第19話 元服。婚姻。そして初陣
天正10年(1582年)2月 相模国 鎌倉 鶴岡八幡宮
いやはや長かった。
元服の儀。そして、祝言がやっと終わった。どちらも二度目とはいえ、慣れるものではないな。
前世では、佐貫城と城下の鶴嶺八幡宮にて、華やかに行われたのだが、今回はそんなものではない。
源氏ゆかりの地、鎌倉にて行われた元服の儀。しかも烏帽子親は北条家当主の氏政様じゃ。
房総からは、母上、桃、義父の義頼、傅役の加藤伊賀や筆頭家老の正木大膳など、一万を超える人々が列席した。
鎌倉でこのような儀式を行うのは里見家累代の悲願。領地としたわけではないから喜び半分かもしれぬと思っておったが、とんでもない。大膳など涙を流して喜んでおった。
こういう姿を見ると北条と和睦をして本当に良かったと思う。
そして元服の儀式が終わると、そのままの流れで祝言を挙げた。
こちらは北条家の人々も加わってそれはもう盛大に行われた。
普通ならば大身の大名家では、元服と婚礼を同日になどどいうことは、あまり行わないのだが、ちょっと抜き差しならない事情がある。
妻となる鶴には悪いが、あまり長いこと房総の荒くれ者を鎌倉に留めて置くわけにもまいらぬから、勘弁してもらいたい。
明日は母と妹を連れて小田原に挨拶に伺い、その後は『湯治』という名目で、修善寺を訪れる理由じゃ。明日からも忙しくなるぞ。
さて、大人のあしらいでだいぶ遅くなってしまったが、何とか抜けることができた。それでは鶴のもとにまいろうか。
「鶴殿」
「梅王丸さ、いえ、義重様でございました。とんだ失礼を」
「自分自身ですらまだ慣れぬのです。お気になさらずに。ところで鶴殿。疲れてはおりませんか?」
「いいえ。義重様こそ。お疲れではございませんか? 私は祝言だけですが、義重様は朝の元服の儀から1日通しではございませんか」
「『疲れていない』と言えば嘘になりますが、せっかく余人を交えず、鶴殿にお目にかかれるのです。『疲れた』よりも『嬉しい』が先に来ます」
「まぁ! 義重様ったら! そのようなことをおっしゃって」
「以前からお慕い申し上げていたのです。何の偽りを申しましょう」
「義重様」
「鶴殿」
「……義重様。『鶴』と」
「?」
「もう2人は夫婦になったのでございます。『鶴殿』など、他人行儀は嫌でございます。『鶴』とお呼びくださいませ」
「わかった! 鶴。末永くよろしく頼むぞ」
「はい。義重様! ふつつか者ですが。末永くよろしくお願い申し上げます」
私は鶴を抱きしめると灯明を吹き消した。
夜の帳が降りる。
この夜は長い夜になりそうだ。
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天正10年(1582年)3月 信濃国 諏訪郡 法華寺
「上総・安房国主、里見左衛門佐殿」
「はッ! お初にお目にかかります。里見左衛門佐義重でございます」
「で、あるか」
「上様の温情のもと、此度の武田退治にて初陣を飾ることができ、光栄の極み。御礼とお祝いをかねまして、鯨肉50樽。持参いたしました。些少ではございますが、お納めくださいますようお願い申し上げます」
「いくつじゃ?」
「は! 15になり申した」
「刑部大輔は?」
「は! 義父である隠居、義頼は、下総にて武田と同盟しておった佐竹を警戒しておりまする。上様にお目にかかれぬことを大変残念がっておりました」
「左衛門佐。忠勤大儀! とらす。 お蘭!」
信長は、太刀を取ると、後ろに控える「お蘭」と呼ばれた小姓に渡す。
「左衛門佐殿。上様からでございます」
「ありがたき幸せ!」
「うむ。褒美は追って沙汰いたす。励め!」
「は! 微力ながら今後も努めてまいります」
