10:訪れない平穏
紙媒体の新聞が人の手から姿を消したのは、人類が一つの星に住んでいた頃である。ネットワークを介した電子的な記事の配信はすでに当たり前に行われる世界だ。そうなったからには、情報の鮮度を落とさないために電子新聞というものはリアルタイムで更新されるようになった。
しかしながら、広大な宇宙では情報量も多い。重要な記事が最新の些細な事件に流されてしまうという弊害もあった。それ故、その日にあった特に重要な事件のみをピックアップして作られる記事集が朝と夕方の定時に更新される。朝刊とか夕刊と呼ばれるものだ。
その日のスペースタイムズの夕刊の一面は、ヘルテイト・バーレイグが枢密院議員ディグラルディ・ギンナル殺害の容疑で逮捕されたという記事だった。記事には圧倒的な力を持つ凶悪犯ヘルテイトと一騎討ちをして、大した外傷もなく相手の腕を一本もぎ取ったという魔術師の独占インタビューや、逃げ出したヘルテイトをアジトまで追いかけて行動不能に追い込んだとあるギルドの副艦長と艦長の話が書かれていた。どちらも名前は伏せられていたが。
ミーティアを連れて帰ってからすぐに眠ってしまって、時間の間隔がないエルナはブリッヂに壁に掛けられている丸い時計を見て小さく驚いた。日付が変わる時刻の手前だったからだ。徹夜明けでいろんなことがありすぎたのもあって、疲れていたのだろう。
とりあえず何がどうなったのか確認しておきたくて、ブリッヂの机に設置された端末で夕刊を確認したのだが、読む限りエルナの知っている情報との相違がいくつか見受けられた。艦長はエルナが疑っていたようなスパイではなかった、というのは帰ってきた時の会話の様子から何となくわかっていたが、ヘルテイトの腕を一本もぎ取った魔術師、というのはいったい誰のことだろう。
天のことだとしたら、大した傷もなく、という一節が引っかかる。エルナが知る限り、天はヘルテイトの剣に貫かれて重傷を負ったはずだ。スペースタイムズの見解ではあの傷が大した傷にならないとでも言うのだろうか。
「あ、エルナさん、起きてたんですか」
夕刊の一面を見ながら考え込んでいると、ブリッヂの入り口からクレレが入ってきた。いつもの白を基調とした制服姿ではなく、今は淡い緑色のゆったりした寝巻姿だ。先端に白いボンボンのついたナイトキャップがかわいらしい。事件解決前に見た時と比べると顔色が格段に良くなっている。素直に良かったと思う反面、あの場を一緒に見ていたクレレに天のことを聞いても良いものかどうかという迷いも生まれた。
「うん、ついさっき起きたんだけど……。クレレは眠れないの?」
「実はわたしも今目が覚めたところなんです」
苦笑いしながら言うクレレにつられて、エルナも笑った。一晩で色々なことが起こりすぎたのだから、その次の日を寝潰してしまうのも仕方がない。
「もう聞きました? 天さんのこと」
クレレのほうからこの話題を振ってくれたのはありがたいことだった。ありがたいのだが、どうにもエルナには引っかかるところがある。あまりにもそっけないというか、クレレの反応もスペースタイムズと同じなのだ。まるで、天の傷が本当に些細なものであるかのように。
ひょっとしたら本当に、天はかすり傷程度――あるいは無傷――で済んだのだろうか。自分の記憶を疑いかけながらも、エルナは首を横に振った。
「その、ですね。天さん、今入院してるんですけど」
それはエルナも知っている。ノクスが素早い対応で入院の手続きを済ませるところを、エルナはただ茫然と見ていることしかできなかった。やや言いづらそうにしているところを見ると、やはり天の傷は深かったのだろうか。
「ほとんど、無傷なんです」
「……えっ?」
聞き間違いだと思った。
クレレはほとんど無傷だと言った。話の流れからして、天が、ということだろうか。そうであるなら、スペースタイムズの記述と一致している。
