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朔日の花

作者: 佐月依子

 木戸を閉めたときに微かに鳴った物音に、朔は小さく息をつめた。

 家人が皆寝静まったこの時分、自分のたてた音が屋敷中に響き渡ったのではないかという気がして、朔の手のひらはじんわりと汗ばんでくる。

 とにかく早く寝床に戻ろうと歩き出しながら、衣の裾で手を拭った。ざらりとしたその感触に、朔は心なしか足を速める。

 

 半分に欠けた月が、薄い雲の間から見え隠れしている。湿り気をはらんだ生ぬるい風がほのかに吹いていた。

 朔に与えられた部屋まで戻るには、炊事場の脇を抜けて、今は使われていない枯れ井戸の近くを通らねばならない。

 この枯れ井戸は、なんとも不気味だ。大きな木の陰になっていて、昼間でも薄暗い。この春からここに奉公にきたばかりの朔でも、枯れ井戸にまつわる噂話は片手では足りないほど知っていた。

 こんな時間に近くに行ったら、それこそ噂話の種になってしまいかねない。朔はそう思って、走って通り過ぎてしまおうと考えていた。

 なるべく足音を立てないように……と走り出そうとした矢先、朔は思わず悲鳴を上げそうになった。

 枯れ井戸の傍に、ほの白い人影が佇んでいたからだ。

 とっさに庭木の陰に隠れた朔は、声が漏れないよう両手で口を押えながら、そっと井戸の方をうかがった。

 月明かりに目を凝らしてよく見てみると、幽鬼のように見えたその人影は、どうやら白い寝衣に身を包んだ屋敷の者であるようだった。


(なんだ、人間じゃないか……)


 ほっとして、そろそろと口元から手を外す。


(……こんな時間に誰だろう?)


 安心すると、今度は好奇心がわいてきた。着ている寝衣は、真っ白で汚れ一つ見当たらない。背丈は朔より少し高いくらいだろうか。体つきは、年若い者のそれであるように見受けられる。


(もしかして、実之様か?)


 使用人ではなさそうなその姿に、朔はそう思い当たった。

 朔が下男として働いている屋敷は、西屋敷と呼ばれていて、もともとは今の国主である忠之の母君が隠居するときに建てられたという。母君が亡くなってからは住む人もおらず閉められていたが、実之が跡取りとなり、西屋敷に住まうこととなった。

 つまり、現在西屋敷で主人と呼ばれる人は実之一人なのである。

 朔は今まで、実之と会ったことがなかった。実之は屋敷の奥からほとんど出てこないのだ。


(話には聞いていたが、ずいぶんと華奢な方だなぁ)


 ゆるくしめられているだろう寝衣の帯回りが、遠目にもかなり細い。

 実之が跡取りとなったのは、半年ほど前のことだという。それには少々複雑な事情があった。

 

 国主の忠之には、奥方との間に二人の息子と一人の娘がいた。娘は、同盟を組んでいる隣国の国主の次男に嫁いでいった。息子は二人とも闊達な若侍で、長男の方は三年前に嫁を取り、可愛らしい娘がいるという。

 しかし、一年前に起こった他国との小競り合いの折、次男が亡くなった。勝利を収めて戻ってきた長男も、その際の傷が原因で息を引き取ったという。

 忠之は跡取りを二人とも失い、心痛がたたったのか、寝たきりとなってしまった。

 そんな折、奥方が実之を呼び戻したのだという。実之は、忠之が上女中に手をつけて産まれたお子で、男子であったためにご一家の養子になったが、病気がちだったので遠方で静養していた。

 このままひっそりと暮らしていくことを望んでいたが、跡取りとして戻ってきた。未だ病弱であられるので、西屋敷でご一家とは離れて暮らしている。

 

 ……というのが、朔の知っている話だ。実之のことは、古株の使用人しか知らなかった。若い女中や飯炊き女たちは、突如として現れた美しい若君に興味津々だが、古株の使用人たちがそろって口をつぐんでいるので、様々な憶測が飛び交っているのだった。朔が聞いた話はおおむね本当だというが、真偽のほどは謎である。

 この西屋敷は、住み込んでいる使用人はそれほど多くない。しかし、跡取りに不自由な思いはさせられないとばかりに、城から通いの使用人が多くよこされるので、仕事が楽なのだろう。だからくだらない噂話に花を咲かせる暇があるのだ、と朔は常々思っていた。だいたい、女たちは元気がよすぎる。今年十四になったばかりで一番年下の朔は、彼女たちによくからかわれ、ほとほとうんざりしていた。

 しかし、目下の問題は女中たちではない。一体どうやって戻ろうか。朔は息をひそめたまま、実之の様子をうかがった。


(しかし、なにをしているんだ?)


