第7話 黒幕。そして大願成就
さて、とうとう五生目に入ってしまったようだ。
倒れた際に見えた義頼の表情から推察するに、こたびの闇討ちは義頼も知らなかったように見えた。
つまり、今回は義頼自身は完璧に欺けていたようだが、私たちの敵は義頼だけではなかったらしい。
正直なところ、一生目は家督を争った敵だったし、二生目はそれに加えて最初から敵視する発言を繰り返していたので、私が憎まれて殺されるのはわかる。
ただ、私が激しく怒り、復讐を誓うことになった原因となった行為、普通は仏門に入れれば済むだけの母上や幼い妹をわざわざ殺したことは、ずっと心に棘のように引っかかっていた。
さらに、三生目、四生目で意図的に交流を深めた義頼は、思っていたよりもずっと気のいい男だった。義頼と比べたら義弘の方がよほど傲慢で陰険に見える。付け加えれば、三生目には毒を盛られたが、計画が漏れたとしても時期が早すぎるような気はしていた。
なんとなく違和感を感じつつも、深く考えることなく『打倒義頼』で計画を進めていたのだが、敵が義頼を巻き込んでの直接襲撃という荒技に手を染めてくれたおかげで、四生目にして初めて、今まで気付かなかった黒幕の存在を知ることができた。
そして、隠れていた敵の存在が明らかになったことで、母上や桃の命が奪われた理由がようやくはっきりした。
しびれ薬を盛られたとはいえ、意識ははっきりしていた私には、賊どもの顔がみえていた。
見知らぬ端武者がほとんどだったが、賊の首魁とおぼしき者だけは見知った顔であった。
率いていたのは佐野大炊助。小弓公方足利頼淳公の近臣であった。
そう、真の敵は小弓公方家であったのだ。
小弓公方家は初代義明公の時代から里見家との関係が深く、特に国府台合戦で義明公とお世継ぎの義純公が討ち死になさってからは、ほぼ里見家の庇護下にある。
そして、小弓公方家が関東公方、それを支える里見家が関東副帥、つまりは副将軍として、古河公方家とそれを傀儡とする北条めや、その傘下の千葉などと戦ってきた。義弘も正妻として、義明公の息女を迎えていた時期がある。
その関係が微妙になったのは父上が前妻である義明公の息女と死別されてからだ。
そのころには、もう伊勢めが相当力を増しており、里見家も本拠である久留里城下まで攻め込まれることがあったほどだ。
伊勢と古河公方との関係も冷え込みが目立ち、伊豆・相模・武蔵に加えて下総もほぼ押さえた伊勢の奴ばらに対抗するため、越後の上杉謙信を核に東関東・北関東の諸将が結束する場面も増えた。
当家も古河公方家内の反伊勢勢力と共闘したり、先代晴氏公の後継に、反伊勢派の藤氏公を推したりと小弓公方家一辺倒だった関係を改めていった。
そんな中、父上が後妻として娶ったのが、足利晴氏公の息女である私の母上だ。
つまり私は先代の古河公方 足利晴氏公の孫で当代の義氏公の甥になる。
これまで公方様、公方様と持ち上げて、戦の神輿として利用しておきながら、急に掌を返された形になった小弓公方家にしてみれば面白いはずがない。私や母上を排除しようと動くのも当然だ。
天正の乱の原因は里見家継承に関わる義頼の野望のせいだと思っていたが、実はそれは表向きで、裏では古河公方家と小弓公方家の抗争が深く関わっていたようだ。
することが増えてしまったが、老練で用心深い義頼への対策に比べれば、落ちぶれた小弓公方などなんということはない。
追い出すなり、反伊勢派の古河公方家に無理矢理吸収さてしまうなり、闇に葬って伊勢に罪をなすりつけるなりすれば良いのだ。
4回も人生を繰り返してきたが、ここにきてようやく光が見えた。今度こそ、今度こそは義頼めを討ち、本懐を遂げてくれようぞ。
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天正6年(1578年)5月 上総国望陀郡 久留里城
「若! 御免!」
広間のそこかしこに血のついた久留里城本丸。血刀を持って立つ私の下に、血塗れの男が現れた。
入ってきた男は神子上土佐。武芸に長じた家中きっての剛の者。
……二生目で私を斬った男だ。
「父上。無礼ですぞ!」
脇に控える土佐の息子治郎右衛門が行く手を阻む。
神子上治郎右衛門は未だ14と若いが武芸の素質はかなりのもので、昨今はお抱えの剣術師範からも一本を取れるようになってきた。もちろん私の供回りの中では一番の腕前だ。
その親子が睨み合う。
先に口を開いたのは治郎右衛門だった。
「父上。もはや『若』ではごさいませんぞ」
それを聞いて土佐もほおを緩める。
「いやはや、おぬしの言うとおりじゃわい。『殿』失礼つかまつった」
「土佐、苦しゅうない。義弘が身罷って間もないのじゃ。して、首尾はいかがじゃ?」
「おお、殿。そうでございました。重ね重ね失礼つかまった。
上々でございます。刑部大輔様の手の者、ことごとく討ち果たしましてございます」
「土佐。でかした!
治郎右衛門!」
脇の治郎右衛門に腰に履いた刀を下げ渡す。
「土佐、此度は見事な働きであった。その忠勤に応え太刀を与える。今後も当家のため、励んでくれ」
「ありがたき幸せ!」
「よし! 皆の者。岡本城に出陣じゃ! 陣ぶれを出せ! すぐに刑部大輔の妻子を押さえるぞ!」
佐野大炊助
小弓公方家の家臣。政綱とも。娘は小弓公方足利頼淳に嫁ぐ。孫は秀吉の側室になった月桂院。佐野信吉とは別人。
神子上土佐
里見家家臣。本名は重。安房国朝夷郡の郷士。妻は小野氏。その他詳細は不明。
神子上治郎右衛門
本名は吉明。別名、御子神典膳・小野忠明。里見家家臣。上総を訪れた伊東一刀斎に勝負を挑むも敗れ、師事する。その後、師の誘いに応じて里見家を出奔し、一刀斎の諸国修行の旅に随行する。 兄弟子善鬼と後継者の座をかけた決闘を行い、勝って一刀斎の後継者となる。徳川家剣術指南役となり、母方の姓である小野氏に改姓。また、将軍秀忠より偏諱を賜り、忠明と改名。小野派一刀流の祖。
小弓公方家
2代古河公方足利政氏の子、足利義明を初代とする一族。下総国小弓城(現在の千葉市中央区生実)を拠点としたため、小弓公方と言われる。初代義明は最初は上総武田氏の傀儡のような立場だったが、徐々に力を付け、房総に覇を唱えるまでになる。それに危機感を抱いた古河公方家と北条家の連合軍と下総国府台(千葉県市川市)で決戦を行うが、当主義明と嫡男を失う大敗北を喫する。その後は主に里見家の庇護のもとで命脈を保つ。本作当時の当主は足利頼淳。なお、頼淳の子、国朝は、後に最後の古河公方、足利義氏の娘氏姫と結婚し、古河小弓の両公方家は統合。喜連川藩が成立する。
※ちなみに江戸時代の喜連川藩。領地は旗本クラスだったが、家格は十万石格。参勤交代の義務もないという破格の待遇だった。流石は足利氏!