しかし、天が剣で貫かれたところはクレレも見ていたはずだ。あれでほとんど無傷とはどういうことだろう。そもそも、ほとんど無傷なのに何故入院しているのだろうか。
さっぱりわからないエルナに、クレレが補足説明してくれた。
「幻覚術式で刺されたように見せかけていたんだそうです……。相手を油断させるためだったにしても、心臓に悪いですよね」
クレレの話によれば、煙の中で天は幻覚術式を展開し、その場にいた全員に幻を見せていたのだと言う。本当は刺されてなどおらず、したがって流れているように見えた血も幻影だったということになる。
しかしながら、あの場にいたのは天を除いて四人。それだけの人数に等しく幻覚を見せるほどの術式は、十個の増幅回路があったとしてもそう容易く操れるものではない。要するに、天が入院している理由はそういうことらしかった。
「短時間に魔力を消費しすぎて、軽い炎症起こしてるって言ってました。遅くとも一週間程度で退院できるみたいです」
短時間に人体から放出する魔力の量が多すぎると、それからしばらくの間、魔力の放出力が小さくなったり、放出の際に痛みを伴う状態になることがある。放出口は目に見えない――仮想的なモノとしてとらえられている――が、イメージとしては円筒型の空洞だ。その空洞の入り口の面積を押し広げるほどの量の魔力が短時間の間に通った場合、放出口は元の大きさ、形状を保とうとして収縮しようとする。
したがって、平時よりも放出口の面積が小さくなり、普段と同じ感覚で魔術を使おうとすると余計な負荷がかかってしまうため、それが痛みとなって術師を襲うのだ。この状態は、炎症を起こした状態と呼ばれるが、よほどひどくない限りはしばらく安静にしていれば治ってしまう。
エルナは一気に力が抜けてしまったような気がした。端末の電源を落として机にもたれかかった。緊張の種と疑問が無くなって、頬の筋肉が緩んだ。
「なんだか起きたばかりなのに一気に疲れた気がするよ」
「あはは、でも」
一呼吸置いて言ったクレレの言葉と
「良かったです。みんな、無事で」
今まで見た中で一番眩しい笑顔が、エルナに平穏の訪れを実感させてくれた。色々なことがありすぎたけれど、この笑顔が戻ってきたことが答えの一つだ。エルナからも自然に笑みがこぼれた。
時計の秒針がカチカチと静かに時を刻む心地よい音を意識させて、エルナは時間を確認した。「もう遅いし、眠ろうか」と言おうとして、その言葉を遮る音が二人だけのブリッヂに響いた。来るべきものが来ない状態のまま待ち続けて、緊張が解けたと同時に待機状態を解除する音だ。
数秒の間、二人は身動き一つできなかったが、やがてどちらからともなく笑い出した。
「うん、そうだね。軽く何か食べようか」
朝から眠っていたとは言え、生きている以上、お腹は減るものだ。
―――◆―――
クレレと一緒に軽食を取ってから、エルナは医務室に向かうことにした。目が覚めてからすぐにブリッヂに向かったため、まだ私物が置きっぱなしになっているのだ。それを取りに行く他に、ミーティアの様子も気になる。
医務室の扉はスライド式の自動ドアになっている。部屋の用途上、この自動ドアは静音性に優れており、緊急時にも対応できるように高速に開くようにもなっている。扉の前で立ち止まる必要は全くない。
ベッドの傍に立てかけておいた剣を、音を立てないように気をつけながら持ち上げる。自分の呼吸の音もそうだが、隣のベッドからかすかに聞こえてくる規則正しい寝息を意識するとなんだかむずがゆい気がした。朝、ミーティアを連れて戻ってきた時はとにかく疲れていて何も考える余裕がなかったのだが、ミーティアの隣のベッドで眠っていたという事実が今更ながら少し恥ずかしくなった。
落ち着かない変な気分になってしまいそうだったので、急いで部屋を出ようとミーティアに背を向ける。そうしたところで、ドアの前に誰かが立っていることに気がついた。
