97話 普通の幸せ
芽衣は片川夫婦に保護された。
*
衰弱した私に昔のお母さんの衣服と、見たことも無いほど豪勢な食事を用意してくれた。私が何をしたのかも聞かずに。
私は品も無く、次から次へと料理を口に運ぶ。そんな私を、嬉しさと悲しさの目で二人が見ていたのは忘れられなかった。
普通の生活もまともにできなかった私にとって、この一日だけで『幸せだ』と思えた。
*
お母さんがお皿を洗ってくれた後で、私に聞いた。
「あなた、名前は?」
「籠宮……六番」
彼らにとって、私に名前をつける価値もなかった。だから、『六番』。名字はあれらのものだ。
それを聞いたお父さんは、憤りから額にシワを寄せる。
「……そうか。君がその名前を嫌がるなら、俺たちが──」
「付けて」
即答だ。こんな『六番』なんて名前、どこのニュース番組でも聞かない。普通じゃなかった。
二人は目を合わせて、静かに頷き合う。
「済まないけど名字はそのままで……じゃあ、君はこれから『芽衣』──籠宮芽衣。どうだ?」
芽衣。その名前と出会った時、私は胸が熱くなって泣きそうになってしまった。
今までの私がその名前を欲しがってなかったのに、その名前がどの名前よりも一番嬉しかった。
「うんっ! 私は芽衣、籠宮芽衣だよ……!」
私の様子に、二人は涙ぐみそうな笑顔を見せた。
*
お母さんの能力は頭をとても良くするらしい。その能力で、私を警察から匿ってくれた。
『この子は私の子ですよ?』と言ってくれた時もあった。その日は嬉しくて泣いた気がする。
お父さんの能力は、計算できる機械を爆発する能力らしい。生活ではあまり使わなかったし、ましてや私に暴力も酷いこともしなかった。
それだけでも、私には良い父親。お父さんと呼ぶに相応しかった。
どっちも、どっちも私にとって大切な存在だった。
だけど、そんな大切な存在の二人に一つだけ不満があった。それは名字だ。
なぜ私は『片川芽衣』ではないのか、なれないのか。それがずっと気がかりだった。
本物の家族になりたかった私は、名字も統一したかった。籠宮という名字を捨てたかった。
しかしこういう気持ちもあった。その願いはあまりにも贅沢だ、と。ただでさえ名前を貰って不自由のない生活を送っているのに、と。
そんな二つの考えが共存している私は、少し息苦しかった。
*
ある日、私は上手く寝付けなくて布団から起き上がった。一度お手洗いに行けば寝付けるだろう、と。
一瞬とんでもないことをしたと気づいてしまったが、もう勝手に起き上がっても怒られなくていいので、すぐに安心した。
ふと、リビングから話し声が聞こえた。
夜中の大人の会話にトラウマがあったので身構えたが、優しそうな泣きそうな声色に、すぐに解された。
「芽衣、もう寝たかしら? あの子も大変な思いをしたんでしょうね。やることなすこと、私たちに許可を求めるように生活してて……。何があったのかしら」
「それ、芽衣の前で絶対に聞くなよ。あの子にまた思い出させたくない」
「聞かないわよ。でも、ごめんなさい」
私は知らない間に気遣われていた。私の過去に触れないようにしてくれていたのだ。
私が感傷に浸っていたとき、予想外の会話を聞いた。
「ちょうど同い年くらいかしらね、あの子が生きてれば」
「……ああ、そうだな。だから俺たちはあの子を幸せにしなければいけない。あの子にしてやれなかった分も含めてな」
私は『生きてれば』という言葉に、思わず「えっ」と反応した。
その声を聞いたお母さんは、私が覗いていた扉をスっと開ける。私が起きていて驚いたのだろう、目を開いて話しかけた。
「芽衣、起きてたの? ……もしかして、今の話聞いた?」
私は恐る恐る頷いた。怒られるかと思ったら、お母さんは私の頭を撫でてただ一言、「ごめんね」と呟いた。
その様子を見ていたお父さんは、暗い眼差しでお母さんに話す。
「爽子、芽衣に話すべきじゃないか? 俺たちが芽衣に名前を付けた責任もあるだろう?」
「そうね」と、お母さんは頭を振って前髪をはらう。
そしてお母さんは手招きして私をリビングの椅子に座らせた。
「少し暗い話だけどよく聞いてね、芽衣。私たちにはね女の子がいたの」
「女の子?」
「うん──とは言っても、産むことはできなかったけどね」
少しだけ、背筋が凍った。
「その子の名前、まだ決めかねていたけどね。だけど一番付けたいと思ってたのは『芽衣』だったの」
点と点が線になったような、違和感が晴れたような、そんな気分になった。
それと同時に、押さえつけてしまいたいほど心が痛くなった。
「歩きスマホをした奴が、気分転換に散歩していた爽子を突き飛ばしたんだ」
その時のお母さんは、どうすることもできなかったのかとひたすらに考えたらしい。
だから、『私戦陰謀罪』を持った罪人になったらしい。
その時のお父さんは携帯その物がなければいい、この世から消えて欲しいと考えた。
だから『電子計算機損害等業務妨害罪《でんしけいさんきそんかいとうぎょうむぼうがいざい》』を持った罪人になったらしい。
「でも殺したのはその歩きスマホの人でしょ? お母さんとお父さんには……」
「親は常に、子どもの生死に責任を持たないといけないんだ。爽子もそうだし、俺も罪悪感を感じざるを得なかった」
「そう……なんだ」
