぜる。
やがてミーティアの放つ魔法も一度区切りを迎え、エルナから見てその通過経路の向こう側に見えたのは振り抜いた刀を鞘に納める少女の姿。しかし、彼女はドラゴンのいる場所から二十メートルほど離れている。背丈の関係上、彼女の刀もそう長くはないため、魔導砲に触れるギリギリまで接近しなければドラゴンを斬ることはできない。
ただし、それは彼女の刃が実体を持つ刀だけだと仮定した場合の話だ。ゆらゆらと立ち上がるドラゴンに対して、彼女はその場から動かずに姿勢を低く構え、刃を鞘の中で走らせて神速とも言える振り抜きを放った。
当然、二十メートルも離れていれば刀は当たらない。当たらないはずなのに、先ほど斬られた傷からドラゴンは再び黒い血を噴き出した。ドラゴンの後方、少し離れた位置にある木がナナメに切れて、倒れた。ドラゴンを、木を斬ったのは、風の刃だ。
千香はあまり魔術に頼らないが、それでも四元系の風の術式を扱うことができる。剣術と融合した神速魔法剣は、ドラゴンの強靭な鱗の上から――魔導砲の影響で脆くなっているとは言え――深い傷を与えるほどの威力がある。更に続けざまに二発。風の刃が黒い血飛沫を上げ、ドラゴンの動きを鈍らせる。
その刃の主が千香だと気付いたドラゴンは千香に向けて魔導砲を放とうとするのだが、もう遅い。すでにミーティアの魔導砲が詠唱を完了しているからだ。
「ルーニック・バースト!」
淡い緑色の光の粒子群が、伝説の魔獣、ドラゴンを飲み込む。音と光の氾濫が収まる頃には、すでにドラゴンは鱗の一欠けらさえ残っていなかった。
「そんなわけで、任務完了ー! ドラゴンとったどー!」
眩しい笑顔で言うミーティアを見ても、エルナはなんだか釈然としなかった。というより、頭が状況をまだ理解していなかった。
「え、えっと……もう大丈夫なの?」
吹き飛ばされた痛みは、あまりにも急な展開のせいか気にならなくなっていた。足が笑ってしまって立ち上がることは無理だったけれど。
「おうよ! 完全復活パーフェクトミーティアちゃんだぞー!」
ぐるぐると肩を回して快調をアピールするミーティア。安堵と同時にある種の疲労を感じて、エルナは起こした上体をもう一度後ろに倒した。
「いたっ」
相変わらず頭をぶつけてしまって痛かった。げんなりしている隙にミーティアが悪戯っぽく笑ったのを、エルナは見逃してしまった。直後、体が軽くなり、背中に触れていた地面の感覚がなくなる。
「え、あのっ、み、ミーティア?」
「んぐ、意外と重量感が……」
「多少は筋肉つけてるからね。って、そうじゃなくて!」
「何か問題があるのかな? エルナくん」
おどけた口調で言われて、具体的に問題点を指摘できないことに気付いたエルナは小さくつぶやくことしかできなかった。
「こ、これじゃあ逆だよぉ……」
エルナは、その体勢のまま――ひざの裏と背中の下に手を入れて持ち上げられた状態のまま――ドレッドノートまで運ばれることとなった。
―――◆―――
あまりにもあっけなく、ドラゴンの一件は終結した。ドレッドノートに搭載された長距離砲を撃つ許可は結局得られなかったが、玲菜は「撃たないに越したことはない」と心底ほっとした様子だった。
ノクスは肋骨にヒビが入ってしまったということで、数日から一週間程度入院しなければならなくなっていた。だが、本人は怪我のことよりもコーヒーが飲めないことを嘆いていたほどなので、心配はないだろう。
千香は足の傷が完治したようで、いつも通り訓練――本人いわく、訓練ではなく稽古らしいのだが、エルナにとってその違いはさっぱりわからない――に勤しんでいた。
クレレは天やノクスのお見舞いに行ったり、訓練室の千香に差し入れを持って行ったり、魔導植物の世話をしたりと忙しそうにしているが、本人はそれが嬉しいのだと言う。
この三日間は色々なことがありすぎて慌ただしかったが、このドレッドノートにもようやく平穏が訪れたようだった。エルナは傷がさほど深くなかったので、軽い手当を受けてからは普段の生活に戻っていた。