背が高いことから、クレレではないことがわかる。今この船にいる人物で近いのは玲菜かノクスだが、エルナの前に現れたのはそのどちらでもなかった。端正な顔立ちと触れたら消えてしまいそうな儚さを持つ表情がエルナの目を引いた。
見たこともない相手だが、敵意は感じない。瞳の奥深くには優しささえ感じるほどだった。薄い青の甚平型の患者衣のような服に身を包んだその青年は、ゆっくりと口を開いた。
「君が、エルナか」
決して大きな声ではないが、聞く者の胸の奥深くにまで入り込むような芯のある声だった。一方的に名前を知られている状況に、普段ならば小さな不快感を持つはずなのだが、この青年に対しては不思議と嫌悪感は抱かなかった。むしろ、エルナの目にはこの青年がとても悲しい存在に見えた。
何故だか詳しいことはわからない。だけれど、その瞳、その声、その佇まいが、どこか悲しい。わからないのに無性に悲しくなって、それが少し不快だった。
「僕はエルネスト。ミーティアの、兄だった」
エルネスト・エンシスハイム。青年はそう名乗った。ミーティアは十年前に孤児院からエンシスハイム卿に引き取られた。エンシスハイム卿に他の子息がいたとすれば、その人物がミーティアの兄であっても何もおかしくはない。
それなのに、エルナにはわからないことが更に増えたような気分だった。そもそも何故、ミーティアの兄だったというエルネストが、今この船にいるのか。兄「だった」と過去形になっているのはどういうことなのか。そして、このエルネストという青年から感じる、何か重大な欠落の気配の正体は何なのか。
三つの疑問のうちの最初のものは、本人に聞けばわかることだ。わからないことがたくさんあっても、一つずつ解決していけばいい。エルナはミーティアを起こさないように声を押さえながら、エルネストに問いかけた。
「あなたはどうしてここへ来たんですか」
言ってから詰問するような口調になってしまっていたことに気がつくが、エルネストは逆に安心したように微笑んだ。敵意はないのに、エルネストはどこか普通の人間と違う空気を持っていて、エルナは無意識のうちにそれを恐れていたのかもしれない。
エルネストの目がすっと細まり、エルナの後ろで眠るミーティアに向けられた。限りない慈愛の眼差し。ただ一人を強く想う深い愛情が、エルネストという存在の全てを形作っていた。時計の針が逆に回っているのにそれに気付けないような、大きすぎる違和感。エルナの意識の中で強くなったそれは、敵意も悪意も持たないエルネストという青年に対する警戒心を煽る。やはりこのエルネストという青年には、人間としては何か致命的な欠陥がある。
「ミーティアと『スティグマ』の関係について、ミーティアが一番信頼している君に伝えておきたいんだ」
『スティグマ』という単語を聞いた瞬間、背筋に何か冷たいものが走ったような感覚がした。ともすると忘れそうになってしまうのだが、エルナの考えが正しければ、『スティグマ』の暴走はまだミーティアが押さえているだけなのだ。
近くにいる自分がそれを支えていければ良いと漠然と思ってはいたが、そう簡単な問題でもないのかもしれない。そもそもそんなに簡単なことならば、あの時ノクスは最後の手段を用意したりしただろうか。
「『スティグマ』はミーティアの魔力を喰らう。喰い尽くされればまた『スティグマ』の暴走を抑えることができなくなる」
要するに、ミーティアの腕が変質したのと同じことがまた起こる、ということだろう。否、ノクスはミーティアが必死に暴走を抑えていたからあれで済んだのだと言った。連邦政府さえもが危険視する古代の魔導具の中でも特に強力な力を持つ『スティグマ』が完全に暴走したとしたら、その被害はどれほどのものになるのだろう。そして、ミーティアはどうなってしまうのだろう。
想像するだけで頭の中が拒否反応を起こした。最後まで具体的に考えてしまいたくない。
「ミーティアを今の苦しみから救うには、まずミーティアから『スティグマ』への魔力供給量を減らさなければならない。それから、ミーティアは今、生きることへの執着に欠けている。君が少し取り戻してくれたようだけど、その気力もいつまでもつかわからない」
