11:魔導砲――ドラゴンの脅威
「……キス、なんです」
「えっ?」
最初は聞き間違いだと思った。けれど、言い出すのに躊躇したり、うつむいて目を合わせられないクレレの様子からすると、どうもそういうことで間違いないらしいとわかった。
「え、あ……その、それってつまり、ボクが、ミーティアに?」
ミーティアを助けようという気持ちは揺るがないが、それでも突飛すぎる展開にエルナの頭の中はパニック状態になっていた。クレレが黙って首を縦に振ったことによって、具体的な状況を想像してしまいそうになり、慌ててそのヴィジョンを頭の中から追い出す。
追い出しても追い出しても、それはしつこく頭の中に蘇ってきた。おとぎ話の眠り姫に王子様がそれをして目覚めさせるという、ロマンチックすぎる状況。血液が頭のほうに上ってきて、下手をするとそのまま倒れてしまいそうだった。
「て、手の甲に、とかでも大丈夫?」
「い、いえ、体液の混合が必要不可欠になるので、口と口でないと……」
「うわぁ……」
頭の中の収拾がつかないことで、エルナはなんだか泣きたい気分になってきた。もう、ミーティアの寝顔など直視できない。
「え、エルナさんがどうしても嫌だと言うのでしたら、その、玲菜さんか千香さんに代わってもらうこともできなくはないのですけど……」
「う……や、やるよ。ボクがやる」
「そ、それじゃあ、私は席をはずしますのです」
クレレは早足で逃げるように医務室を出た。結局、部屋を出るまでクレレは目を合わせてはくれなかった。ということを冷静に考え終わってから、エルナは頭を抱えた。
(ば、馬鹿ッ! なんでボクがやるとか言っちゃったの!)
自分が嫌だと言う理由だけで千香や艦長にこの恥ずかしい役割を押し付けるのは流石に情けないと思った……のだろう。今にして思えば、ミーティアのために必要な行為なのだからせめて同性のほうが良かったのかもしれない。
今度は千香がミーティアに口づけているところを想像しかけて、混乱してきた。言いようのない罪悪感から思考を反らすために、現在の状況について考えてみることにした。とにかく、自分がやると言ってしまった以上、それはもうどうしようもないだろう。
深呼吸して脳に足りない酸素を送り込む。キスと言っても、人工呼吸のようなものだ。ヨコシマな意味は一切ない。
意を決して、ミーティアの寝顔を見る。少し顔色が悪いように見えるのはきっと気のせいではない。もってあと三日、というのがどれほど危険な状況かエルナにはわからないが、できる限り早くなんとかしないといけないのは確かだ。
薄手の布団をかぶった胸元が規則正しく上下している。閉じた目も、寝息を立てる鼻も、小さな唇も、全てが今までと違って見えてきてしまって、エルナの決意を鈍らせる。本当に、してしまって良いのか。
答えを待たずに、顔は近づいていく。できるだけ痕跡を残さないように、あとで無かったことにできればなどと都合の良いことを頭の隅で考えながら、ゆっくりと、唇を重ねる。
冷たくて少し湿った柔らかい感覚が思考を甘美に溶かしそうになって、エルナは慌てて顔を離した。離した瞬間に、後悔という鈍器が後頭部を強打した。
「う、わ……」
眠るミーティアの目からこぼれた一粒の雫。たとえ彼女に意識がない状態であっても、エルナの罪悪感を煽るには十分すぎる出来事だった。今すぐにでもここから逃げ出してしまいたい衝動にかられるが、足は鉛のように重たく、床にくっついてしまったように動かない。
涙の痕が光るミーティアの寝顔から目を反らすこともできずに、エルナはしばらくそうして後悔に苛まれることしかできなかった。ちょっとでも刺激を受けたらエルナのほうが泣き出してしまいそうだった。
