89話 その時とは
届称に勝利した椿、聖華、天舞音、和也の四人は、彼と協力関係を築いた。
取締班の四人は、届称と眼音の協力を得たあと、その場を後にした。
館には一抹の寂しさが漂っている。届称は糸が切れたように、椅子に腰掛けた。
そんな夫の様子を見て、彼の一番のお気に入りであるダージリンティーを用意する眼音。
茶葉もあるが、今回はティーバッグにすることにした。それを縁が金色なこと以外は何も特徴のないティーカップに入れ、そこに──彼が猫舌であるのを加味して──普通よりも少しぬるいお湯を注ぐ。
「あなたがそんなに疲れている様子、初めて見たわ」
「……むしろ、君が疲れないのが不思議でしょうがないね」
金属が金属を叩く音と共に、ダージリンのほのかな香りがテーブルの上から流れてくる。
シンプルなティーカップ、そのハンドルを届称はつまむようにして持ち上げ、中身を口に運ぶ。
柔らかい温度を持つ液体が腹まで落ちるのを確認するように、鼻で大きく空気を抜いた。
「それにまさか、私たちが再び彼らと相見えなければならないとはね。決断の時はいつか来ると思ってはいたが、まさか今日とは」
眼音は自分の紅茶を用意しないまま、ゆっくりと届称の隣に腰を下ろす。
自分の膝の上に頬杖をついて、届称の表情を見る。
「嫌そうな顔してるけど、それでも協力したのは和也が来たから?」
「それは当然のことだ。和也が生きているということは、どこかでエラーが起きているということだからね」
眼音は意地が悪そうに笑みを浮かべる。
「素直に嬉しいから協力したって言えばいいのに」
「ふっ、実際そうかもしれない。私にも、この複雑な気持ちを処理できないさ。ただ、彼らのあの態度を見ていたら、ふと若い頃の私を思い出してね」
届称は、小さな水面に映る自分の顔を見た。ふと、前向きで勇敢な過去の自分が脳裏に蘇る。今の自分と比べると、彼はもはや別人であった。
思いにふけるのをやめ、彼は話を続ける。
「特に椿班長は、自らの怒りを押し殺して協力を懇願した。そしてそんな彼を慕っている証として、他の班員方も彼に倣った。それもまた、協力した理由かもしれないね」
届称はそう言うと、もう一度ハンドルをつまんだ。
* * * *
立ち上る煙に悲鳴と足音。視界は霞み、鼓膜は疲労し、体は床下の震えを感知した。
皆がみな煙の根源から遠ざかる中、彼は根源へ近づくように歩く。
そこは冬にしては暑かった。それもこの、大規模な火事が原因である。
しかもその犯人はどこかへ消えた。まさに、典型的なRDBの手口だ。
「相変わらず、派手にやるな」
彼はそう呟く。本当は彼もその場を後にするつもりだったが、体が拒絶反応を示した。
どうやっても性格は変われないのか、と彼が嘆いた時だった。
「どなたか助けてください! 私の子どもが瓦礫に!」
「痛いよママぁ……」
声の主は、低学年の女子生徒とその母親のように見受けられる。
どうやら倒壊したビルの瓦礫が、彼女の足を掴んでいるらしい。
「伏せててくれ」
彼はそう話すと、とっさに彼女の母親は彼女を優しく抑え込む。
彼の右拳と瓦礫が衝突した途端、瓦礫は一斉に浮かび上がった。
その隙に彼は一瞬で、彼女とその母親を安全地帯まで運ぶ。
瓦礫が再度地面に落ちる中、彼は怯える二人に話す。
「早く行け。左に避難所がある」
「あ、ありがとうございます……」
母親はその子を連れてその場から逃げた。果たして燃え盛る炎からか、命を救った罪人からか──彼には分からない。
しかしそれが、どうでもいいことであるのは間違いなかった。
彼はただ、右拳を見ている。
「俺もいつか、これを瓦礫じゃないものに使う時が来るのか」
目を閉じ、己のしたことを反芻する。
思い返せば返すほど、彼女らを助けた行為が自分の性に合っていると感じてしまう。まさに、過去の自分がしていたように。
今の自分と比べると、彼は別人とは言えなかった。
「そのいつかが来た時、俺に、できるのか?」
彼は考えることを停止するように歩き始める。しかし、首元の違和感に気がつくとすぐに立ち止まった。いつの間にかなくなっていたのだ。
彼が落としたのは青いマフラーだった。どうやら助けた際に首から落ちてしまったのだろう。
彼はそれをつまむようにして持ち上げ、それを叩く。そうして汚れをある程度落とすと、それを再び首にかけた。
「……そろそろ、来る頃か」
そういうと彼は、すっかり焦げ臭くなったその場を後にした。
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