普段、というのはドレッドノートにとっての普段だ。第四区画にも元の平和が戻り、そしてギルドの仕事はほとんどない。ほとんどない以上、エルナは暇になってしまう。玲菜の書類もついさっき運び終えて、完全に手持無沙汰になってしまった。
ブリッヂにはあの記者、龍見 マヤが来ていて玲菜と話をしている。エルナはすっかりマヤという女性が苦手になってしまっていた。何でもミーティアや千香とほぼ同じタイミングでドラゴンとの戦いに駆け付けたらしく、「生ドラゴンですよ! 生ドラゴンと戦う生勇者ですよ!」などと目を輝かせながらシャッターを切り続けたのだという。
そんな記者の鑑とも言うべき彼女が、ドラゴンと戦った勇者にインタビューしないはずがなかった。
『ドラゴンの翼に傷を負わせたそうですが、どうやって戦ったんですか?』
『危ないところを正義のヒロインによって救われましたが、彼女はあなたにとってどんな人ですか?』
『ひょっとしてもうあんなことやこんなことまで済ませちゃって……!?』
夢に出てくるかと思うほど矢継ぎ早に質問され、しかもドラゴンに全く関係ない方向に話が向かってしまうので、タチが悪かった。エルナお得意の笑って誤魔化す作戦も、真実を追求する彼女には全く通用しなかった。当たり障りのない答えでなんとか乗り切ったが、その答えを聞いた時のマヤが心底残念そうに肩を落としていたのは、気のせいではない。
ともあれ、今はブリッヂには行きたくない。クレレは色々と動きまわって疲れたのか、部屋で眠ってしまっているらしかった。千香の訓練――稽古――を邪魔するわけにもいかないし、天やノクスもそう何度もお見舞いに来られても迷惑だろう。
結果として、残っているのはミーティアだ。いや、意図して最後まで彼女を残しておいた、と言ったほうが良い。切羽詰まった問題でない限り、悩ましいことはとりあえず先送りしてしまうエルナの悪い癖だ。
本当は、気になって仕方がなかった。スティグマの影響はもうないのかとか、あんなに激しい魔法を使って平気なのかとか。何より増してエルナの心に重くのしかかるのは、あの時の涙の記憶だった。
「はぁあああ……」
胸につかえた嫌な気持ちの塊を吐き出すように、ベッドに寝転んだまま壁に向かってわざと少し大きなため息を吐いた。吐き出した嫌な気持ちは情けない声になって耳からまた入ってきた。
大げさに寝がえりを打って、反対側の壁に立てかけた剣を見ようとした。
「ん?」
見えなかった。その理由を理解すると同時に、エルナは飛び起きた。
「わ、あああ、ああっ!?」
「そこまでテンパられると傷つくなぁ」
わざとらしく肩をすくめた少女は、ちょうどエルナの考えていたミーティアその人だった。
「い、いつからいたの?」
「壁に向かって悩ましいため息を吐いてた辺りから」
「声くらいかけてよ……」
「かけたけどエルナが気付かなかったんだよ」
そう言ってミーティアはエルナに顔を近づけ、覗き込んだ。真剣なまなざしに見据えられて、エルナは思わず目を反らした。目を反らしても、鼻をくすぐる良い香りが考えていることを片っ端から吹き飛ばして行った。
「悩み事? それなら相談に乗るよ」
「う……」
言えない。まさかこの悩みをミーティア本人に相談するわけにはいかない。エルナはミーティアの顔を直視できなかった。純朴な視線が冷たい刃に変わって自分を切り裂く事を、明るい声が鋭い棘に変わって自分を突き刺す事を想像すると恐ろしい。
「だんまりかぁ」
小さいため息の後、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。エルナの隣、少し離れた場所にミーティアが腰かけたからだ。
「一緒に考えようって言ってくれたのは、エルナなのに」
非難の色よりはいじけるような、寂しげな色の強い声。それがまたエルナの心を抉り、かき乱し、追い詰めていく。
「わかった」
納得したような声と同時に、もう一度スプリングが小さく軋んだ。ミーティアが立ち上がったからだ。
「エルナが話したくないなら、しょうがないね。でも、辛くなったら、無理しないでよ?」
