86話 例え醜くても覚悟は
最初の朝を迎えた。
冬だというのに、今日の日差しはやけに反抗的だった。嫌がる瞼の隙間に、無理やり入り込むほどに。
鼻で深く呼吸をすると、まだ温もりのある布団から足を出す。感覚が狂いそうなほど、寒い部屋へと。
昨日の夜、彼は決心した。なぜなら、彼女がああ言ってくれたから。
*
彼は身支度を済ませ、ドアノブに手をかける。その金属特有の冷たさは、およそ一週間ぶりの感触だった。
その金属をひねる前に彼は振り返って、もの寂しくなった部屋を見た。
そこに見えたのは、先程まで彼がいたベッドだけだった。まだ温もりは残っているだろうから、見てるとつい戻りたくなってしまう。再びそこに行けば、温かく歓迎してくれそうだ。
でも彼は、事が終わるまでは戻らないと決めていた。自分が次にベッドに戻るのは、恐らく死んだ後だろうと。
そして彼は右手に力を込めて、足を踏み出した。いざ外に出てみると──そこまで明るい訳ではなく、ただ悴むばかりだった。
それでも彼が前に進む理由は……『思い出してしまったから』と言わざるをえない。
* * * *
『最終手段』──それは、白虎から提示された住所だった。そこには、あの白虎でさえ死にかけた程の強者がいるそうだ。
正直、信頼に値するかどうかは定かではない。しかし、RDBが更なる行動をする前にこちら側が行動を起こさなければいけないと考えた。
「……ここだね」
椿は運転席から降りると、たどたどしい様子で話した。続いて助手席の聖華と、後部座席の天舞音と和也も降りる。
「なんとまあ……怖い雰囲気が出ている場所だね。ボク、実はこういう奇妙な所は苦手なんだけど……」
書かれた住所には、大きな館があった。ただその館は年季が入っており、とても人が住んでいるとは言えないほどだ。
「なぁに、いざとなったらあたしが守るって言っただろ? 無理に怖がる必要はないって」
「にしても、月って赤くなることもあるんだな! 空も紫だし!」
和也の言う通り、周りの空は全て作り物のように禍々しくなっている。ましてや、今の時間帯が昼なんて思えない。
「……ご丁寧に、ここにインターホンがあるから……押してみるよ?」
「いやいや、やめとこ? そこ押したら突然目の前の門が開いて、ゾンビがぶわあっと……」
「来ない来ない。それに、あたしらは訪問しに来たんであって、強盗しに来たわけじゃないんだ。挨拶もなしに家に入る奴がいるか」
珍しく怯える天舞音に、聖華は苦笑いする。
「そうだ、ゾンビは頭を撃つのがいいんだぞ!」
「頭ね、メモメモ…………」
「だから来ないって……」
椿はその三人のやり取りを見て、無意識的に口角を上げる。天舞音の意見を無視すると、インターホンを押した。
「あっ」と天舞音が身構える中、インターホン越しに聞こえたのは落ち着いた男性の声だった。
「お客さんかい? 珍しいね、こんな所に来るなんて。ささ、遠慮せずに玄関までおいで? 私が出迎えよう」
そう言って声は途切れた。彼が目的の人物だとしたら、凶暴とはかけ離れた雰囲気を醸し出していた。
直後、門が甲高い金属音を鳴らしながら道を開いた。少し奥には、確かに玄関らしきものがある。
「歓迎……されてるみたいだねえ。一応は」
「とにかく──落ち着いて話してくれそうだし、ここは従って玄関まで行こうか」
椿を先頭に、開かれた道を一列に歩み始めた。
*
「そういえば聖華さん。今は闘争心が滾ってたりはするの?」
「まあ……最近は隠してはいたが、戦う寸前は心が躍るねえ。これも、実験の副作用だからね」
「副作用? それってどういうこと?」
天舞音や和也は、聖華の過去を知らない。当然、実験の副作用のことも。
