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第4話 父の危篤。そして襲撃

 天正5年(1577年)12月 上総かづさ鹿野山(かのうざん)



 あれから四年が過ぎようとしている。私は改名した。今の名を淳泰じゅんたいという。そして今の住まいは鹿野山神野寺かのうざんじんやじ。十歳にして出家の身だ。





 自信満々で臨んだあの時の湯起請は、無残にも失敗に終わった。



「神仏も照覧あれ!」と叫んで、熱湯に勢いよく手を差し入れ、石をつかんだまでは良かった。が、間髪を入れず、すさまじい衝撃が走って、そこから記憶は曖昧になっている。



 後で聞いたところによると、悲鳴を上げながら桟敷さじきを転げ回ったらしい。それだけなら物笑いの種になるだけでよかった。しかし、右腕のやけどはかなりの重傷であった。何日も生死の境をさまようありさまで、最終的に命こそ助かったが、火傷の痛みが治まっても、思うように物をつかむことができなくなっていた。



 そんな私に、祖父里見義堯(岱叟院)様のくだした言葉は、




「神仏の加護もなく、利き腕が不自由になった者に家を継がせることはできん。家中を乱した罪もある。火傷が癒え次第、即刻出家させよ!」




というものであった。



 このような経緯で、私は七歳にして鹿野山に送られ、出家の身となったというわけだ。




 山へ送られた当時は不遜にも神仏を恨みもしたし、岱叟院様の仕置きに憤りもした。ただ、今となっては致し方のないことであったと思う。


 せっかく生き返る機会をいただいたのに、私はそれにおごり、「加護があって当然」などと考えていた。これではばちが当たるのもあたりまえだ。

 また、あれだけの騒ぎを起こしてしまったのだ、義継(義頼)めも当然私を敵として認識したに違いない。そして、負けた上に何も罰を与えられないともなれば、義継めとそれを担ぐ者どもは不満をもち、私を害そうと動くであろう。将来を期待された者ならば守りも堅かろうが、武士として致命的な障害を負ってしまった者を誰が守ってくれようか。


 岱叟院様は、私に罰を与えた一方で、私の命を守ってくださっていたのだ。

 二度目の命を無駄にせずにすんだのだ。岱叟院様には感謝してもしきれないご恩をいただいた。



 山での修行は、ぬくぬくと育てられ、なおかつ利き腕も不自由になった私にとって、なかなかきついものであった。が、一度死んでいる身なれば、そう苦にもならぬ。頑張って動かしているうちに、左手は右手以上に器用に扱えるようになってきたし、右手の動く範囲も広がってきた。こういったことにも喜びを感じる。


 悔しいのは、私が動いた結果、義継めが世継の地位を盤石にしてしまったことだ。敵に引導を渡さんとして、敵を利する結果にしかならんとは、皮肉でしかない。ただ、私が家を継げないのであれば、母上やもうすぐ生まれる()が殺されなければならない理由もあるまい。死ぬ前に願った敵討ちは達成できなかったが、母上や桃の命を守れたのであれば、結果として悪くなかったのかもしれぬ。



 このようなことを考えていたとき、早馬が山門に駆け込んでくるのが見えた。使者は転がり落ちるように下馬すると、私の前に駆け寄ってひざまずき、大声で叫んだ。


左馬頭(里見義弘)様、久留里城内にて先刻吐血。御危篤にございます」





 ばかな! 父上が亡くなるのは来年だったはず。

 母上からの文に、体調が悪そうだとは記されてあったが……。私のせいか!

 そうだ! 一連の事件以来、父上はふさぎ込むことが増え、酒量も増していると聞いていた。私が父の寿命を縮めてしまったのだ!


「すぐに参る!」


 急いで身支度を整えた私は、使者である真田与十さなだよじゅうの馬に同乗し、寺を出た。


 山道を下り、秋元城下を過ぎて、小糸川を渡る。すでに日は西に傾いている。が、久留里の町までは、あと一里半ほど。もう一山越えねばならぬとはいえ、この様子なら、日暮れまでには何とか久留里城下にたどり着けそうである。


 急坂を駆け上がり、郡境が見えてきたとき、道が倒木で塞がれていることに気付いた。

 乗り越えようと馬を降りた瞬間、周囲の木立の陰から、十数名の集団が現れた。




何奴なにやつじゃ! 里見左馬頭様がご子息、仙慶院淳泰せんけいいんじゅんたい様と知っての狼藉か!!」


「誰でも構わん。ここは我らが関所じゃわい。通りたくば、関銭を払ってもらおうか」


「な、なんじゃと! こ、この……」


「与十」


「わ、若様」


「今は先を急ぐ身じゃ。一刻の猶予も無い。物で済むなら済ませたい」


「お、餓鬼のくせに物わかりがいいじゃねえか。それでなくちゃいけねえや」


「あいにく我は仏門の身。また急ぎの道中ゆえ、今は手持ちがないのじゃ。日ごろのことなら、銭が用立てられるまでこちらに止めおかれても構わぬが、一刻でも早く久留里に着かねばならぬ。この袈裟けさを与えるゆえ、ここは収めてくれまいか」




 馬から下りてしまった今、この人数に囲まれて、逃げることは叶うまい。からの故事にいわく『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』と。ここは、じたばたせずに、賊の懐に飛び込まねば、目的を遂げることはできまい。そう考えた私は、賊の首領とおぼしき男の前に進み出て、身にまとう袈裟を外して渡した。




「ほほう。坊主、なかなかいい袈裟じゃねえか。……だが、足りねえなぁ。足りねえ分はてめえの命で払ってもらおうかっ!」




 一瞬の抜き打ち。



 山賊の腕とは思えぬ鋭い一閃。



 私は天地がゆっくりと回転し、自分の首が血を吹き出すのを見ながら、意識を失った。


 













真田与十

 実在した里見家家臣。史実では特筆すべき事績はない。




追記

淳泰じゅんたい:義重(梅王丸)の出家名。※史実でも淳泰を名乗っています。



秋元城(小糸城)

 鹿野山の麓の千葉県君津市清和にあった城。当時は里見家の一門が城主を務めていた。家康の関東入府後に廃城。



鹿野山神野寺

 千葉県君津市鹿野山にある真言宗智山派の寺院。聖徳太子により推古天皇の時代(598年)に創建された関東地方最古の寺とも言われる。慈覚大師円仁の中興の話なども残るが、永正年間(1504年~1521年)に真言宗寺院となる。里見氏の尊崇を集めた。

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