第22話 臨終。そして抵抗
元和8年(1622年) 安房国 安房郡 真倉村 泉慶院
数日前から起き上がれぬ。食事も喉を通らなくなってしもうた。
里見家の倉吉移封前なら、当院の寺領は130石もあったから、医者にかかることもできたのだろうが、今の寺領は7石。私だけならともかく、弟子たちも食べさせて行く必要がある。とても医者にかかっている余裕などない。
こんな状況では回復の望みは薄いと言わざるを得ない。
ここで終わらなければならんのは、口惜しくはあるが、太閤と違い、家康様は、子だくさん。側室を持たぬ秀忠様にも、お二人の男児がいらっしゃる。もはや、天下の趨勢は、そう大きくは動くまい。これでよしといたそうか。
それでもこんなに生きたのは初めてだ。
私も55。20歳を超えて生きたことなど滅多になかった男が、55まで生きたのだ。不平を漏らすのは筋違いというものじゃ。それにしても、この55年、数奇な運命をたどったものよ。
永禄11年(1568年)2月 上総国 望陀郡 久留里城
うーむ。まさかこのようなことになろうとは、思いもしなかった。あれほどの強勢を誇った北条家じゃ。まさか、たったの数か月で滅びることになろうとは。
北条家の家中でないにも関わらず、私が切腹を命じられたと言うことは、相当大きな戦果を上げた証拠だろう。しかし、いくら私が戦功を上げたところで、大局がひっくり返るようなことはなかった。
これは、早いうちから豊臣に誼を通じておくべきであったか。またしても抜かったわい。
……いや、そうとも言えぬぞ!
天正10年の武田滅亡の頃は、織田信長公が天下をほぼ手中に収めておった。更に言えば、天正壬午の乱の和睦が成された辺りでは、北条・徳川の方が豊臣方よりも押さえた土地は広かった。
それがどうじゃ。織田家は秀吉めに奪われ、北条家は滅びてしもうた。豊臣の世が長く続くかだって、全くの未知数じゃ。
天下人になったとはいえ、秀吉には実子がおらぬ。豊臣に付いたとて、我が里見家が、後々まで生き残れるという保証は全くないではないか!
これは、天下の行く末が定まるのを、見極めるほかはあるまい。
よし! 今生はとにかく生き残って、『見る』ことに徹しよう。
家督とか、権力闘争のもとになりそうなことは、全て義頼に譲り、出家でもしてじっくり生き残るのだ。
そうとなったら、今生は『神童』は封印じゃ。
『神童』などと、もてはやされようものなら、私を担ごうとするものが必ず出る。そうとなっては一生目の二の舞じゃ。色々と面倒じゃが、逆に阿呆の子のふりでもせねばなるまい。
よもやここまで来て、かような真似をすることになろうとは……。
ま、大事の前の小事。我慢せねば、な。
元和8年(1622年) 安房国 安房郡 真倉村 泉慶院
これは、もう拙いようじゃ。
私は、かすれる声で、弟子の淳衡と、梅王丸時代から仕えてくれている、寺男の勝又宗右衛門を呼ぶ。
自分は長くはないと伝えると、2人とも、縁起でもないと、怒り出したが、このままでは、伝えられることも伝えられなくなると言うと、黙った。
2人には、華美な葬儀は要らぬこと、墓石は脇の館山城の廃墟から、見栄えの良い石でも拾ってきて置けば良いこと、置く場所は青岳尼様の隣にすることを伝えた。
そして、まず淳衡に、寺領をたったの7石しか残せなかったことを詫び、厚かましい願いだが、寺を守ってほしいと話した。続いて、宗右衛門には、長年の忠勤に対する褒美として、幼少期よりずっと身に付けてきた守り刀を与えた。そして、その刀を子々孫々にまで残してほしいこと、絶対追い腹を切ってはならぬことを話した。
宗右衛門は、「後生でござる」と、泣いていたが、「里見の宝を後世に伝えることがお主の役目」と、言って聞かせた。
正直なところ、私はどうせ生き返るのだから、死んだ後、私に忠誠を尽くしてくれた家臣が、自ら命を絶つのは、何とも後味が悪い。
自分の出世の道を断ってまで、私に仕え続けてくれた宗右衛門には、残りの人生を楽しみ、そして、天寿を全うしてほしいと切に願う。
さて、来世はどのようにしようか。徳川家が天下人になるのなら、早めに勝ち馬に乗ってしまうのも良いが、仕えるのなら、せめて武田の滅亡前でないと、後々譜代扱いはしれもらえまい。