血相を変えたクレレが飛び込んで来ても、肩を揺さぶられるまでエルナは気付くことができなかった。
―――◆―――
ブリッヂでは、玲菜が苦い顔をしていた。こんな時に限って、厄介極まりない任務が飛び込んできたのだ。
ヘルテイトのアジトに残されていた召喚核が暴走し、あろうことかドラゴンを呼び出してしまったらしい。辺り構わず魔導砲を撃ちながら移動しており、これが人里に下りてしまうようなことがあれば甚大な被害をもたらすことになる。
ドラゴン。強靭な鱗と大きな体躯、そして非常に強い魔力を持ち、短いインターバルで魔導砲を乱射できる。更にアースワームのような劣等種と異なり、大きな翼を使って自由に飛び回る。めったにお目にかかれない希少な種の魔獣だが、その力は古の時代から人間を脅かしてきた。
真っ向から魔導砲とぶつかることができるのは、この船に乗っている中ではミーティアだけだ。だが、ミーティアは今眠っているし、そうでなかったとしてもこれ以上魔導的負荷をかけるわけにはいかない。
しかし、政府から依頼があった以上、ドレッドノートは動かざるを得ない。他のギルドは第四区画の外にいてすぐには動けないし、防衛軍には相応の力も装備もないのだ。第四区画の平和な状況に胡坐をかいて防衛に費用を割かなかった政府の責任だが、それを糾弾したところでドラゴンがどうにかなるわけではない。
最悪の場合、長距離砲の使用が許可されるということだが、その決断はもっと早くにするべきだった。ドレッドノートに搭載された長距離砲は、出力を抑えても着弾点から半径数十キロ単位で焦土にしてしまうのだ。そもそもが大気圏外で使用することを前提に作られたものである以上、それは仕方がない。
ヘルテイト以外の何者かの陰謀がうごめいている可能性もあるため、船の防衛も必要だ。今動けるメンバー、クレレ、ノクス、エルナの三人がブリッヂに揃う。エルナの顔色が良くないところが気になったが、今はそれどころではない。
ドラゴンのいる、ヘルテイトのアジト周辺の地図を表示して、任務を説明する。ドラゴンの討伐任務だが、最悪の場合は長距離砲を使わなければならない。長距離砲の発射権限を持つのは艦長である玲菜と、整備士である天だけで、しかしながら天は今動ける状況ではない。
長距離砲による被害が最小限に収まるような範囲からドラゴンを外に出してはならず、発射が決定し次第、任務にあたっているメンバーを退避させることが必要になるため、戦場付近に転移陣を描かなければならない。
「つまり、この船に残るのは私一人。クレレちゃんの護衛にエルナちゃん。ノっ君にはドラゴンを足止めしてもらうことになるわ」
「ヒュー、ドラゴンと一騎打ちか。燃えるね」
冗談めかして口笛を吹いたノクスに、玲菜の鋭い視線が飛んだ。
「無理に傷を負わせなくても良いわ。長距離砲発射まで時間が稼げれば良いの」
「でも、発射のためにはお上の許可が必要なんだろう? 許可を得てからチャージを開始したら、発射はいつになるかわからないね」
玲菜の表情が更に苦いものになった。ノクスの言う通りだからだ。長距離砲を撃つには政府高官の許可が必要になる。更に大気圏内で使用する場合には、最低でも三名の署名を要する。
ディグラルディの殺害事件の後始末で政府関係者が慌ただしい中、三名もの署名が集まるまでにどれだけの時間がかかるかわからない。そこまでして長距離砲の発射許可が得られた時に、ドラゴンが街に近づいてしまっていたら全く意味がない。魔獣一匹殺すために、街一つを失うことになってしまう。
「援軍は期待できないわ。危ないと感じたら、すぐに退避すること。必ずよ」
「努力はするよ」
背を向けて片手を上げ、ノクスはさっさと任務に向かってしまった。船を下りてからは別々に行動するものの、エルナもクレレもすぐにそれを追いかけた。