 実之は、井戸の傍に立っている。その顔は、井戸の中に向いているように見えた。

 じっと動かないその横顔は、何の感情もたたえていない。確かに、きれいな顔立ちだった。病弱だという話を裏付けるように白い肌。伏せられた涼し気な目元を、長いまつげが縁取っている。鼻筋もすっきりと通っており、これは女たちが騒ぐはずだ、と朔も納得した。

 ただ、全体的に輪郭が柔らかい。朔より二つほど年上のはずだが、それにしては少年の幼さが残っているように感じられた。寝衣の袖からのぞく手も、その衣のように白く、朔の手より骨ばっていなくて、細く頼りなく見える。


 そのとき、じっと動かなかった実之が、ふと手を動かした。井戸の縁に両手を置くようにして、前かがみに覗き込むような体勢になった。顔の横に髪が落ちてきて、その表情を隠す。

 はっとして、朔はとうとう木陰から飛び出した。


「わ、若様!」


 ひそめたつもりだった声は、思ったよりも大きく響いた。びくりと肩を震わせて、実之が振り向く。

 よほど驚いたのか、目を見開いて朔を見たまま、実之は何も喋らない。

 朔は焦って言葉をついだ。


「こ、このような夜更けに、どうしたのですか」


 実之はふっと表情を消したかと思うと、かすかに首を傾げて、唇の端をゆるく持ち上げた。


「……君は?」


 その声は、細く、柔らかく響いた。男にしては高いその声と、少し愉快そうに朔を見つめる表情に、朔はしばし魅入られた。


「君こそ、こんな時間にどうした?」


 問われていることに気がついて、朔は我に返った。


「か、厠に行った帰りに、枯れ井戸の方に人気がしたので……」


 朔の答えをきいて、実之は少し笑ったようだった。


「そうか。私はもう戻る。君も早く戻りなさい」


「は、はい」


 朔の返事に頷いて、実之は寝所へ戻っていった。

 その後ろ姿はあまりに細く、儚げであった。

 姿が見えなくなって、こわばっていた朔の体から力が抜けていく。

 実之が見ていた枯れ井戸をちらりと見てから、朔も静かに自分の部屋へ戻った。

 