エルネストは淡々と説明した。感情そのものが欠けているわけではないが、この青年にはどこか人間らしさがない。エルナの中でその違和感がようやく具体的な形になって理解されてきた。それと同時に、ある種の怒りに近い感情がエルナの中で芽生えた。
「あなたは、ミーティアを救おうとはしてくれないんですか」
エルネストが説明したのはミーティアを『スティグマ』による苦痛から救う方法だ。その方法を知っているのなら、エルネスト自身がそれを行えば良い。それを行わずに他人に押し付けようとするような行為は、どこかおかしい。
エルナの問いを聞いて、エルネストは悲しげな表情を浮かべた。
「僕はミーティアを喰い殺そうとする『スティグマ』そのものだ。『スティグマ』の所有者は継承の儀式を終えるか『スティグマ』に喰い尽されるかすると、こうして『スティグマ』の中に飲まれてしまう」
「どういうことですか?」
エルネストが『スティグマ』そのものである、という説明はよくわからない。
ミーティアの近くに立てかけられていた杖、『スティグマ』がエルネストの目の前に浮かんだ。エルネストと同じ意思を持つモノのようにエルネストの発言に合わせて杖の先端の薄い黄色の光が明滅する。
それがエルネストの説明だった。同じ意思を持つモノのように、ではなく、同じ意思を持つモノなのだ。すなわち、エルネストは『スティグマ』であり、『スティグマ』はエルネストであるということだった。
「僕はミーティアだけを愛している。けれど、『スティグマ』はそうじゃない。『スティグマ』の枠から出ることのできない僕がどれだけ願っても、ミーティアが解放されることはない」
エルネストはミーティアだけを愛している。つまり、エルネスト自身への愛が全く欠けているのだ。エルネストの人間としての致命的な欠陥は、自らの生命に執着しないこと。『スティグマ』の枠から出ることができない、とはつまり、彼が人間として意思を持って行える行動が制限されている、ということだろう。
ミーティアを『スティグマ』の呪縛から解放することは、魔力供給を必要とする『スティグマ』の根本命令に反する行為だから、『スティグマ』そのものであるエルネストには行えない。だから、エルナにその方法だけを教えたのだろう。
この青年を信用しても良いかどうかはまだわからない。だが、エルネストの話し方や眼差しから、ミーティアを深く愛しているという事実だけは覆しようのないものだとわかった。
「どうして、ミーティアのお兄さん『だった』んですか? 今は違うんですか?」
ミーティアと『スティグマ』に関する情報をもたらすためにここに来たことと、エルネストが自身の生命への執着に欠けるということはわかった。だが、もう一つだけわからないままなことがある。最初に彼が「ミーティアの兄だった」と過去形にした理由だ。
エルネストはこれまでと変わらず、悲しげな表情で、しかし淡々と語った。
「ミーティアは僕を殺したんだ」
エルナは何も言えなかった。何か声を出そうとしても喉の奥に引っ掛かって出てこない。胸に何か固いモノがつかえているようで、呼吸が少し苦しい。
「『スティグマ』にそうさせられた。そうなる前に、僕が勇気を出すべきだった。ミーティアの手を汚す前に、自分でケリをつけるべきだったんだ。そうすれば『スティグマ』の機能は停止して、今みたいにミーティアが苦しむことはなかった……!」
話しながらエルネストの語気は強くなっていった。数多の人間を喰らい尽したであろう『スティグマ』の中で、エルネストという青年が持ち続けることのできた気持ち。ミーティアへの強い想いと後悔が、彼の言葉の中に込められていた。
「けれど願ってしまった。ミーティアの傍にいられる未来を。ミーティアが傍にいてくれる世界を。だからこうして、『スティグマ』としてミーティアを喰い殺そうとしている。同じ世界に引きずり込もうとしている。もう、ミーティアに兄はいないんだ」