誰もいなくなったブリッヂに、艦長のため息が響いた。
―――◆―――
正六角形の小さな増幅回路を指先で転がして、メタリックグリーンの金属質の数珠つなぎになったブレスレット型LP、メタモルにはめ込む。右手首に付けたそれを指先で軽く撫でて、下腕に固定する小型のライト・クロスボウに変形させ、目の前に広がる戦場を睨む。
森であった場所はまるでアースワームが這ったようにまばらに地面がえぐり取られ、木々が黒く焦げて煙を上げていた。だが、今ここにいる厄介な相手はアースワームではない。そんな程度の魔獣など比較にならない存在が、無差別に暴れまわっているのだ。
袖に金の線が入った紺色のダブルのジャケットを着た背の高い青年は、疾駆した。倒れた木の幹を蹴って前へ前へ。ドラゴンは想像していた以上に速いペースで移動しているらしく、長距離砲で狙える安全な領域から外に出ようというところで、ノクスはようやくその巨体を発見した。
陽光を鈍く反射する、鋼色の強靭な鱗。アースワームと同じく、その強度は魔導砲ブレスを吐き出す直前直後の短い間以外は無敵とも言える強固な鎧だ。腕をまっすぐ伸ばして指先の操作で放った淡い緑の魔力の矢はその装甲に傷一つ付けることさえできずに霧散した。
ノクスが手加減したわけではない。全力で撃ってようやく、ドラゴンの注意を引くことができたくらいだった。あまり良い状況ではないと考えながら、舌先を折り丸めて指笛を鳴らした。
「ドラゴンと踊れるなんて、ステキな一日になりそうだ」
よく通る音が、昼の森をなぎ倒す巨竜の鼓膜を刺激した。振り向いたドラゴンの首元を狙って三本の矢を立て続けに放つ。逆鱗と呼ばれる周囲よりもやや脆い個所ではあるが、それでもたいした傷をつけることはできなかった。
しかしながら、ノクスの射撃は玲菜にも引けを取らないくらいに正確だ。周りの鱗よりも感覚が鋭敏な逆鱗に連続して何かが触れたという事実は、ドラゴンの狙いをノクスに絞らせるには十分すぎた。
長い首を振り上げて空気を大量に吸い込み、強いはばたきと同時にドラゴンは咆哮した。叩きつけるような突風と一緒に、耳をつんざく甲高い威嚇の声が轟く。
腕で強風から目をかばって、それでも対象を視界にとらえたまま、ノクスは身を低くかがめた。風が止む一瞬のインターバル。もう一度空気を吸い込むために首を振り上げたのを確認して、素早く右へ飛ぶ。秒を数える前に、先ほどまで立っていた場所に圧縮された高温の熱線が降り注いだ。
音と光の氾濫が収まると、急激に熱せられた地面が音と煙を立てて熱を放出した。そこにあった木々は折れて倒れるどころか、欠片すら残らなかった。人間ならば触れただけで吹き飛ぶだろう。
それが、魔導砲。魔獣達の王座に君臨し続けた伝説の神獣、ドラゴンが持つ最強の魔導兵器だ。一歩でも踏み外せば、一瞬でも反応が遅れれば、意識を反らしてしまえば、死の閃光に焼きつくされる。
死と隣り合わせのこの状況で、ノクスは少しも怯んだりしなかった。冷静にドラゴンの首の動きを見て、次の魔導砲の軌道を正確に予測する。予測した上で、長距離砲で狙える安全圏内のなるべく奥におびき寄せる方向へと逃げる。何がどうなっても、この化け物を町の方まで行かせてはいけない。
人間の大人の倍ほどはあろうかという巨体の動きは必然的にパターン化され、幾度か避けているうちにノクスにもその法則が見えてきた。しかし、慣れは慢心を呼び、注意力を削ぐ。
「くっ……」
抉れた地面から埋まっていたであろう岩が跳ねてノクスを横殴りに突き飛ばす。ドラゴンの動きと魔導砲の軌道だけに注意を向けていたせいだ。受け身をとるものの、真横から直撃した岩は拷問用の鉄球かと思うほどに大きく、重かった。