 翌日の西屋敷は、上を下への大騒ぎだった。

 少し前から新しく実之付きになった女中が、いなくなったのだ。

 鈴という名前の、朔もよく知る女中だった。四つ年上の鈴は朔と同郷で、そのよしみで何かと世話を焼いてくれたのだ。

 その事実を知る使用人たちの質問攻めから朔を救ったのは、実之からの呼び出しであった。


 連れられて行った部屋で待っていると、少しもたたないうちに実之はやってきた。

 膝の前に手をついて顔を伏せた朔の頬を、嫌な汗が伝っていく。実之も、実之の周りに控える人も、みな朔のことを冷たい目で見おろしているのではないかという心地がした。

 声をかけられて顔を上げた朔を認めると、実之はほんのわずかに眉を上げて、言った。


「私一人で話を聞く。しばらく誰も近づけさせるな」


 足音が遠ざかってたっぷり十秒ほどたってから、実之はふっと表情を緩めた。


「鈴と親しくしていた下男がいるというから呼んでみたが、まさか君とはね」


 作り物めいた美しさを持つ実之だが、こうして愉快そうに笑っていると、年相応に見える。白い肌とは対照的に、頬や唇は健康的に色づいていた。


「鈴とは同郷だそうだな。名はなんという」


 そう問うた実之に、怒りの色はみられない。そのことに安堵して、朔は答えた。


「朔と申します」


 実之は、またひょいと眉を上げた。どうやら癖らしい。


「……朔、か。昨日は月が出ていたな。半月だった」


 それには頷くにとどめて、朔は次の問いを待った。


「鈴と最後に話をしたのは、いつだ?」


 少しの間考えて、朔は答えた。


「……たしか、五日ほど前だったと思います」


「なにを話した」


「茶菓子が足りないからと、使いを頼まれました」


「他には何か言っていたか」


 これに答えるのにも、朔は少し考えた。


「……いいえ」


 聞いて、実之は目を伏せた。

 それから何も言わないので、今度は朔が問いかけた。無礼であると承知でも、問わずにはいられなかった。


「追われるのですか?」


 気を悪くした風でもなく、実之は苦笑した。


「鈴をか? ……いや、私にそのつもりはないよ。ただ……どこへ行ったのか、気にかかってね。故郷にでも帰ったのなら、それでいいと思って、君に聞いたんだ」


 実之の目が、再び朔をとらえた。なにかを願うようなそのまなざしは、同時に痛みをはらんでいる。


「……鈴さんは、よく郷の話をしていました。きっと帰ったんだと思います」


 気休めかとも思ったが、朔は本心を口にした。実之は少しだけ口元を緩めて、頷いた。


「……あの、若様。一つだけ、聞いてもいいですか?」


 和らいだ雰囲気に背中を押されて、朔はどうしても気になっていたことを聞きたくなってしまった。


「いいよ。なに?」


「若様は、昨夜、どうしてあんなところに……いらっしゃったんですか?」


 実之の顔から、笑みが消えた。すっと目が細められ、血のように赤い唇から、ふうと息がもれる。


(しまった)


 朔が青ざめるのと同時に、実之は冷えた声音で言った。


「自分が問われる覚悟の持てないことを、人に聞いてはいけないよ」




 思い出すだけで背筋が冷えるようなあの呼び出しから、三月ほど時が過ぎた。暑さも少しずつやわらいで、秋の入り口が見えてきたころ、西屋敷は再び活気づいていた。


 実之に、縁談が持ち込まれたのだ。

 お相手は隣国の国主の姪にあたる娘だとかで、朔は良く知らないが、他の使用人たちに言わせると、願ってもない良縁なのだそうだ。息子を二人も亡くし、妾腹の子を跡取りにせざるを得なかった忠之へのねぎらいだとか、実之の容色を伝え聞いたその娘がねだったのだとか、好き勝手噂していたが、要するに隣国の国主が取り持った縁だという。