その優しささえも、今のエルナにとっては自分を追いつめる原因の一つになってしまう。肩が震えて、目頭に熱い物がせり上がってきた。
何か、言わなければ。早くしなければ、ミーティアが部屋から出て行ってしまう。このまま行かせてしまったら、二度と言えない気がして、エルナはようやく震える声を振り絞った。
「待って……!」
足音が止まった。耳鳴りがするほど静かな部屋だった。何か言おうとするたびに、迷いが邪魔をした。何度もそれを繰り返して、どれだけの時間が経ったか、ようやく小さな声を発することができた。
「ボク……」
引き留めてしまったんだから、覚悟を決めなければならない。一つ深く呼吸して、
「ボク、ミーティアに、キス、したんだ……」
ついに、言った。それが声になっているかどうかもわからなかった。それからの沈黙は、エルナが今まで生きてきた中で最も長い沈黙だった。いっそ罵ってくれたほうが気が楽だと、何度も思った。指先は震えるし、呼吸は苦しい。喉が渇いて仕方ない。
「うん。知ってた」
そう言い切ったミーティアの口調は、普段の明るい色を持ってはいなかった。その内側にどんな感情を隠しているのかわからないくらいに平淡で、冷たい印象を受ける声だった。
「じゃあ、やっぱりあの涙の意味は……」
拒絶だったのか。ひょっとしたら、言うべきではなかったのかもしれない。言わなければ、ミーティアはあの出来事を無かった事にしてくれたかもしれない。何事もなかったかのように戻ってきた平穏を享受して、お互いに心穏やかに過ごせたかもしれない。
けれど、エルナは言ってしまった。そうすることを、選択してしまった。選択した後の痛みを受け入れなくてはならない事はエルナ自身もよく知っている。
不確かなモノばかりが転がる場所で、動く事はとても恐ろしい。動いた結果の痛みが、それを意識させるだけの静寂の時間が――実際には三十秒にも満たないわずかな時間だが、エルナには何百倍にも感じられた――エルナの心をすり減らして行く。
「ううん。あれは、私が弱かっただけ」
平淡な声の中に混じった悲愴の色を感じて、エルナは顔を上げた。ミーティアはまたエルナの隣に座った。座って、深く息をついた。
「実はね。エルナが初めてじゃないんだ」
「えっ?」
真意を量りかねて聞き返すと、ミーティアは少し拗ねたように答えた。
「ファーストキスじゃなかったってこと!」
「あ、そうなんだ……」
「嫌な気分になった?」
「え、うーん……。わからない、けど、ちょっとチクリとは、したかな?」
「そっか」
ミーティアの口調と表情は穏やかなものになっていた。エルナにとって、今の二人はどこか懐かしい雰囲気だった。幼少の頃、昼間に散々はしゃいで、疲れておとなしくなったミーティアと、布団の中で眠くなるまでおしゃべりしていた時のような、落ち着いた幸福感があった。
不思議な気持ちだった。さっきまでは目を合わせるのも怖かったのに、少し話しただけでそれが嘘のように、心が穏やかになった。涙の意味を考えるとまだ少し重い気分になるが、今はあのキスがミーティアにとって初めてでなかったことに半分安堵し、もう半分に奇妙な寂しさを覚えるくらいの余裕はあった。
「エルナに、聞いてほしい話があるんだ」
エルナは「うん」と頷いて、促した。並んでベッドに座って、目を合わせてはいないけれども、確かに一緒にいて話していることが実感できた。並んで布団に入って天井を見ながら話していた頃の感覚にとてもよく似ていた。静寂の中で心地よく響くささやき声が耳から入って全身にしみわたり、暗闇の中で不思議と心を弾ませるあの感覚に。
「私ね、お兄ちゃんがいたんだ」
遠くを見るように目を細めて、ミーティアはポツリと話し始めた。
―――◆―――
十年前。ミーティアは六歳の時に孤児院から引き取られ、エンシスハイム卿の養女になった。
ちり一つも落ちていないきれいな絨毯と、引き込まれるほど鮮やかな色合いの絵画が飾られた天井の高い廊下を過ぎて、たどり着いた部屋。そこで彼女は、一人の青年と出会った。