「まいったね、アバラの一本や二本は覚悟しないといけないな」
軽口を叩いてみるものの、苦痛と焦燥が彼の表情から余裕という余裕を奪い去ってしまっていた。鋼色の鱗をまとったドラゴンの、黄金の瞳が動けなくなった対象を識別した。たとえノクスが動けなくとも、それにとっては関係ない。気高いドラゴンが自分の逆鱗に何度もちょっかいをかけた相手を簡単に許すはずもなかった。
避けるべき方向はすぐにわかる。力に任せた単調な攻撃ならば、軌道を読むのは容易い。
けれども、体が動かない。体の側面が凹むかというほどの衝撃は激痛を残していった。立ち上がるだけでも筋肉と骨が悲鳴を上げて意識をかき乱して行く。
歯を食いしばって、跳ぶ。地面を何度も転がって、転がるたびに思考が焼き切れそうになった。おそらく、回避できるであろう最後の魔導砲が地面を抉る。だいぶ離れた場所まで跳んだにも関わらず、倒れた背中に地響きが伝わってきた。
「ははっ、ずいぶん情熱的なアプローチじゃないか」
今度こそ、黄金の瞳は動けないノクスをとらえた。仰向けに寝転がったノクスの口から、自嘲的な笑いがこぼれた。メタモルに盾の形状でもついていれば少しは違ったのかもしれない。
「今度、天に改良してもらおうかな」
この状況を見る限り、その今度という時に自分は肉片すらも残っていないというのに。
ドラゴンの首が持ち上がり、最後の一撃が放たれることを告げる。ノクスは、奥歯が砕けるほどに強く歯をかみしめた。
「くそっ」
普段の彼では考えられないほど低い声で、己の無力さを呪った。あの岩さえなければ。あの時、注意力を欠いてさえいなければ。悔いても時は戻らない。
せめて、目は閉じずにいることに決めた。憎き相手を呪い殺さんばかりに睨みつけ、そして、そこにある違和感に気付いた。
音と光の蹂躙が始まり、木々をなぎ倒し、大地を抉り取った。
―――◆―――
四角く締め切った空間。他の部屋に比べ、壁や扉の強度が格段に上がっているこの場所で、黙々と剣を振り続ける少女がいた。いつもの和装を身にまとい、いつも使っている打刀型のLPを振るっているが、その表情はいつになく険しい。
この間と違い、人工召喚核を使用した実戦に近い形の訓練は行っていない。行うことができない。使用許可が下りなかったのだ。
それだけならまだ良い。傷が塞がったとは言え、足の負傷はまだ完治したわけではない。余計な負荷をかけないための艦長の配慮だろうと、彼女も理解している。
理解しているからこそ、彼女の表情からは怒りに近い感情が消えない。足の痛みがその怒りを助長する。刀を鞘に納め、灰色の壁に背中を預けて座り込む。息が上がるほどに苦しいのは、怪我のせいで体力が落ちているからだろうか。
悔しい。奥歯が砕けるかと思うほどにかみしめて、けれども立ち上がることはできなかった。
千香がたった一人の襲撃者に無様に負けて、その後始末をするために天は傷を負った。外傷は確かにほとんどなかったけれど、体の内側はボロボロだ。
身体強化系の増幅回路を同時に多数使用したことにより、天は自らの肉体が本来耐えうる以上の力を使ってしまった。結果、見た目は何ともなくとも、触れるだけで激痛が走るほどに激しい筋肉の損傷を招いた。魔力炎症を起こしているのも確かだったが、それ以上に彼が入院していなくてはならない理由は酷使した腕の筋肉にある。
そんな満身創痍の状態にありながら、病室の天は普段と何も変わらない様子だった。内部の損傷を誰にも教えないでいるつもりだったのだ。事実、千香以外はその傷に気付かなかった。クレレは緊張の糸が切れて座り込んでしまっていたし、艦長も軽い口調であまり無茶をするなと天を注意しただけだった。
