80話 更なるエンカウント
椿とサーシャが喫茶店「エンカウンター」で話をしていた頃、優貴は外の見回りをしていた。
『RDBは日常に溶け込んでる。いつ、どこで彼らと接触するか分からないから、気を引き締めてね』
優貴は、椿のその言葉が頭から離れなかった。
何の変哲もないサラリーマン、子連れで歩く母親、腰をかけて談笑している老夫婦。全員がそれの可能性があるからだ。
優貴は以前よりも外を歩くようになった。しかし特に、RDBを見分ける基準やおおよその目星もない。ただ、今の自分にできることを試しているだけだ。
「……違和感なんてないよな、普通」
どこかに違和感があれば、それが糸口となると思っていた。しかし、些細な変化はあるにしろ、特別目立つようなことはない。
優貴は今日も諦めて、そのまま取締所に戻ろうとした。
『久しぶり、じゃな』
この声が聞こえるまでは。
優貴は反射的に背後を振り返る。そこに居たのは、優貴も見た事のない女性だ。
彼女は赤をベースにして、裾のあちこちに青色の花があしらわれている着物を、違和感なく着こなしている。さらには彼女の口紅、持っている和傘、眼の色までもが『赤』であった。
そして結っている黒髪の横には、桜をモチーフにした髪飾りが控えめな強調をしている。
「はて、そんなに驚くとはのう」
その女性は優貴の反応を見て驚く。その後に口元を隠して、鼻から空気を抜くように笑った。
優貴は彼女からただならぬ気配を感じ、後ずさって距離をとる。初めて違和感を目の当たりにした優貴は、そっと目を閉じた。
「わっちをそんなに怖がることはないぞ? そもそも、『久しぶり』と言うておろう」
優貴は彼女の言うことを完全に無視した。「《発動》!」と声を上げると、考えもなしに突進する。
彼女は特に動揺することも無く、慣れた手つきで和傘を開いた。
*
優貴は足を止めた。あまりのことに驚愕したからだ。
「どうじゃ、気持ちが安らぐじゃろう? ここは」
気がつくと優貴は和室にいた。下には畳、右には障子、左には縁側、前には花の屏風、後ろには床の間、上には和風のペンダントライト。
縁側の奥から垣間見える景色は、まさに庭園そのものだ。雪を乗せた岩が楕円状に並び、疲れ果てた木々には花も葉もない。春になればきっと、岩の空間に水が溜まり、木にも綺麗な花が実るだろう。
「……ここは、どこだ?」
優貴の口から、不安がこぼれ落ちる。
右から、カラカラと音がしたのを聞く。あの女性が障子を開ける音だ。
「ここはわっちの意識の中じゃ。これで、お主とゆっくり話せるのう」
「……まず、お前は誰だ?」
「誰、か。…………本当は覚えてほしかったのじゃが──まあよい。わっちが誰かを話すのは、ちと早すぎる」
彼女の寂しそうな顔を見た優貴は、自分に恐怖した。まだ会ったこともないのに、恐らく敵であるのに、『彼女とは会いたくなかった』と感じた自分に。
「ここは意識が強く影響する。お主が自覚できてない、いわゆる潜在意識も出てくるはずじゃ」
優貴は段々と混乱し始めた。もし『会いたくなかった』のが潜在意識なら、彼女との思い出がいつから潜在となったのか。そして自分の記憶は正しいのか。改めて──彼女は誰なのか。
疑問がとめどなく溢れ出て、その答えが分からないものだから、混迷を通り越して憤りを感じる。
「お前は……RDBなんだよな?」
「うむ、そう言えなくもないのう」
「俺の任務は、RDBを対処することだ。お前が、俺のなんであろうと……!」
優貴の能力は、この意識空間でも継続中だった。彼女に素早く飛びかかり、動けない程度に拘束しようとした。
対して彼女は再び、容易い様子で和傘を開く。しかし、今回は傘の先端を優貴の方に向ける。
それを見た優貴はその傘を壊そうと考えた。とっさに体勢を変え、大きく引いた右腕を一気に前に突き出す。
「っ……!?」
「何度も言うておろう。ここは意識が影響する世界じゃと。お主の考えも読め、この傘もいくらでも改造できる」
傘は、優貴の拳でも壊れないほどの頑丈さを有していた。押し込もうにも、その傘はビクともしない。彼女自身にも押すことの影響はないようだ。
彼女は余裕そうに優貴を見つめていた。そしてその赤い眼には、どこか懐かしむような優しさが奥で光っていた。
「いかんいかん、お主をどうにかせんと。そうじゃな、例えば──傘の先端が機関銃になる、とかどうじゃ?」
瞬間、傘の先端が開く。空洞が優貴の額に突きつけられた。
和室に見合わない連射音、火薬の匂い、畳に音もなく落ちる薬莢。それらを確認する前に、優貴の五感は既に機能してなかった。
畳を血紅色で染めると、優貴は何もできずに背中から倒れ伏した。
*
「すまぬな、お主の意識に干渉して。避けようとしていたものじゃから、お主の手足の筋肉を強ばらせてしもうた」
優貴が目を覚ますと、そこは先程と同じ和室だった。ゆっくり体を起こすと、先程と同じ位置に彼女は居た。
倒れていた場所は同じだったが、血の跡や薬莢、撃たれた痛みは一切合切消えていた。
「この空間内では、お主もわっちも死ぬことはない。当然、現実世界でも影響はないぞ」
「……じゃあ、どうして俺をここに呼んだ?」
「──少し、伝えたいことがあってのう」
彼女はひたひたと、優貴の体に接近する。そして、優貴の頬を手のひらで軽く撫でている。
優貴が警戒して体を動かそうとしても、先程と同様で上手く体が動かなかった。
彼女の恍惚とした表情を目に入れたり、耳元で色っぽく囁く彼女の言葉を聞き入れることしかできなかった。
「お主……少々焦っておるな? RDBという組織になすすべがないからか? それとも、RDBが謎であるからか?」
彼女は優貴の頬に手を置きながら、諭すように続ける。
「いや、それとも──罪人取締班として自分が働く意味が分からないからか?」
優貴は震えた声で「は……?」と零した。それで初めて、自分が話せることに気がついた。
「ただ成り行きで取締班に入り、ただ成り行きで取締班として戦う。自分は班員だと言い聞かせ、正義をまっとうする。……この状況に、お主の意思がどこにある?」
「……人を、傷つけるのは──」
「間違っている、か? それは確かに、道徳として正しいのう。じゃが、道徳だけで解決できぬこともあるではないか」
彼女は優貴の目を覗き込む。赤い、赤い眼で覗き込む。
優貴は彼女の目を見つめ返す。震える瞳孔、閉じない瞼。優貴の目は赤く染まっていく。
『のう、お主の意思はどうなんじゃ? 正義感や道徳を【全て捨てて】──残る意思に全て従え……優貴よ』
彼女の手は少し濡れていた。
──優貴の涙で濡れていた。
*
「まあ、お主の判断に任せるとするかのう」
優貴が目を醒ますと、そこは元通りの日常だった。何の違和感もない、ただの日常だった。
優貴は彼女を睨み、戦闘の意志を明確にするように構える。
「俺に、何をした……?」
「何、ちと意識に干渉しただけじゃ。特別なことなどないわ」
彼女は優貴の方向に歩みを進める。彼女はそのまま優貴を通り過ぎる。
その際、耳元で「潜在意識を大切にな」とだけ呟いてその場を後にした。
黒目の優貴は、何もせずに彼女の背中を呆然と見ていた。