 今日はそのことで、城から奥方が来る日だった。とはいっても、屋敷の表や奥で仕事をすることはない朔にとって、ほとんど関係のないことである。

 屋敷の裏手にある炊事場の近くで、朔はせっせと薪を割っていた。

 額ににじむ汗を拭って、息をつく。一通り終えて片付けをしていると、屋敷の中が騒がしいことに気がついた。

 言い争うような声がして、何かが倒れるような物音が響いた。

 何人かの足音が続いた後、しばらくして屋敷は再び静かになる。

 気になって、表の方を覗きに行きたいのを、朔はぐっと我慢した。

 後になれば、きっと誰かしらが教えてくれるだろう。そう思って片付けを続けていたら、枯れ井戸のある方から誰かの呼ぶ声がした。


「朔」


 聞き覚えのある細い声に驚いて振り向くと、木の陰から手招きしているのは、やはり実之である。


「若様!」


 朔が思わずあげた声に、実之は慌ててあたりを見回しながら、口元に人差し指を当てた。


「静かに、ちょっとこっちに来てくれ」


 朔も周りを確認しながら、実之の隠れる木陰に身を滑り込ませた。

 奥方が来ていたからなのか、今日の実之はしっかりと藍色の直垂を着込んでいる。その姿に少し緊張しながらも、朔は実之の左頬がほのかに赤く腫れていることに気がついた。


「ど、どうしたのですか」


 実之は苦笑して、肩をすくめた。


「平手というのは、案外よけられないものだな」


 あまりのことに言葉を失っている朔を笑ってから、声を潜めて、実之は言った。


「手ぬぐいか何か、濡らして持ってきてくれないか?」


「わかりました、すぐに持ってきます」




「縁談がきていること、皆知っているのだろう?」


 木の根元に座り込んで手ぬぐいを頬にあてながら、実之はそう切り出した。


「どうにかお断りしてほしいと言ったら、これだ。義母上は話を進める気でいたらしい」


「良いご縁ではないんですか? どうして……」


 実之が断る気でいたことに驚いて言ってしまったが、沈んだ様子の主を前に、朔の口も閉じられた。


「家にとってはこの上ない縁だ。だがそれも、私でなかったらの話だ」


「……お体のことですか?」


 朔が思い当たったのは、病弱だという話だった。何気なく投げた問に、実之は驚いたように隣に立つ朔を振り仰いで、じっと見つめた。


「あの、若様?」


 困惑した朔がうかがうと、実之ははっと顔を伏せて言う。


「君たちは、私の体について、なんと聞かされている?」


「え、えっと、あまりお体が強くない、と……」


「病弱である、と?」


 朔は戸惑いながらも頷いた。


「そのように見えるか? 朔」


「え……」


 朔を見据えるその目は、強い光をたたえていた。

 肌が白いことは疑いようもないが、血が通っていないというほどではない。体つきも、確かに細くはあるが、不健康だというほどではない。なにより、これまで朔と話したとき、具合が悪そうな様子は一度も見られなかった。


「違うんですか……?」


 半ば呆然とした朔の言葉に、実之は唇の端を持ち上げた。


「病気がちだから静養させる、など、厄介払いの常套句だ」


「で、では、なぜ縁談を」


 体のことを気にしてということでないのなら、断る理由とは何なのか。

 仕える家の裏を暴露され、ただでさえ朔は混乱していた。

 そんな朔に、実之はさらに混乱させるようなことを言う。


「私のような者のところに嫁ぐ娘が、かわいそうだから」


「どういう、ことですか」


 聞くのが怖いような気がして、朔はごくりと唾を飲み込んだ。

 実之は、口元をゆがめて笑いながら、目線を遠くに投げて言う。


「どんなに良縁だろうと、どんな嫁をもらおうと、子など産まれやしない。義母上もそのことはわかっているのに、嫁をとれなんて酷なことを言う」


 実之の目線の先には、薄暗く冷たい井戸があるだけだった。


 朔は無意識に、両手を握りこむ。実之の言葉の意味が、わかるようでわからない。思い当たることが、まるで見当違いなことのように思える。

 黙り込む朔を横目で見やって、実之は表情をやわらげた。


「すまない。君に言うべきことではなかった」


 眉を下げて謝る実之に、朔ははっと我に返った。このまま謝らせたままではいけない。そんな思いが、朔の口をついて出た。


「いえ! 若様が謝られることではありません。このことは誰にも話しません」


 すると、実之は目を細めて嬉しそうに笑った。


「……そうか。君は口が堅そうだ。よかったら、また話をさせてくれ」


 病弱なふりをするのは暇で仕方がない、と愚痴をこぼしながらも、その顔はどこか晴れやかだった。




 二人の兄のため喪に服すのだと言って、実之の縁談はひとまずのところ先延ばしになった。

 あれ以来、奥方はすっかり西屋敷に寄り付かない。あれからたびたび話をするようになった実之によると、縁談のこと以外にもいろいろと言ったことで、相当お怒りだそうだ。


 主と話すようになっても、朔の日常はさして変わらない。女中たちにからかわれながら、年嵩の下男について仕事を覚えるうちにやがて冬を越し、朔は奉公に来て二度目の春を迎えた。

 実之と話すのはもっぱらあの人気のない枯れ井戸の近くであったため、冬の間は会わずに過ごした。特に実之は、いつにもまして屋敷の奥にこもっていたので、使用人たちは主が病に臥せっているのだと信じて疑わなかった。