青年と言うには当時まだ少し幼かったが、流れるような髪も、線が細く触れたら壊れてしまいそうな華奢な手も、ミーティアを優しく見つめる瞳も、その全てがミーティアには大人びて見えた。
「よろしく。僕はエルネスト」
突然、育ての親や幼馴染と引き離されてしまったミーティアは、自分の周りにある世界全てを怖がってしまっていたが、自分に向けられた、自分だけに向けられた優しい声と、穏やかな笑顔と、暖かい手に、次第に心を解きほぐされていった。
エルネストという青年はミーティアより幾分か年上で、初めて二人が出会った時には十二歳だった。普通ならば学校へ通い、友人たちと騒いで過ごすであろう年頃だが、彼は体が弱く、外に出ることはほとんどできなかった。
ミーティアは優しいその青年に甘えたし、エルネストも寂しかったのか、ミーティアにはいつも優しかった。遊びたい盛りのミーティアは家の中でおとなしくしていることなど耐えられなかったけれど、それまでよりも早い時間に家に帰るようになっていたし、それからエルネストと話すために体力を温存することも覚えた。
「今日ね、ヒーちゃんが木に登ろうとして怒られちゃった。わたしは見てただけなのに」
「みんなで作った巣箱の中で、小鳥さんが生まれたんだよ! すごいでしょ」
「空を飛ぶのってどんな気持ちなんだろうね。雲とか食べられるのかな?」
外に出られないエルネストが話すことはあまりなかったから、必然的に話し手はミーティアだった。エルネストはミーティアの冒険譚の全てを興味深く聞いてくれたし、それならばとミーティアも気合を入れて毎日話のネタになるようなことを探しまわった。
どうしても話すことが見つからない日は、エルネストがいろんな本を読んでくれた。ミーティアはだいたい途中で寝てしまうのが悔しくて、そうならない方法を色々と考えたりもしたが、結局は心地よい温もりと柔らかな声に負けて夢の世界へ誘われてしまうのだった。
三年ほど経ったある日、ミーティアは常日頃から気になっていた疑問をエルネストにぶつけた。ベッドの脇に立てかけられた、その杖はいったい何なのか、と。
聞かなければ良かったと、思った。幸せが満ちていたその空間に一つだけある異質なものに目をつぶっていれば、それは本当になかったことになったかもしれないのに。
それを聞いた時の、エルネストの悲しそうな、寂しそうな表情はミーティアの心の奥深くに刻み込まれた。
「これは僕が考えた昔話なんだけど」
そう言ってエルネストが語った話は、どこまでが本当でどこからが作り話なのかミーティアにはわからなかった。否、エルネストはわからないように話してくれた。
昔々、あるところに魔法使いがいた。その魔法使いは、永遠の命について研究していた。けれども、そんなものは人の身には決して得られないものだと気付いて、ある導具にその夢を託した。
それが、この杖――スティグマ。元々は名前もないただの杖。人間には実現できない、「完全」を閉じ込めた魔法使いの最高傑作だった。
やがて時が過ぎて、それを作った魔法使いが死に、その杖はどこかへ売られて行った。魔法使いが残したその杖についての書記には、ただ「人の身に得られぬ完全」としか書かれていなかったから、周りの人間たちはそれについて好き勝手に噂し始めた。
あらゆる傷をいやし、死者を蘇らせ、人の身にはあまりある奇跡の力を持つ、と。誰が言い始めたのかはわからないけれど、そんな力があるはずはなかった。ただ、その杖は、自身が末永く存在できるように作られただけ。
人はその杖を欲した。奪い合った。ただ一本の、夢を詰め込んだだけの杖のために、幾千の人間が死に、幾万の血が流れた。その血を浴び、杖はやがてその構造を歪めていった。この杖に触れた人間の中から、最も適した所有者を選ぶようになった。
杖のために殺された人間の怨恨か、それとも夢を汚された魔法使いの呪いか。所有者の候補達には想像を絶する痛みが与えられた。それぞれの持つ傷が疼き、その痛みで命を落とす者もいた。
そうなって尚、人はその杖への狂気にも近い憧れを捨てられなかった。所有者として選ばれた者が、必ず一つは持っていたとされる傷。杭を打ち込まれたような手足の傷、槍で突かれたような脇腹の傷、荊の冠の棘によってひっかかれたような額の傷、十字架に張り付けられたような、背中の十字傷。