ただ、そうすると、少なくても数年は貧乏暮らしをせねばならぬし、2か国の太守の地位を捨てて、逐電同然で身を寄せることになる。このようなことは、誰も許してはくれまい。
外様として、小田原落城以降に誼を通じるのも良いが、それでは、今生で忠義がされたように改易の危険が伴う。そもそも、徳川の根拠地、江戸の目と鼻の先に、外様の国持ち大名が居座ることなどありえない。生き残るにしても、西国か奥州への転封は覚悟をせねばなるまい。
それだけではない、桃の嫁ぎ先や、子どもたちの結婚相手も考えなければならん。結婚相手を見誤ったせいで、親族が非業の死を遂げるのは、なんとも口惜しいし、忠義のように、婚家の問題で連座させられては目も当てられぬ。
だいたいの未来がわかったとはいえ、来世も考えることが山積みじゃ。
まだ昼のはずなのに、だんだん辺りが暗くなってきたわい。今生の命もそろそろ尽きるのであろう。
思えば色々とあがいてきた人生であった。
切腹2回に毒殺2回、襲われて惨殺されたのが3回、うち1回は、毒も盛られていたな。それにしても色々な死に方をしたものじゃ。
じゃが、考えてみれば、病で死ぬのは初めてじゃ。これが『畳の上で死ぬ』というものか。これはこれで、なかなか味わい深いのぉ。
おお、父上! 母上! 桃! 川の向こうでわしを招いておるわ。これがお迎えというものか。
……待った!
これまでに死んだとき、母上や桃が枕元に現れてくださったことがあったか!?
いや! 私よりも先に死んでいたとしても、一度もそんなことはなかったぞ!
もしや! 天寿を全うしてはならぬのか!?
こうしてはおられぬ!
「そ、そうえ、も、ん」
「淳泰様!」
「わ、たしを、起こ、せ」
「はい!」
「か、た、な」
「え?」
「かた、な、を、持っ、て、こい」
「これに!」
もう、手が思うように動かぬ。動かぬ手で、何とか宗右衛門の渡してきた短刀の鯉口を切る。
刃を露にしたその刀に向けて、私は己の身を倒した。
刃が体に突き刺さる。
淳衡と宗右衛門の喚く声がしする。
間違いなく刀は体に刺さった。
間に、合ったか?
しかし、心の臓辺りに刀が刺さっているはずなのに、なぜか、痛みを感じない。
2人の声も小さくなって……
里見 義重( ? - 元和8年(1622年))
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・僧侶。里見義弘の嫡男で、幼名は梅王丸。母は古河公方足利晴氏の娘。安房里見氏当主だったとされるが、後に叔父(異母兄とも)里見義頼と争って破れ、無理やり出家させられて、淳泰と名乗った。一説には、義頼の死から暫くの間、還俗し、里見義康の補佐を務めたとも言われる。里見氏の伯耆転封後は安房に残り、館山の泉慶院で没した。
淳衡
架空の人物。『衡』は五岳の一つ『衡山』から。
青岳尼
小弓公方・足利義明の娘。出家し、鎌倉尼五山筆頭太平寺(※後述の出来事がもとで北条氏によって廃寺)の住持となっていた。鎌倉を攻撃した里見義弘は、青岳尼に還俗して自分の妻になるように勧め、彼女はそれを受け入れて房総に渡り、正室となったとされる。没年は天正4年(1576年)という記録があるが、その当時、既に足利晴氏の娘から梅王丸:義重が生まれており、真偽は不明。
真倉村
現在の館山市館山地区。江戸時代には、初代館山町(※明治22年町村制が施行時)全体が『真倉村』という単位でまとめられていた。
泉慶院
千葉県館山市の館山城直下にある曹洞宗の寺院。里見義弘の室となった青岳尼を開基、義弘の息子梅王丸(淳泰)を開山とする。境内には両人の供養塔があるほか、廃城になった館山城の堀の一部が池として残されている。
第八章:見『第21話 臨終。そして抵抗』にて、『ナンソウサトミハッケンデン』本編完結です。
主人公が次々と死ぬ、もやもやする話だったと思いますが、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
ただ、臨終前後に自死を図った義重さんがどうなったのかは、気になるところだと思います。その義重さんの行動の結果は、2本の余話にてお知らせいたします。
余話1 『この世の狭間で』
余話2 『南総里見異聞録』
この2つの余話をもちまして、完結となります。最後までおつきあいくださいますよう、お願い申し上げます。