「左衛門佐殿。謁見は以上でございます。お下がりくだされ」
「は! 失礼いたします」
いやぁ、緊張した! それでも、何とか今生は上手くいったわい。
前世は言葉が短すぎて、何を言っているか分からず、何度も聞き返して、不興を買ってしまったからな。おかげで、せっかくの献上品も突き返され、散々だった。
今回は想定問答を準備しておいたこともあって、しっかりと返すことができた。素早い切り返しじゃったから、短気な信長もだいぶ機嫌がよさそうじゃった。
それに、引き出物の鯨肉も好印象だったようじゃ。表情はあまり変わらなんだが、私は口元が緩むのを見逃さなかったぞ。
前世で武田討伐があるのも知っておったから、安房・上総の浦々の漁師に命じて、あらかじめ準備をさせておいて本当に良かった。
まあ、引き出物はともかく、実際の戦闘で功を挙げたのも良かったに違いない。
前世では、氏政殿は馬と鷹を戦勝祝いとして贈っていたが、突き返されていたのを覚えておる。
前世では、ともに拝謁した氏規殿とともに頭を抱えたものだが、今生では普通に受け取っておった。
前世でも参戦はしたが、上方から知らせが届くのが遅かったから、動き出し自体が遅かったし、何より当家で動かせる兵は9千がよいところだった。しかも急いで集めたから実際に参戦できたのはたったの3千。北条の軍勢と合わせてもできることはたかがしれておる。
それで「参戦が遅れた!」と不興を買ってものぉ。
……しかし、事前にわかっておった今生は違うぞ!
以前より「初陣は北条家への恩返しのため、駿河で行いたい」と舅殿に頼んでおいた。
そして、「元服祝い」と称して房総から鎌倉に呼び寄せた兵を、元服後の儀の後も、密かに西伊豆の戸田に送り、私も『湯治』と称して修善寺に滞在して、勝頼が木曾攻めに動くのを待っていたのだ。
そして2月8日の払暁、満を持して、水陸から一気に沼津の三枚橋城を襲った。
武田も北条が動員を始めているのは掴んでいたようだが、まだ、小田原にすら兵が集まっていなかった状況だ。攻めてくるにしても、『もう少し後』と、高をくくっていたに違いない。
物心共に籠城の準備が済んでいないのに、いきなり払暁に万を超える兵に攻めかかられたのではひとたまりもない。半刻もしないうちに三枚橋は落城した。
その日のうちに周辺の諸城を開城させると、黄瀬川に沿って北上し、12日には御殿場に着陣。足柄平野を北上した北条勢と、東西から深沢城を囲んだ。
合計3万もの大軍がいきなり現れたのだ。城兵はさぞかし肝をつぶしたに違いない。そんな気落ちした城内に、既に5万以上の織田勢が信濃の伊那谷に入ったことを伝え、「今開城するなら全員助命する」と言うと、翌13日にはあっけなく開城。
城の将兵たちは甲斐に退去していった。
さらに、退去する兵たちに、「織田方は8万、北条方も6万、里見と徳川で1万5千ずつ。合計17万の大軍が甲斐・信濃・駿河に侵攻を開始した。お前らは大人しく降伏したから助けたが、17万もいれば、どんな城でも力攻めにできる。抵抗する連中は、きっと皆殺しにされるぞ!」とかなり誇張した話を教えておいた。
逃げながら、噂がばらまかれて、戦わずして下る者が増えることが狙いであった。
後の快進撃を見れば、これは上々の策であった言えるだろう。
何はともあれ、これで駿東郡は北条の手に戻った。
しばし休息を取った後、水軍の使える里見勢は、16日には黄瀬川沿いに沼津に戻り、氏規殿率いる伊豆衆・三浦衆1万と合流して、17日には駿府に向けて進軍を開始した。
途中18日に富士宮の大宮城、19日には富士川を越えて蒲原城を開城させ、20日には駿府に入った。
