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23:55の世界

作者: 雨草 綴

 ピピピ、とアラームが五月蠅い音を立てる。殴りつけるように止めた私はそのまま布団の中でくるまる。


「また今日がきてしまった」


 知らぬ存ぜぬとカーテンの合間から差し込む日の光にため息を吐く。すっかりと習慣になった光景だ。

 鉛のような体を引きずって、今日も一日が始まっていく。

 朝食をとり、学校に行き、勉強をして、帰ってきて、風呂に入り、何も生産的なことをしないまま床につく。

 それが私には憂鬱で仕方なかった。

 誰かが私にこんなことを言っていたのを覚えている。「平和で何も変わらない日常なのに、なんでそんな苦しそうなの?」と。

 怒る気力も湧かなくて、呆れた笑いばかりが出ていたように思う。

 何も変わらない? 何も変わらない日常なんかじゃない。幸せなことなんて何一つ起きないというのに、理不尽に些細なストレスだけは募っていく日常だ。

 電車の時間を気にするのがストレスだ。学校まで歩く時間がストレスだ。クラスメイトの目を気にしながら過ごす休み時間がストレスだ。頭に入らない授業を受けるのがストレスだ。毎日律儀にだされる宿題がストレスだ。家に帰るまでの時間がストレスだ。風呂の熱さがストレスだ。また明日がくることに憂鬱になることがストレスだ。

 毎日が些細なストレスの積み重ねで。それが私には憂鬱だった。

 時々思うのだ。この人生は何のためにあるのかと。

 無駄に過行く時間、意味もなく歳を喰う体、無理にでも合わせる人間関係、想像できない将来。

 私ももう高校2年の終わりを迎えようとしている。

 だから、先生からさんざん言われるのだ。「将来何をしたいんだ?」と。それで私が答えられないでいると、焦るのはいつも先生の方。答えない私にイラついて、将来の選択をせっついてくる。けれど、その質問自体が的外れであることにどうして先生は気づいてくれないのだろうか。

 私は将来何もしたくない。というか、将来何をしているかもわからない。明日の自分の気分なんて分からないように、遠い将来の自分が何を考えているかなんて推し量れるわけがないのだ。

 このまま成長のない日々を過ごしていれば、懸命に生きることが嫌になって風俗嬢にでもなっているのだろうか。それともこのままではだめだと勉強を重ねていい大学に入り、誰もが羨むような大企業に入り、社会の歯車として生きていくのだろうか。

 ただ、少なくとも今の私は何もしたくなかった。叶うことなら将来とやらが来てほしくなかった。

 このまま時間が止まって、永久にこの時間が続いていればよいのに、と何度でも思った。

 私の唯一の癒しはきっと、明日を憂鬱に思いながらも何もせずにいられるこの時間だけだ。

 電気もつけない暗い部屋。夜空の闇がいよいよ深くなって、人の気配がすっかりなくなった外。そんな時間になっても私は起きていた。

 眠りたくなかった。眠ってしまえば明日がきてしまうから。またアラームの五月蠅い音と清々しく憎たらしい日の光が私を出迎えてしまうから。

 冷える空気に悴む手を擦りながら私は空を見上げていた。

 思うのだ。星はただそこに輝いているだけ。それだけで人々から美しいと評価される。面倒な人間のしがらみも、明日の日常を憂う気持ちも、将来への不安も、何一つとして星にはない。

 それはきっと、星だけじゃない。そこらの草木も、無機質な道具も、こうして漂う空気でさえ、ただそこにあるだけで意味がある。


 私は人間以外になりたかった。


 いつの間にか夜空が白み始め、私を今にも焼き尽くさんというような太陽が顔を出し始めている。

 怖かった。もうすぐ朝が来てしまう。また、日常に蔓延る薄い毒に苛まれる一日が始まってしまう。

 神様どうか、時間を止めてください。

 そんなありきたりな祈りに答えてくれる神なんていないことは分かっていた。

 日の光が入ってくる前にカーテンを閉め、布団を被り、少ない睡眠時間を貪る。

 そしてまた、アラームが五月蠅い音を響かせるのだ。

 鉛の体、やつれた顔、些細なストレスに満ちた日常。

 何度も、何度だって繰り返して今日まで生きてきた。17年の生を享受してきた。いや、維持してきた。けれど、心のどこかで叫んでいた。限界であると。これ以上は耐えられないと。