艦長とクレレの二人が帰った後、千香は天の腕を掴んだ。平静を装っていた表情に激しい苦痛の色が浮かんで、天は呻いた。千香が腕を離してしばらくしてからも、天は黙ったままだった。何故そんな無茶をしたのかなんて、聞けなかった。答えは聞く前からわかりきっていた。出来の悪い妹の尻拭いだ。
目頭に不快な熱がせり上がってきた。歯を食いしばることでそれが零れるのを無理やり抑え込んで、一度深くゆっくりと息を吐いた。
訓練室の壁は冷たい。何やらブリッヂのほうが騒がしかったが、千香が呼ばれることはなかった。何の役にも立たない、弱い自分。手を伸ばしても、走って追いかけても届かないあの人の背中。
思考を負の感情がめぐる。きっと頭の中が見えるなら、雑念だらけでひどいことになっているだろう。それこそ、あの人の部屋みたいに。
このまま訓練を続けていても、良い事は何もない。訓練にならない。汗と一緒にこの雑念を流してしまおうと考えて、彼女は訓練室を後にした。
―――◆―――
白柳 千香は驚いていた。こんな時間に大浴場を利用している人間がいたことも、その相手が素っ頓狂な声を上げて石鹸を踏み、そのまま後ろにスライドして湯船の中にしぶきを上げて背中から倒れ込んだことも十分に驚くべきことだが、今はそれ以上にその相手が目を覚ましていたことに驚いていた。
湯船の中でぶくぶくやっているその相手を抱き起こす。
「大丈夫ですか?」
前にも全く同じことがあったが、今回はあの時以上に心配だった。ついさっきまで――千香が確認したのはもう二時間ほど前だったが――彼女は眠っていたのだ。それも、あまり良くない状態だったらしいことは艦長やクレレの表情からすぐにわかった。
急にお湯の中に背面ダイブするという行為は間違いなく身体に負荷がかかるものである。それが原因でまたどこか悪くなったりでもしたらたまらない。
「はっ」
千香の心配は杞憂に終わった。深く息を吸うミーティアの顔色は全く悪くない。呼吸が荒いのは、水面から顔を出しているのに気付いていなかったせいだろう。
「なんだ千香さんだったのかー」
千香を確認して、強張っていたミーティアの体から力が抜けた。信頼を得られたようで心地よい反面、千香にとってそれは心苦しくもあった。
湯船から離れて、二人はシャワーの前に並んで座った。今回はアクシデントで先に入水してしまったが、本来は全身を清潔にしてから浸かるべき場所だ。
「艦長に挨拶はしましたか?」
「まだですー。やっぱり身だしなみって気になるし……」
「ああ、それはわかります」
あまりだらしない格好で人前に出るのは、たとえ家族同然の艦長が相手であっても抵抗がある。ずっと眠っていればそれだけ汗もかいただろうし、何より起きぬけの顔を誰かに見られるのは恥ずかしい。そう考えれば、目覚めたミーティアがすぐに大浴場に来るのはごく自然なことだ。
自然。今回の一件が過ぎて、またこの自然に戻ってくることができたことを実感できる会話だった。シャンプーを泡立てながら髪を梳く手に力が入った。うつむいた瞬間に、小さな泡が零れて落ちた。
「ひょっとして、泣いてる?」
ミーティアが心配そうに覗き込んでくる。零れる弱さの印を見られたくなくて、千香は目をつぶってシャワーのノブをひねった。
「目にシャンプーが入っただけで……ひゃああ!?」
冷水に打たれて、千香は今度から目をつぶったままシャワーのノブをひねるまいと強く心に刻むことになった。
全身を清潔にした後、二人は湯船に肩まで浸かった。先ほどのアクシデントで体が冷えてしまったからだ。結局、千香は別の意味で恥ずかしいところを見られてしまったのだが、怪我の功名か、そのおかげで落ち込んだ心は少しだけ軽くなったような気がした。
「お風呂は良いなぁ……」