そして、とうとう21日には西から来た徳川殿の軍勢と合流し、3万5千の大軍となった我らが軍勢は、3月3日には、中道往還から右左口峠を突破し、織田勢に先駆けて甲府盆地の土を踏んだ。
都留郡谷村城の小山田一族の頑強な抵抗に苦しんでいた、北条の本隊2万も遅れること1日で、笹子峠を越えた。
同じ3月4日には、織田信忠殿の軍勢も諏訪から南下を始めた。
北西から織田の本隊3万、南から里見北条徳川連合軍3万5千、東から北条の本隊2万が甲府盆地に一気になだれ込んだのだ。
1月前に1万5千はいたはずの武田の兵の多くは逃げ去り、勝頼に付き従う将兵は100を割ったという。
完全に進退窮した武田勝頼が、甲府郊外要害山で自刃したのは、私が今生の初陣を果たした三枚橋城の戦いから、1か月も経たない、天正10年3月7日のことであった。
その後は信忠殿に拝謁したり、軍監の滝川殿の依頼で、残党討伐をしたりもしていたのだが、はたと気が付いたことがあって、陣地の近かった氏規殿や家康殿に相談をした。
すると、お2人とも良い提案じゃとおっしゃるので、氏直殿も誘って、4人で滝川殿の下に出向き、
「帰路は、信長様に東海道を戻っていただき、途中、間近で富士をご覧いただいてはどうでしょうか。ただ、現在の街道は狭く険しいため、我らの手で整備をしたいのですが」
と伝えたところ、大変感心なさって、すぐに許可が下りた。
それからはの10日間は、もう、死にもの狂いで働いた。
今日は拝謁のため諏訪に伺候したから休みじゃが、すぐにとんぼ返りして、整備を済ませなければならん。
それにしても、武田領は領民を使うのが楽で助かる。
予想よりも1月以上早く戦が終わって、余った兵糧を生かそうと、「飯を出すから働け」と、言って動員をかけたら、村長たちが泣いて喜んでいた。勝頼め、苦しいとはいえ、領民を相当こき使っていたようじゃ。
どうやら武田領では、賦役の飯は自分持ち。しかも、4公6民の北条領の税とは違い、武田領は8公2民とかの場所もあったらしい。よくまあ逃散しなかったものだ。
おかげで人が大量に集まったから、道も当初の計画より広くできたし、民の信頼をつかんだおかげで、落ち武者狩りが簡単になったという話を聞いた。
これは色々と考えさせられる出来事であった。里見家も対北条戦で、無理をしすぎていたら、武田の領国のようになっていたかもしれん。戦に勝つために民を虐げればどうなるか。武田はその身をもって教えてくれたかのようじゃ。我らも気を付けねばならぬ。
さて、その後じゃ。
信長は、我らの行いを聞いてたいそう喜び、北条家に甲斐の都留郡と駿河の駿東郡の北半分を、里見家に駿東郡の南半分と富士郡を、徳川家には残りの駿河全域と甲斐の河内領が与えられた。
貰うどころか罰せられることを恐れていた前世とは大違いじゃ。
ただ、当家で駿河の2郡を貰っても飛び地も飛び地。管理がしにくくてならん。
そこで、駿河の飛地を、南伊豆と交換して貰うことで氏政殿とは話が付いておる。具体的には、伊豆七島を含む賀茂郡の南半分と、那賀郡じゃな。
ちなみに、織田には内緒じゃ。
石高からすれば駿河の方が断然上。伊豆の領地の3倍もあるのじゃが、本来この戦は『北条家への恩返し』という名目で始めたもの。タダで差し上げても良いくらいじゃ。
しかし、それをしては家臣にも織田にも説明が付かぬ。
家臣どもには、『房総に近く、同じ1郡半。しかも、島まで付いてくる』とでも言えば、騙されてくれるじゃろう。
織田の方はちと問題じゃが……。ま、信長はもうすぐ本能寺で命を落とすはず。死んでしまえば、きっと有耶無耶にできるに違いない。
信長の死か。今生も同じように進むなら、こたびの武田退治同様、上手く立ち回れるよう準備を進めねばならぬ。
お蘭