 仮令些細なストレスという名の薄い毒が少量ならば人間に害はなくとも、腹を満たすほどに呑んでしまえば命すら侵す毒になるように、私の心は死にかけていた。

 安寧をください。安心をください。些細なストレスのない日常をください、不安のない将来をください。

 それをくれないなら、いっそ私を殺してください。

 心の叫びは日に日に大きくなっていった。気づけば四六時中、私の頭の中で叫んでいて、人の声も聞こえないほどだった。


「明日が来なければいいのに」


 すっかりと口癖になってしまった言葉。それを気にする人も誰もいない。

 そうして夜になってまた同じ行動に身をやつしている。

 23:55。

 いわば、明日へのカウントダウンだった。時間よ進むなと思うほどに早くなっていく時計。止まれと願っても無慈悲に時を刻む時計。

 そうしてある時、耐えられなくなった私は時計を殴りつけてしまったのだ。すると、時計は時を刻むことをやめてしまった。23:55の針のままそれ以上進むことはなかった。

 その時の安心感はあまりに形容しがたいものだった。世界の時を止めたのだと、そう思えてしまったから。

 本当は時間が止まってないことくらい分かっている。けれど、それでも安心したのだ。そして、その安心を手放すことはもうできなかった。

 ずっと、この感覚にとらわれていたい。止まった時計を眺めて、明日の憂いの心配をせずにいたい。


 だから私は自分の世界に閉じこもることにした。


 我慢はたった一日だけ。朝、なんでもない顔で起きてきて、昨日と同じ態度で学校に向かって、帰りには板とか釘とか、色々と買っていく。あまりに重かったけれど、これからの幸福を思えば安いものだった。

 そうして家に帰ってきた私は親の居ぬ間に、と部屋の扉を板で閉めて、釘を打ち込んだ。窓にも同じように。誰かが入ってくることは私の世界が壊されてしまうということ、日の光が差し込むのは時間が進んでいることを示してしまうから。

 だから、すべてが暗闇のまま、なにひとつとして変わらない世界にするために私は部屋に閉じこもった。

 部屋の時計はすべて23:55のまま壊した。

 そして、私の世界が完成したのだ。

 もはや、私は何物も恐れる必要はなかった。寝ても覚めても時計の針は23:55。部屋は暗く、いつでも夜。耳栓をして布団を被ってしまえば親の声も聞こえなかった。

 この時間の止まった部屋で、私は初めて将来の不安のない感覚を知った。

 このまましばらくすれば、私はすっかりと飢えて、死んでしまうだろう。それは別にどうでもよかった。もとより何度も死にたかった私だ。死ぬことはまるで重要ではなかった。

 私にとって重要だったのは、この些細なストレス、不安から逃れた感覚だった。

 背徳的ともいえるような快感、すべてがどうにかなるとでも思えそうな万能感、この感覚をずっと感じていたかった。

 時計を見れば23:55。何度見ても23:55。変わらない。この部屋だけが同じだった。

 段々と飢えて意識が揺らいだ時は余計に変わらない時間が心地好く感じた。もう、動けなくなるほどになって、辛うじて時計の針を見る。23:55。

 変わらなかった。私はずっとこの時間に生きていた。

 息が浅くなっていくのが分かる。現実の境界が曖昧になっていく。時計を見る。23:55。

 体が冷たくなっていく。心臓の鼓動が消えていく。時計を見る。23:55。

 変わらない、変わるはずもない。

 きっと、今、眠って起きても時計の針はきっと23:55のまま。

 なら、安心だ。

 だから私は、安らかに目を閉じた。

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