 実之が病弱ではないと知っている朔でさえ、少し心配になったほどだったが、久しぶりに見た実之は健康そのもので、ほっと胸をなでおろしたのであった。




 冬が去り、久しぶりに実之が会いに来たとき、朔はちょうど一休みしているところだった。待ちわびていた郷からの便りを読んでいた。


「朔」


 慣れたその呼び声に文をしまって立ち上がると、実之は目を丸くする。


「君、会わないうちに背が伸びたね」


「はい」


 朔が歩み寄ると、実之の表情が驚きから少し悔し気なものに変わっていく。


「……追いつかれた」


 二人の目線は、すっかり同じ高さになっていた。

 もともと実之は背が高い方ではない。


「若様はよく寝ていらっしゃるのに」


 実之の眉がくいと上がった。


「朔も言うようになったな」


 少し怒ったように言ってから、実之は破顔した。しかし、その表情もすぐに陰る。

 朔はいつものように、実之が話し出すのをじっと待った。


「……父上が、もう危ないそうだ」


 吐き出すように言って、実之がうつむく。


「私は所詮、ただの繋ぎだ。戦に出ることもなく、家を残すためだけにいる……こんな風に家臣たちからさえも隠されるような、偽りで固めたいびつな人間が国主だなんて」


「偽り、ですか」


 実之は頷いた。


「体のことだけじゃない。私の存在そのものが偽りだ」


 顔を上げずにこぼされたその声は、震えていた。丸みを帯びたなめらかな頬を、光が一筋つたっていく。

 朔は耐え切れず口を開いていた。


「若様……」


「それでも私は、繋ぎとしての役割を果たさなくてはならない」


 繋ぎ。実之は自分がそうだという。

 前に、子を成せないと言っていた。ということは、そうした意味の繋ぎではない。


「どうすれば、それは果たされるのですか」


 この人の助けになりたい。朔はそう感じていた。


「……隣国に嫁いだ義姉上に、男子が生まれたら……、その子を引き取って、次の跡取りにするんだそうだ」


「それは……」


 朔は言葉を失った。下働きに過ぎない朔でも、それがどういう意味かはわかる。実之の義姉が嫁いだ先が、国主になることがなく跡取りを必要としない次男とはいえ、他国であることに変わりはない。


「この国は、隣国に下るのですか」


「そうはならない。けれど、大きな借りができる上に、無理を通せる理由をあちらに与えてしまうことになる。次の国主が出来損ないであることも知られるし、その次の国主はあちらの孫だ。……下るのも時間の問題かもしれないな」


 実之の細い肩は、強張って微かに震えていた。

 朔が考えていたよりも、この人が両肩に背負うものは重く厳しい。


「そうまでして、お方様は……」


 朔が口にするのがはばかられるその先は、実之が引き取った。


「義母上は、これ以外の生き方を知らない。……繕えば繕うほど綻びが出ることがわかっていても……私のことなど、忘れたままでいてくれれば良かったのに……」


 絞りだすようなそれは、まさしく実之の本音であったのだろう。大きく息を吸った音がした後、嗚咽が漏れた。

 朔は声をかけることすらできないまま、ひたすら傍に控えていた。


 春風が、木々を揺らす。その音があたりにこだまして、ひときわ強い風が花びらを散らす。

 実之の肩に、ひとひら花びらが舞い落ちた。それを見るとはなしに見て、この枯れ井戸に影を落とす大樹は桜であったのだと朔は初めて気がついた。


 次第に落ち着いてきた実之が、思い切ったように顔を上げた。朔を見上げるその目はいまだ濡れていたが、浮かぶ表情は気丈なもので、朔は思わず目を見張る。


(この人は、なんて……)


 その時だった。


「実之様! 実之様、どちらに?」


「隠れて」


 声が聞こえてすぐに、実之は立ち上がった。そのまま朔を木陰に押し込んで、屋敷から見える方へ出ていく。


「私はここだ。どうした」


「ああ、実之様! すぐに城に参りましょう、忠之様が……」

 