森成利(森蘭丸)のこと。信長お気に入りの小姓。史実の甲州征伐でも近侍していたかは良くわかりませんでしたが、定番の人物として出しました。お許しを。
三枚橋城
静岡県沼津市にあった城。狩野川に面しており、伊豆との境目の城だった。なお、『三枚橋城』は、北条方の呼び名で、武田や今川は『沼津城』と言っていたという話も。
深沢城
静岡県御殿場市にあった城。今川氏が国境と街道の守備のため築城。以後争奪の舞台となる。小田原征伐後、役目を終えたとして廃城。
大宮城
静岡県富士宮市にあった城。富士城とも。駿河から甲斐に向かう中道往還を抑える要衝だった。天正10年(1582年)に焼失し、そのまま廃城。
蒲原城
静岡市清水区(旧蒲原町)にあった城。富士川河口の西岸にある要害。甲州征伐後に廃城。
谷村城
山梨県都留市にあった城。武田氏滅亡時の逸話から、大月市の岩殿城が本拠だと思われているが、実は郡内小山田氏の本城はこちら。
要害山(城)
要害山城。山梨県甲府市にあった城。武田氏の詰めの城(防衛拠点)だった。堺屋太一氏の小説『鬼と人と』では、織田信長はこの城をネタに武田信玄を散々ディスっている。
駿東郡
現在の静岡県駿東郡と御殿場市、裾野市の全域、沼津市の大部分等を領域とする郡。今川・北条・武田の抗争の舞台となった。
都留郡
山梨県北都留郡、大月市、上野原市、都留市、富士吉田市および南都留郡の一部からなる郡で、甲斐国では、甲府盆地を中心とする『国中』に対し、『郡内』と呼ばれた。
富士郡
静岡県富士市、富士宮市の大半を郡域とする郡。富士川の東にあたるため、駿東郡と併せて『河東』と呼ばれ、今川・北条、後に武田を加えて、争奪の舞台となった。
賀茂郡
伊豆半島東部から南部と、伊豆諸島を郡域とする郡。だいたい熱海市から南伊豆町までの一帯。
この物語で貰ったのは、現在の静岡県賀茂郡河津町以南を想定。
那賀郡
伊豆半島南西部にあった郡。現在の静岡県賀茂郡西伊豆町、松崎町あたりが領域。
鶴嶺八幡宮
千葉県富津市にある。鶴峯八幡神社。養老年間に創建され、中世には近隣の佐貫城を支配した上総武田氏、里見氏の尊崇を受けた。鎌倉の鶴岡八幡宮、館山の鶴谷八幡宮、とあわせ、「関東の三鶴八幡」とも呼ばれる。
戸田
現在は静岡県沼津市の一部。伊豆半島西岸にある。前方を砂嘴で守られた天然の良港だが、陸路では山越えをしないと到達できないため、重要度は低く、知る人ぞ知るという場所だった。それを活かして幕末には、プチャーチンの帰国用の船を建造した(※当時はクリミア戦争中で、有名な港では英軍に襲われる恐れがあった)。同型の『君沢型』は、戸田の所属する君沢郡から。峠を一つ越えると中伊豆の温泉地修善寺に出られる。
黄瀬川
狩野川の最大の支流。御殿場市が源流で駿東郡を南流する。本流に滝や岩場が多く河川交通には向かない。
富士川
山梨・長野県境を源流とし、山梨県・静岡県を貫流し、駿河湾に注ぐ川。日本三大急流の一つにも数えられている。
中道往還
甲府盆地から右左口峠で御坂山地を越え、本栖湖畔から富士の西麓を抜けて富士宮に至る。甲斐国と駿河国を結ぶ街道のひとつで、駿州往還と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれる。甲駿を最短で結ぶことから、軍道として使用された。
右左口峠
甲府盆地の南方、御坂山地のほぼ中央部、甲府と精進湖を直線で結んだ位置上にある峠。現在は直下を直下を国道358号の右左口トンネルが通過している。
笹子峠
山梨県大月市と甲州市の境にある甲州街道の峠。現在は直下を直下を国道20号の新笹子トンネルが通過している。
鯨肉
献上されたことが記録に残ってしまうほどの貴重品だったらしい。房総半島南部は江戸時代以前から沿岸捕鯨が盛ん。