出会った時にエルナが感じた悲しさはこれだったのだ。本当は傍にいたいのに、そうすることで傷つけてしまう。離れようとしても、自分の力ではどうにもならない。だから、外にいる誰かを頼るしかない。
「ミーティアは、あなたが『スティグマ』の中にいることを、知っているんですか?」
エルネストは首を横に振った。
「知らないし、知ってはいけない。ミーティアは僕のことを忘れるべきだ」
エルナは納得がいかなかった。エルネストはミーティアのことだけを考えているのに、その想いを伝えることさえ許されない。ミーティアだって、『スティグマ』にそうさせられたからと言って、兄を殺してしまったことはひどく悔やんでいるに違いない。その死んだ兄がこうして意識を持ってここにいるという事実を、ミーティアが知らないのはあまりに悲しい。
「でも、それじゃあ……!」
「三日だ」
エルナの言葉を遮って、エルネストが短く言った。
「ミーティアが『スティグマ』を押さえていられるのはせいぜいあと三日だ。必要なことは伝えたから、僕は戻るよ」
「え、ちょっと……!」
エルナが呼び止めるのも聞かずに、エルネストはその場から姿を消した。ドアから医務室の外に出るわけでもなく、文字通り体が透き通って、大気に溶けるように消えた。固く軽いものが床を叩くカランという音がして、一本の杖がその場に転がった。
「三日……。急にそんなこと言われても」
エルナはその場に転がった『スティグマ』を拾って、ミーティアが眠るベッドの傍に立てかけた。眠るミーティアの表情は先ほどのエルネストによく似て、悲しげだった。
「エルぅ……」
絞り出すような小さな声がミーティアの口から洩れた。エルネストがミーティアを愛していたのと同じように、きっとミーティアもエルネストのことを強く想っているのだ。
エルナは音を立てないように医務室の自動ドアを抜けて、自室へ向かった。忘れないうちに、エルネストが言っていたことをメモしておかなければならない。多くの情報で頭が混乱している今よりも、ひと眠りして落ち着いてから考えたほうが良いだろう。『スティグマ』に関する魔術的なことはよくわからないから、クレレに相談するのも良いだろう。
自分の部屋に置いた薄型の端末に知り得た情報をまとめて、頭の中で色々と考えながらベッドにもぐりこむ。得た情報も多かったがわからないことも同じくらい増えたため、複雑な思考を繰り返す前にエルナの意識は眠りに落ちて行った。
―――◆―――
翌朝。エルナが医務室に来た時にはすでに玲菜とクレレの姿があった。
ミーティアはまだ眠っているようだったが、昨晩よりも顔色が悪くなっているような気がした。
そのミーティアをじっと見つめて、玲菜は腕を組んで考え込んでいる。傍らにいるクレレの表情も、困惑と不安の色に塗りつぶされていた。
エルナに気付いた玲菜は一応笑顔を浮かべて挨拶してくれたが、すぐに難しい表情に戻った。エルナはすでにちゃん付けで呼ばれることに全く違和感を覚えなくなっていたし、引っかかっていたとしても表情に出すのが躊躇われる雰囲気だった。
「仕方ないわね。片付けないといけない書類もあるし、あとはクレレちゃんに任せるわ」
そう言い残して玲菜が医務室から出ていってからも、重苦しい空気は変わらなかった。エルナが口を開いても良いのかどうか躊躇っているうちに、クレレのほうから話してくれた。
「その……ミーティアさん、まだ危険な状態なんです……」
「『スティグマ』のこと?」
クレレは小さくうなずいた。エルネストから聞かされた情報があったため、エルナはさほど驚かなかった。出来るだけ安心させようとしてくれているのか、クレレは今わかっている情報を可能な限り丁寧に説明してくれた。