目を閉じて、タイルに響く声さえも楽しむように、ミーティアがつぶやいた。それからしばらく、沈黙が続いた。シャワーヘッドに残った水滴が落ちて、静寂を叩いた。
「みんなには、迷惑かけちゃったかな」
千香のほうに向きなおって、ミーティアは続けた。
「こうして戻ってこれたのは、みんなのおかげなんだよね。ありがとう」
「私は」
ほとんど間をおかずに、千香が口を開いた。
「私は、何もしていません」
水面に映る照明の光を見つめながら、小さな震えを隠すように、声が不自然に大きく響いた。
「ミーティアの誘拐を許し、エルナや副艦長が救出に向かっている間もただ眠っているだけでした」
耐えがたい無力感が心に巣食った自尊心を抉り、切り刻んでいく。
「結局、私は何もできなかったんです」
雫が水面を叩いて、二つの波紋が広がった。己の無力を認めるのは辛かった。ひどく惨めで、ひどく悔しかった。今の顔を見られたくなくて、ミーティアに背を向けた。
目を閉じて抑えようとしても、涙は止まらなかった。呼吸と肩が震えて、一文字に結んだ唇のおかげで情けない声を封じ込めることはできていたけれど、背中越しでも泣いていることはバレているだろう。
「死んでしまった者は、埋めてしまうに限る」
浴場のタイルに反射して響く強い口調の声。けれどもそれは糾弾するものではなく、優しく諭すような色を帯びていた。千香がその真意を理解する前に、ミーティアは続けた。
「失敗はいつでも私達の後ろにいて、影を踏んでいる。だけど、失敗が踏んでるのはただの影。だから、引きずっていくより、そこに埋めちゃったほうが良い」
千香は振り返った。泣き顔を隠すことも忘れてそうしてしまうほど、ミーティアの声にある種の力強さを感じたからだ。彼女はこんなに大人びていただろうか。普段の明るい表情の裏側に、彼女が見せたくない暗い部分があることは知っていたが、ここまで強い、まっすぐな心を持っていたのか。
ミーティアもまた、千香に背を向けていた。彼女は今、どんな表情をしているんだろう。その表情を見ることはできなかったけれど、ミーティアの背中を見ることで彼女の真意がわかった。
「なーんて、偉そうなこと言ったけど、私もついさっきからこう思い始めたんだ」
冗談めかしてそう言いながら振り返ったミーティアは、すでに先ほどの真面目さをすっかり失っていた。
「そう、ですね。失敗の過程でついた傷痕も、いずれ癒える。痛みも乗り越えられる」
「正直言うと、この傷は、もう少しだけ残っててほしい、なんて思ってたんだけど、いつまでも甘えてられないよね……」
ミーティアの背中にあった十字の傷は、スティグマの影響から逃れたためか、一目見ただけではわからないほどに薄く小さくなっていた。
かき乱され、切り裂かれて悲鳴をあげていた千香の心も、不思議と落ち着いていた。足の痛みも消えた。敗北に打ちひしがれた弱い心が、ありもしない痛みを感じさせていたのかもしれない。
もう二度と、負けない。大切な人たちを守り抜く力を、仲間の信頼に答える力を、あの人に追いすがるだけの力を、身につけて見せる。
心地よい決意だった。この気持ちがあるだけで、どこまでも強くなれる気がした。
「ところで、千香さん」
きっかけを与えてくれたミーティアに礼を言おうとしたが、その前にミーティアが口を開いた。なんだか、声が上ずっている。顔も赤くなっていた。
「なんでしょう?」
「千香さんって、いつもこんなに長湯するの?」
千香は慌ててミーティアを抱きかかえ、浴場を後にすることとなった。
―――◆―――
一か八か。最初の綱渡りを終えて、エルナは深く息をついた。
大剣を青眼に構え、切っ先を向けた相手を睨む。あらゆる衝撃を弾き返す強靭な鱗、睨まれるだけで足がすくんでしまうほど鋭く獰猛で野性的な黄金の瞳、燃えるような真紅のたてがみ、風を切り、天空を翔けるための鋼色の翼。人ですらないそれは、普通ならばまず出会うことのない最高位の魔獣――ドラゴン。