 慌ただしく実之が出て行ったあとの西屋敷に、国主の訃報は瞬く間に広まった。

 そうして新たな国主となった実之は、その日のうちに、城の御殿に居を移した。朔たち使用人も、住む人のいなくなった西屋敷を閉め、城に移ることになった。

 その日の夕方から降り出した雨は、西屋敷の桜をすっかり散らしていった。




 実之が国主となってから、早くも一年が経過していた。朔が直接会うことはもはや叶わなくなり、人づてにしか状況を知ることのできない日々が続いた。


「聞いたかい? また言い争いになったらしいよ」


「別の女の子供だもの、憎くて仕方ないんだろうさ」


「実之様は、嫁は取らないの一点張りらしい」


「しかし、跡取りはどうするんだ」


「どうするもなにも、実之様のお体じゃあ、子は望めんだろ」


「この間も、長いこと臥せっておられたしなあ」


 城のあちらこちらで、こんな噂話が交わされている。城中を不安が覆いつくしているようだった。冬の間の実之の長患いも、それに拍車をかけていた。


 朔は、実之に関する話には、なるべく聞き耳を立てるようにしていた。ただの下男の身でできることなどなにもないことはわかっていたが、朔以上に気の休まらない日々を過ごしているであろう実之のことが、どうにも気がかりであった。


 城の桜が咲き始めていた。時折強い風が吹いて、つきかけの花を大きく揺らす。

 朔は、一年前のことを思い出さずにはいられなかった。実之の流した涙が、それが伝っていった白い頬が、脳裏から消えない。

 実之の人生とは、いったいなんなのだろう。大きな力に翻弄されて、このまま散らされてしまうのだろうか。

 はっと気がついたときには、かすかな痛みをもって、朔の手のひらにくっきりと爪の跡がついていた。


「朔!」


 顔なじみの女中が、大きな火鉢を抱えてふらふらとやってきた。朔は慌てて走り寄り、それを支えてやる。


「悪いんだけど、これを蔵に置いてきてくれる?」


「わかった」


「助かるよ、ありがとね」


 ひらひらと手を振って戻っていく女中に背を向けて、朔は蔵に向かった。こうして日々を過ごしていくうちに、思い悩んでもどうすることもできない歯がゆさがだんだんと薄らいでゆくのだろうか。

 今となっては、噂話でしか知りえない主と語らった西屋敷での日々は幻のようでさえあった。


 物思いに沈むうちにたどりついた蔵の中は、ひんやりとしていた。先にしまわれたのだろう火鉢を見つけて、朔はその隣に持ってきた火鉢をおろす。

 そのときふと、視線を感じた。

 朔の背筋がひやりとする。薄暗く冷たい蔵の中、一人きり。年季の入ったものが多くしまわれていて、なんとなく重たい空気が立ち込めているような気さえしてくる。

 朔はじりじりと、入り口に向けて後ずさりした。

 その時、だれもいないと思っていた蔵の奥から、懐かしい声がした。


「朔?」


 信じられないことに、それは間違いなく実之の声である。

 朔が驚いて立ち尽くしていると、暗がりから実之が姿を現した。


「やっぱり朔だ」


 弾んだ声で言って、実之はくしゃりと表情を崩す。


「わ、若様、どうしてこんなところに……」


 国主ともあろう方が、という言葉を、朔は飲み込んだ。しかし、実之には伝わったようだった。


「……たびたびこうして、息を吸いに来ているんだ」


 この一年、荒事は起こらなかった。隣国との関係も良好なまま、国主の頭を悩ませる出来事もそれほどないと聞き及んでいた。

 けれども、だからといって実之が何もしなくていいわけではなかっただろう。偽りである、繋ぎであると自覚したうえでの国主という立場は、想像するだに重苦しいものだ。


「朔は背が伸びたなあ……誰かと思ったよ」


 蔵の入り口からは死角となる場所へ朔を招きながら、実之はしきりに感心していた。

 朔は、昨年の夏にぐんと背が伸びていた。背ばかりで細いままだった体も、冬を越すころにはしっかりとしたものに変わっていた。声も、低くかすれるようになった。


 一方で、実之にはそう変化がみられない。背も伸びてはいないようだし、体つきも恐ろしく華奢なままであった。いや、以前よりも細いかもしれない。頬の丸みも落ち、やつれたようにも見えた。