『スティグマ』がミーティアから魔力を吸い上げていること、このペースで吸い上げ続けるとミーティアの魔力が枯渇し、魔力の供給を失った『スティグマ』が再び暴走を始めること、ミーティアと『スティグマ』の魔術的つながりを安全に断ち切る方法が存在しない以上、暴走を防ぐには魔力供給のペースをミーティア自身の魔力の回復速度よりも低いレベルまでどうにかして抑えなければならないことなど、昨晩エルネストから説明を受けたこととほぼ同じ内容だった。
違ったのは、ミーティアから『スティグマ』への魔力供給を減らす方法を見つけるために、『スティグマ』の構造を天に調べてもらっているということ、それから、もってあと三日という情報が抜けていることだった。
クレレの探査でも『スティグマ』の構造そのものは見えるのだが、LPの知識が豊富でないと見えた構造を読み取ることはできない。天はまだ病室から動くことができないらしいから、構造図の写しをクレレが作成して、それを今見てもらっているとのことだった。
エルナは、エルネストのことを言い出すべきか迷った。言い出したところで、あと三日しかもたないという不安を煽る情報が増えるだけで、クレレを安心させる要素がどこにもないからだ。
互いに黙ったまま、何か声を発するべきかどうか迷ったまま、時間がゆっくり過ぎて行った。
次に医務室のドアが開いて千香が入ってくるまで、呼吸さえ苦しくなるような沈黙が二人の間に流れていた。
「大方調べ終わりました。構造図に色々書き加えたものみたいなんですが、私にはさっぱりわからないのでクレレに任せます」
情報を格納する増幅回路がクレレに渡される。千香はそのまま医務室を出て行った。足の傷が良くなってきたから、少しずつ本格的な稽古を再開するということだった。
医務室の専用端末の駆動部に渡された増幅回路をセットして、淡い青の空中ディスプレイに構造図を表示させる。わかりやすく拡大された画像が小分けになっていて、簡潔な――けれど素人にもわかる――説明がいたるところに書き込まれている。
先ほどの話でもあったように、『スティグマ』とミーティアの魔術的つながりを安全に断ち切る方法は存在しないらしく、最後の画像には『スティグマ』への魔力供給を最大五十パーセント減少させる方法が記されていた。
『所持者と『スティグマ』の供給路に割り込みをかけて強制的に別の魔力を流し込んでやることで、『スティグマ』側からの魔力要求量を恒久的に減少した状態にさせる。流し込む魔力の周波が低ければ低いほど供給妨害性は高く、減少効率は良い』
エルナにはそれだけ読んでも何のことだかさっぱりだった。クレレに詳しいことを聞こうとして、彼女がひどく動揺していることに気がついた。
この内容が信じられないという様子で、視線がせわしなく泳いでいる。
「えっと……そんなに難しいことなの?」
「そ、そうじゃ、なくって……!」
尋常ではない慌て方だが、エルナにはさっぱりその原因がわからない。深呼吸をして落ち着くように促すと、更にクレレの呼吸が速くなった。結局疲れて息切れしながら落ち着くと、クレレはゆっくり、言い聞かせるように説明を始めた。
「えっと、その、まず、魔力の周波というのは、普段あまり魔術を使わない人のものほど低くなります。この船に乗っている人だと、一番低いのはエルナさん、次点で玲菜さんか千香さんになります。
つまり、この三人のうちの誰か……一番望ましいのはエルナさんですが、誰かの魔力をミーティアさんから『スティグマ』への魔力の供給に割り込んで、『スティグマ』に流し込む必要があるんです」
「うん。ボクに何かできるなら、何でもするよ」
クレレが視線を下のほうにそらした。なんとか目を合わせようと努力してはくれているものの、どうしてもエルナの目を見た瞬間に下を向いてしまう。仕方なく、クレレはそのまま話を続けた。
「割り込むには、ミーティアさんと魔術的なつながりを持たないといけないんですけど、その、その方法は……」
次のクレレの言葉を聞いて、深く考えもせずに何でもすると言ったことを、エルナは後悔することになった。
「……キス、なんです」