それらは「聖なる傷」と呼ばれ、スティグマを欲しがる者はこぞって自らの体にその傷を刻んだ。杖のために、また多くの血が流れた。
今でもその杖は、運悪く傷を持ち、運悪く所有者として選ばれてしまった者の傷を疼かせ、苦しめているという。
話を聞いて青くなったミーティアを、エルネストは優しく撫でてくれた。
ミーティアはそれでも怖くて仕方がなかった。少しでも考えると泣き出してしまいそうだった。
なぜなら、エルネストの背中にも、十字の傷があったから。
その話を聞いた晩から、ミーティアは恐ろしい妄想に苛まれるようになった。目を閉じるたびに、ありもしない悲劇がまぶたの裏に映し出された。眠ろうとするたびに恐怖が意識を引きずり出し、彼女を震えさせた。最初のうちはエルネストと一緒に眠ることで不安を和らげることができていたが、一年、二年と時が経つにつれて成長と共に遠慮や気恥ずかしさが生まれ、それもできなくなった。
成長しても、恐ろしい幻想はなくならなかった。なくなるどころか、意識の底に根を生やしてしまっていて、余計に大きくなっていた。眠りを妨げられる日々は、ミーティアがエンシスハイム卿に引き取られてから八年後、彼女が十四歳になる年に終わりを迎えた。
空想が――空想のままであり続けてほしかったのに――現実のものとなってしまったのである。
ある朝、いつものようにエルネストに会いに行ったミーティアは、そこで現実となった悪夢を見た。ベッドの上で体を弓なりに反らせて痙攣したかと思うと、その後に荒い息を吐き出す。額には汗が滲んで、時折、吐息と共に小さい呻きが零れた。
ミーティアは一瞬だけ、別人かと思った。そう思ってしまうほどにエルネストは疲弊し、憔悴し、擦り減っていた。駆け付けて顔を見た時、ミーティアは血の気が引いていくのがわかった。
生気を失った虚ろな目が、頼りなく宙を見つめていた。何か言葉を発することができる状態ではなかったし、意識さえもほとんど残されていなかったかもしれない。ミーティアの呼びかけに瞳だけ動かすものの、すぐに痛みに表情を歪めて目を強く閉じてしまう。
何とかしないと。お医者様を呼んでこないといけない。ミーティアがそう思って振りかえると、彼女の行く手を阻むように、一本の杖がそこに浮いていた。
エルネストがこちらに向かって何かを必死に伝えようとしているけれど、ミーティアにはそれよりも杖の放つ言葉に聞き入ってしまっていた。
そこの青年を苦しみから解放する方法が一つだけある。痛みを伴うものだが、お前にその覚悟があるのか、と。
『あらゆる傷をいやし、死者を蘇らせ、人の身にはあまりある奇跡の力』
あるはずがないと聞かされていても、それを信じてしまいたくなる。杖自身がそう語りかけてきたのだから、頭の片隅で疼く小さな予感を踏みつぶしてでも、ミーティアはそれにすがってしまった。
「大丈夫だよ、エル。私が、なんとかする」
ミーティアはスティグマの指示通りに動いた。与えられたナイフを壁に固定して、上に着ていた服を全て脱ぎ捨て、肩甲骨の辺りを刃の先端にあてがう。激痛。硬く冷たい鋼が肉を貫く。声すら出なかった。
歯を食いしばって、白い肌にナイフの先端を食いこませたまま、真横に移動する。左右の肩を背中でつなぐように、赤い一筋の傷からゆっくりと生温かい物が滲み出た。
「だい、じょう、ぶ」
額からは汗が吹き出し、手も足も感覚がどこかへ連れ去られてしまったようだった。それでも、これはエルネストを救うため。ミーティアは苦痛の中でも、エルネストに笑いかけた。
もう一度。今度は刃の向きを九十度変えて。首筋から、腰まで。
「あ、ああッ!」
耐えきれずに両目から大粒の雫が零れ、息が苦しくなる。背中につけた傷が焼けるように痛い。苦しそうに声を出そうにも出せなかったエルネストのほうは、次第に落ち着いていく様子が見られた。
「エル……」