「あー……また今度話してやるさ。それよりも、あたしは天舞音がこういうのが苦手ってこと知らなかったよ。あたしを誘拐したあの時の、あの廃墟は怖くなかったのかい?」
「随分と嫌味っぽく言うね……でも、特に幽霊が怖いわけじゃなくて──その、ゾンビとかドラキュラとかが……」
「なんか、変わってるねえ。普通は逆だと思うんだけどさ」
ふと聖華は振り返る。そこには、表情の曇る和也がいた。
「どうしたんだい、和也。まさか、あんたも実はゾンビとかが嫌いなのかい?」
「──いや、さっきのおっさんの声……どっかで聞いた気がするんだよな」
「ふーん……? ま、いつか思い出すさ」
「着いたよ。多分、ここが玄関だよね?」
あれこれ話しているうちに、玄関に着いたようだ。
椿がその扉をノックすると、それに応じて男性が出てきた。
彼は、四十前後の高身長な男性だ。しかし、ガタイがよい訳ではない。どちらかと言えば、モデルみたいな体型だ。
その身長は2m前後であり、どこにでもありそうなシャツにジーパンを着ている。
そんな彼は、親切そうな目で椿達を見た時、綿毛のような柔らかい様子で笑った。
「ようこそお客さん──たち。遠方はるばるようこそ…………」
突然彼は何かに気がついたように、口を止めて目を見開いた。
しかし、すぐに「すまないね」と言うと、また話し始めた。
「……とりあえず、上がりなさい。コーヒーを用意したよ」
四人は彼に促されるまま、家の中に入っていった。
*
「私は届称だ。彼女は私の妻、眼音だ」
「ここにお客さんが来るのは久しぶりなので、旦那も気分がいいんですよ?」
届称は一つ咳払いをすると、四人の方を優しく向く。
「そして……何か用件でもあったのかい? それとも、私の話し相手に?」
「……届称さん。私たちは東京罪人取締班の者です。あなたに頼みたいことが──」
「帰ってくれ」
届称は突然、声色を変えて返答した。椿らが顔を強ばらせる。
「ちょっと、あなた!」
「──すまない。だが、私達は君たちに協力しないぞ」
「それはどうしてだい?」
聖華の質問に、届称は一呼吸おいて答える。
「私たちは、正義だの悪だのの面倒事はゴメンでね。私にとって、それはどうでもいいことだ」
「どうでも……いい?」
椿は堪えたが、その正義だの悪だので犠牲になった人のことが頭に浮かぶ。──凛も、例外ではない。
「とにかく、用件がそれだけなら帰って──」
藪から棒に、椿は土下座した。
「な、何を──」
「あなた方にも、理由があることは重々承知しています! しかし、こちらも譲れません!」
椿は顔を上げる。
「私達は罪人から市民を守る使命があります……! 例え私達の力が及ばなくとも、その使命を胸に闘っているのです! 犠牲になった者たち、目の前で命が尽きる光景は……もう見たくありません」
「厳しいことを言うようだが、それは単に君たちの実力が無いせいではないのかい? 私達に協力を仰いで……恥ずかしくないのか?」
届称は椿の目を見た。椿も届称の目を見続けた。
「確かに、私達の実力の無さを嘆いています。しかし今はもう、手段を選ばずに市民を守る必要があるのです! その手段があなた方に協力を仰ぐことだとしても! 悪魔に魂を売ることだとしても! 何がなんでも市民を守り抜くことが……正義としての、『平和』のための、覚悟です!」
続いて、聖華や天舞音、和也も椿と同じ姿勢をとる。
四人が土下座をする光景は、届称にとってはさすがに予想外であった。
「……客観的に見たら、今の君たちの様子は滑稽だよ。だが──誠意は伝わった」
届称は「立ちなさい」と言った後、四人に言う。
「こちらに来なさい。その覚悟……本物かどうかを確かめたくなった」
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