「若様は、お変わりありませんか」


「見ての通り」


 疲れたような顔をしていたが、朔に応える声は明るいものだった。


「若様は……」


 言いかけて、朔ははっと口をつぐんだ。


「どうした?」


「いえ、あの……もう、実之様とお呼びしなければ、と――」


「やめて」


 さえぎった実之の口調は、蔵の中に冷たく響いた。


「……すまない。そのままでいい、呼び方は」


「……はい」


 静かに頷いた朔をちらりと見やって、実之はずるずると座り込んで膝を抱えた。

 朔もその場で膝をつく。


「実之と呼ばれるたびに、自分がわからなくなる。いつか逃げ出してやると思っていたはずなのに、どんどん出口をふさがれているような心地になるんだ」


 少しの沈黙の後、それはぽつりと落とされた。


「ここから逃げると言ったら、君は手伝ってくれる?」


 微かな声だった。

 朔は答えに窮して、体を強張らせた。

 実之は答えを待っていたようだったが、しばらくしてから、先ほどよりもいくらかしっかりとした声で話し出す。


「……今すぐ、というわけじゃないんだ。今は到底無理な話だとは、私にもわかっている」


 驚きと、不思議な喜びとが、それまで迷っていた朔の口を開かせた。


「……では、本気なのですか」


 実之は力強く頷いた。


「今朝、久方ぶりに義母上と話をした。義姉上の子がもうすぐ産まれるそうなんだ」


「それでは……」


「男であったら、夏にはこちらに迎えるらしい。すると私は邪魔になると、義母上ははっきりおっしゃった」


 ひどい内容をあまりにからりと口にするので面食らった朔だったが、すぐにはっと気がついた。


「そうなったら、若様はまた西屋敷に?」


「そうだ。……ふっ、まだ男と決まったわけでもないのに、義母上は気が早い」


 おかしそうに笑いだす実之の声が、ころころと柔らかく響く。

 これは希望だ。城に押し込められ、今度は追い出され、散々振り回されているのに、実之は明るく笑っている。

 きっともう、西屋敷に戻ると決まった時に、覚悟を決めたのだろう。自らを解き放つ覚悟だ。

 朔もまた、心を決めた。


「若様」


 以前、他愛もない話をしていたころ、よく呼び掛けていたように、実之に呼びかける。低くかすれた声は、以前とはまるで違ったけれど、実之は口元をほころばせて朔を見つめた。


「お逃げになると、仰っていましたが……あてはあるのですか」


「……ない」


 そう返事をしながらも、実之の笑みは消えない。おかしそうに目を細めて朔を見ている。


(やはり、気がつかれていた)


 諦めとも、喜びとも呼べる奇妙な心地で、朔は実之が言葉をつづけるのを待った。裁きを待つような心地でもあった。そんな自分に、朔もまた自然と笑んでいた。


「ないから、君に聞いたんだ。手伝ってくれるな?」


「はい」


 微笑みあった二人だったが、朔はふと表情を改めた。


「しかし、若様。あのときは、追手がありませんでした」


 朔の懸念を察して、実之は頷いた。


「義母上は、見逃してくださると思う……あのときの私のようにね」


「あのとき……どうして、見逃してくださったのですか」


 今なら答えをもらえる。そんな確信があって、朔は問いかけた。実之の眉がくい、と上がる。


「……君と、話をしたから」


 言葉を探すように、実之は目を閉じた。


「あのとき、私は私だけの味方が欲しかったんだ。傍にいて、何もかも知っている人間は、皆義母上の手の者だったから、……そうでない者を傍に置きたかった……鈴に声をかけたのは、偶然で……誤解を招く言い方をしたのが、いけなかったんだろうな。まさかいなくなるとまでは思わなくて、焦ったけれど」


 今となっては、おかしな話だ。そう続けて、苦笑した。


「あの夜、鈴は来なかった。このまま一人で耐えねばならないと思うと、苦しかった……けれど代わりに、君が来た」


 二人の目が、しっかりと合わさった。


 あの日、二人が出会ったのは、朔が鈴を逃がす手引きをしたすぐ後のことだった。嫁ぐ前の行儀見習いとして城仕えをしていた鈴が、若様の寝屋に呼ばれたと血相を変えて同郷の朔に助けを求めたのだ。

 今では、それが鈴の誤解であったのだとわかる。


「鈴からなんと聞いていたのか知らないけれど、君は私を睨むのだもの。でも、〝生きている〟人間の目だと思った。義母上と関わりのない者と話ができたのも、……嬉しかった。私も、いつか鈴のように逃げ出そう、と……そう思えるようになった」