痛みがミーティアの意識を食い破って闇へ引きずり込もうとする。エルネストが眠るベッドまでの距離が、長い。視界に緑色の靄がかかってくる。もう何も考えられない。
さいごに、激痛の中で一度だけ、許されない口づけをした。
―――◆―――
「なんで、あんなことしちゃったのかな」
語り終えたミーティアは、遠い日に思いを馳せるように目を閉じた。口調は淡々としていたが、それはミーティアにとって、そうしなければいけないという自制心のようなものを抱かせる話だったからだろう。事実、彼女の呼吸は少し震えていた。
「そうしないとエルネストさんは助からない、って言われてたんでしょ?」
「そう、だったのかな」
ゆっくり目を開いて、ミーティアは深く深く息を吐いた。
「実はね、あんまりよく覚えてないんだ」
反動をつけてベッドから立ち上がり、もう一度深く息を吸い込んで
「本当に、エルお兄ちゃんが好きだったのかもしれない。でも、あの時の私が何を考えてたのか、正確なところはわからない。
だから、忘れられなかったし、いつまでも引きずってたんだろうね」
エルナはそれを聞きながら、胸にもやもやした気持ちが広がっているのを感じていた。
不快と言うには弱すぎるし、決して快いものでもない。ただすっきりしない、優柔不断で行動できない自分を見ているようで、苦しいような悲しいような気持ちになった。
ミーティアに伝えなければならないことが、あるはずだ。
「エルネストさんは」
本人には口止めされていたけれど、やはりこれは伝えるべきだ。エルナはそう決断するための後押しとして、冒頭の部分だけをまず口にした。
「ずっと、ミーティアの傍にいたよ」
意図をつかみかねて不思議そうな表情をしているミーティアの目をまっすぐ見て、エルナはあの夜、エルネストが現れた事を告げた。ずっと、杖の中にいてミーティアを見守っていたことも。
それを伝えても、ミーティアが驚く様子はなかった。むしろ、納得したような表情で柔らかく微笑んだ。
「やっぱり、いてくれたんだ」
そして、ミーティアがその事実を受け入れている事に対して、エルナも驚いたりしなかった。きっとこういう反応をするだろう、とエルナも予測していたからだ。
「だから、杖に向かって話しかけてたりしたんだね」
「あはは、見られてたのか……」
照れくさそうに頬をかいてから、ミーティアはまっすぐにエルナを見つめ返した。
「ずっと、そうなんじゃないかって思ってた。きっとこの杖の中にいて、私を見守ってくれてるんじゃないかって。
あれから――私がスティグマを受け継いで、エルが死んでから――、今度はあの日の夢ばっかり見るようになった。いつも、六歳の私がエルに初めて会った時の事から始まって、早回しみたいに、駆け抜けるみたいにあの日になって、キスするところで目が覚めた」
ミーティアの目はいつになく真剣で、見つめられるエルナも自然と背筋が伸びた。ミーティアの言う「聞いてほしい話」の一番大事な部分は、これから出てくる。ミーティアの雰囲気から、なんとなくそれがわかった。
これから話されるであろう大事な部分はいったい何だろう。単純なことを好む性格のミーティアがここまで話を引っ張るのは気になった。「エル」という愛称が出てくるたびに胸の奥が少しチクリとするよりも、次に話される内容に対する不安や焦燥に似た気持ちが強くなっていた。
「でも、今日は違った。今までのキスは全部、一色に塗りつぶされた理想の味がしたけど、今日のは震えてて、迷ってて、どこか弱々しくて……。なんて言えばいいのかな。夢の中の、思い出とのキスじゃなくて、生きてるって感じだった」
聞いた言葉が一つ一つ、エルナの頭の中で繰り返し響いた。心臓の鼓動が速くなって、思考が良く回らなかった。
「だから、エルナがキスしてくれたことには、感謝してるんだよ」
ミーティアは悪戯っぽく笑って「それじゃあまたね」と手を振りながら部屋を出て行った。
静かな部屋に一人取り残されて、ようやくミーティアの言葉を思考の中でなぞることができた時、エルナは更に心臓が締め上げられるように苦しく、沸騰しそうなほど顔が熱くなった。
ドレッドノートへようこそ 第一章―完―