目の前で吼え猛るドラゴンは片翼を折られ、すでにその巨体を支えて飛びあがるだけの力を残してはいなかった。無敵の鎧とも言えるドラゴンの鱗が、魔導砲ブレスを放つ直前から直後の短い時間にだけ脆くなることを利用し、エルナが斬りつけたのだ。
強化系術式の増幅回路を二つ併用し、傾いた木を滑走路にして飛び上がったエルナは、ちょうど魔導砲が放たれる瞬間にドラゴンの片翼を叩き折ることに成功した。
だが、その無茶な綱渡りが災いして、エルナはすぐに動き出せなかった。そもそも、強化系術式の増幅回路は身体への負荷が大きい。鋼鉄の肉体を持つ屈強な戦士ならばまだしも、細身のエルナには二つの併用は戦闘の継続に支障が出るレベルだ。構えてはいるものの、体勢を崩したドラゴンにすぐさま畳みかけることはできなかった。
次の綱渡りは、これから襲い来るであろう極太ビームをかいくぐってあのドラゴンにトドメを刺すこと。本当にそんなことができるのかどうかも疑わしい状態だが、エルナは退くつもりはなかった。
ここでエルナが逃げれば、他の誰かがこのドラゴンと対峙しなければならない。天、千香、ノクスの三人は今動けない状態だし、まさかクレレに戦わせるわけにはいかない。艦長も長距離砲の発射のために待機していなければならない。
結果として、今のドレッドノートでドラゴンと対峙できるのは、エルナしかいない。多少の無茶は覚悟しなければならない。
しかし、エルナがここから退かない理由はそれだけではなかった。今は、何も考えたくないのだ。少しでも意識を反らせば、蘇るのは心を突き刺す涙の記憶。それを考えるのは戦いが終わってからにしろと自分に言い聞かせ、体勢を立て直したドラゴンに意識を集中する。
翼を折ったとは言え、魔導砲ブレスは死んではいない。いかにしてその攻撃をかいくぐって一撃を入れるかが勝負だ。ドラゴンが首を振り上げ、大気と共に魔力素を吸い込み始める。強烈な気圧の変化が、周囲に暴風を巻き起こす。
エルナは強化系の増幅回路を大剣にセットした。安全な使用のためには十分なインターバルが必要だが、この際そうも言っていられない。狙うべきはブレスを吐き出す瞬間。振り上げた首を振り下ろす魔導砲発射の予備動作と同時に、エルナは地を蹴った。
大振りな武器は間合いを詰められると役に立たない。この魔導砲ブレスも同じで、ドラゴンの口から放たれるその極太の熱線は、ドラゴンの体に近づけば近づくほど細くなる。
ただ、まっすぐ近づいたのではエルナの大剣も十分な威力が出せない。従って、魔導砲ブレスの死角となるギリギリの角度から、ドラゴンに対してナナメに突進。首元を狙って大剣を振り下ろす。
近づきすぎれば魔導砲の余波でタダでは済まない。大剣のリーチを生かして、可能な限り離れた位置から振り下ろしの一撃を叩きこむ。
はずだった。
「か……はっ」
エルナは魔導砲の衝撃の余波を軽く見積もりすぎた。激しい風圧で首元を狙った一撃が反らされ、振り下ろした刃はわずかにドラゴンの片足を斬りつけるだけにとどまった。
その影響で魔導砲は止まったが、エルナはドラゴンに尻尾を叩きつけられ、抉れた地面を転がった。強化系の増幅回路による負荷と、硬い鱗におおわれた尻尾の一撃がエルナに激しい苦痛を与え、その場から立ち上がることを許さない。
何も考えられなかった。考えてしまうことが恐ろしかった。ドラゴンが再び首を振り上げて大気を巻き込んでいく。魔導砲ブレスが来るのはわかっている。わかってはいても、エルナは動けない。
エルナに出来たのは、ただ恐怖を見ないで済むように瞳を閉じることだった。