 そう言い終えて、実之は笑った。これまでで一番、晴れやかな笑みだった。


「だから、朔。西屋敷に戻ったら……、頼んだよ」




 そんな会話を交わしてからほどなくして、隣国からの急使が吉報をもたらした。

 実之の義姉の子は、男子だったのだ。

 かねてから決められていたとおり、新しい跡取りを迎える準備が粛々と進められる中、実之の病状が思わしくないという話が城中に広まった。

 そうして実之は、国を義母と家臣たちとに託し、西屋敷へと辞した。

 朔を含めた数人の使用人が、実之とともに西屋敷に移った。

 以前よりもひっそりと、西屋敷での生活が始まる。

 季節は夏に差し掛かっていた。




 使用人が少なくなって、実之は堂々と朔を私室に呼びつけるようになった。

 その日も、城下町への使いから帰った折に呼ばれ、その足で実之のもとへ向かう。


「赤子は元気に育っているそうだな」


「若様も聞いていましたか」


「聞かなくても、女中などその話しかしない」


 実之の養子ということになっているので、耳に入れようという配慮だろう。


「……若様」


 話が途切れ、朔は静かに切り出した。

 実之も、静かに目で続きを促す。


「手筈が整いました」


「……そうか」


 それだけ言って、実之は息をついた。脇息に置かれた白魚のような手が、ぎゅっと握りこまれる。


「そうか、……ありがとう」


「明日の早朝、物売りの夫婦者が城下を発ちます。通り道に、私たちの郷があります。その夫婦の甥として同行させてもらえるよう、話をつけました。……鈴さんのときも協力してくれた、同郷の者です」


 万が一にでも聞かれてしまっては事なので、ひそめて話す朔の声を、実之は真剣な表情で聞いている。


「その夫婦は、城下にいる間は、いつも知り合いの菓子屋に間借りしています。今夜中に、そこまでお連れします……ご準備を」


 朔の目をまっすぐに見つめ返して、実之は頷いた。




 月のない夜だった。

 地味な小袖を身に着けてなお浮世離れした容姿の実之と、枯れ井戸で落ち合う。二人は、幸い屋敷の誰にも見咎められることなく、裏の木戸から外に出た。

 山を下りなくてはならない城でなく、城下に近い西屋敷でよかったと、どちらともなく言いあう。

 それでも道は暗かった。星明りを頼りに、朔が先を歩く。


 静かな、静かな夜だった。生温い風が二人の頬を撫でていく。遠く、微かに木々の葉がこすれる音がしていた。


 やがて二人は、目的の店にたどり着いた。表の引き戸をそっと開けて、中へと体を滑り込ませる。戸を閉めて、二人は大きく息を吐きだした。

 物音を聞きつけてか、それともずっと待っていてくれたのか、店の主人が奥からのそりとやってくる。朝の早い夫婦は寝ているのだろう、主人一人だった。朔が実之を紹介すると、寡黙な主人は頷いて奥を示した。


「……少しでも、寝るといい」


 言ったきりまたのそりと戻っていく主人の背に礼を言い、実之は朔へと向き直った。


「朔、本当に、本当にありがとう」


 言いながら、実之は朔の手をとって、両手で握った。朔は一瞬、その桜貝のような爪の美しさに目を奪われる。柔らかな手だった。動揺を隠すように、朔は答えた。


「……いえ、……お役に立てたなら……若様、道中、どうかお気をつけて。……鈴さんによろしくお伝えください」


「わかった。……君も、……元気で」


 頷いて、振り切るように朔は店を出た。耐え切れずに振り返ると、実之もまた朔を見ていた。


「朔、いつか、いつかまた会える?」


「……わかりません」


 郷にいては食べていけずに、奉公に出された身だった。

 郷一番の大店に嫁いだ鈴からも、引き受けられるのは実之一人だといわれている。


「朔に話せていないことが、まだたくさんある……いつか、いつか必ず、また会おう。今度は私が会いに行くから……」


 実之の必死な言葉に、朔は思わず頷いていた。

 それを見て、実之は唇の端をゆるく持ち上げる。その横を、涙が一筋伝っていった。


 今度こそ背を向けて、朔は走り出した。目の奥がつんと熱くなる。空を見上げても、月は出ていない。かわりに、星が明るく瞬いている。

 夜明けが近づいていた。


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