「『片川芽衣』という命を無かったことにしたくなかった。だからあなたは『籠宮芽衣』なの。同じ名字にできなくてごめんなさいね」
私は芽衣という名前を授かった日の後、『同じ名字になりたい』とずっと思っていた。
だけどその話を聞いたあと、そんな気持ちはどこかに行っていた。
「ううん。むしろ、私に『芽衣』をくれてありがとう。私、二人の自慢の子どもになれるように頑張るから!」
私に『芽衣』をくれたということは、私を『片川芽衣』のように見てくれていることだから。それほどまでに、私を大事にしてくれるということだから。
私は、何も嫌がらなかった。
「じゃあ、私からも話していい? 私が、何したかを」
「別にいいんだぞ? 無理しなくても……」
「大丈夫。私も、『私』を知って欲しいから」
不思議と、二人に過去を言うのは苦で無かった。むしろ、気持ちが楽になったというか、そんな複雑な嬉しさがあった。
*
「……さすがに酷いな。芽衣、君は何も悪くない」
「──だからかしら」
お母さんの言うことに、私は首を傾げる。
「いえ、芽衣がその、両親を……」
「刺した」
「──ええ。刺した事件、あまり活発に捜査されていないのよ。あのまま居れば、芽衣はきっと死んでしまう。だから大きく見れば『正当防衛』が成立したのかしらね。そもそも未成年ということも加味されれば、むしろ犯人を捕まえないようにしてるのかしら?」
「罪人取締班が働けば話は別だろう。ただそこは警察にそこまで干渉できると思えないのだが……」
とっくに警察は私が殺人をした事を知っている。そのことは分かっていた。
しかし、ここの生活を一日でも一分でも続けたかった私は、その現実を今まで見て見ぬふりをしていた。
覚悟を決めていざ目を向けてみると、確かに不思議な話だった。
「さすがの警察にも人の心が無いわけではないということなのか、それとも芽衣が罪人だということを知らないのか」
「まあ何がともあれ、しばらくは大丈夫そうね。──ところで芽衣、少し残酷な話をしてもいいかしら?」
「残酷な、話?」
思わず身構えた。恐くなったことを隠しきれずに、心臓の鼓動はうるさく鳴っている。
「どうしてその二人を殺したの? そうなる前に逃げたりできなかったのかしら?」
「爽子、お前……!」
「うん、逃げれなかった。二人が家を出た時は玄関の外側から鍵をかけられて、二人が寝る時は一つの部屋に無理やり閉じ込められる。窓は私じゃ割れないほどに頑丈で、開けることもできなかった。玄関前にセンサーもついてるから、こっそりも無理だった」
思ったよりも残酷でなくて、安心した。どうやら、残酷のハードルが上がりすぎていたようだった。
「だけど、どうして殺したかは記憶が曖昧で覚えてない。ただ一つ覚えてるなら、二人を恨んでた。『自分の苦しみとか痛みを感じてほしかった』……のかもしれない。でも、それが本当なのか分からない」
「……そう。その時の芽衣が決めた覚悟は分かった」
「どうしてそれを聞いたんだ、爽子」
「──芽衣は、自分の意志で生きたいと思っているのよね」
その言葉に、芽衣はよく分からない恐怖を感じた。
「人を殺した罪悪感のある人は、一度は考えるもの。命を絶つことを」
「っ……」
お父さんは何も言わなかった。
「その時感じた『生きたい』と思う気持ち、絶対忘れないで。約束よ」
お母さんが差し出した小指に、私は何も言わずに小指をかけた。
*
お母さんとお父さんは、その後に三人の子どもを保護した。弟が二人、妹が一人増えた感覚だった。
私は、その三人の面倒を見るのが好きになった。あの時、自分が愛がある面倒を見られなかった分、自分が三人に愛のある面倒を見ようと思った。
そして私はアルバイトを始めた。お金が少なくなり、お母さんとお父さんは罪人と知られているため仕事を得られないからだ。
それでも、幸せだった。
*
だけど、自分一人の収入じゃ完全に賄うこともできなかった。食べられない時も何度もあった。
ある日、お母さんとお父さんは『最終手段』だと言って、どこかに行った。私達はその帰りを待っていた。
「お姉ちゃん、お腹すいたよ……」
「大丈夫だよ、大丈夫……」
私は妹に対して、そんな言葉しかかけられなかった。正直言えば久しぶりの飢餓で、苦しかった。
だけど、お母さんとお父さんは私達よりももっと空腹と考えれば、耐えられた。
それに、不思議と不安は無かった。あの時は一人だったが、今は大事と思える弟や妹がいる。
*
「君たち大丈夫!? 菫、今すぐこの子達を乗せるの手伝って!」
男の人の声だった。お父さんのものではない。
「分かった! 食べ物は車の中にあるから、今はそれで凌いで!」
青い髪の男の人と、水色の髪の少女だった。
お母さんとお父さんはどこ行ったのだろうと、私は辺りを見回すが、どこにもいなかった。
極限状態でも気がついた。お母さんとお父さんは私たちを助けてくれたんだ、と。
* * * *
「……そうだった。私はお母さんとの約束、破るところだった」
美羽が居なくなった後の病室で、芽衣は悔しそうに呟いた。
「そうだよね……お母さんとお父さんとの思い出は無くならないよね」
芽衣はそう言いつつ、布団に顔をうずめた。
ご愛読ありがとうございました。
次回も宜しくお願いします。