73話 光のない光
遅れてごめんなさい!
* * * *
久々に、彼女に会いに行くことにした。まあ、ただの気まぐれだ。合わせる顔もないのは分かっている。
この施設で最も分かりにくい位置に、その扉はある。まるで病院の扉のような、白い引き戸だ。
扉を引く。簡素な行為にも関わらず、初め、それを行うことに少しためらった。
声をかける。声帯を震わせるだけでいいのに、上手く言葉にならなかった。
そんな歪な音に気がついたのか、彼女が振り向く。長く白い髪たちが、僅かに空中へ跳ぶ。
彼女の整った正面顔が見えると、その一本一本の髪の毛が音もなくゆっくりと体周りに着地した。
甘い香りがここまで届きそうなほど、彼女は可憐で美しい。白く透き通った両足を揃え、それらを外に出して座っている。その佇まいを、日本では『お姉さん座り』と呼ぶらしい。
彼女は『お姉さん』というほど、大人びている訳ではない。一目見れば、どちらかと言えば幼いという印象を誰しも抱くだろう。
「……どなたですか?」
彼女の声は辺りを優しく包み込む。
「──僕だよ、アリス」
「その声はノアですね! あら、出張は終わったのですか?」
彼女は微笑んでいた。無邪気に跳ねるような声で、彼女の感情は全て分かった。
口元だけだと、本当に会えて嬉しいのか分からなくて不安になる。そう思うと、本当に彼女が純粋で助かった。
「うん。暫くはここにいると思うよ」
「わぁっ、それは嬉しいです!」
彼女の目の辺りはまつ毛も見えないほど、厳重に白い包帯で覆われている。彼女は長い間、暗闇の中で生きてきたのだ。
彼女がメデューサだからとか、そういうことではない。単純に乾くのが嫌なのだろう。
「そうだ、何か欲しいものはないかな?」
「欲しいもの? そうですね……あっ、新しい花壇とコスモスの種をください」
「また育てるのかい? ああいや、否定している訳ではなくてね? ただその……どんどんここが植物園になってく予感がしてね」
ここは彼女の部屋とも呼べるのだが、床の芝生をはじめ、多種多様な植物が周りを支配している。
手洗い場や寝床に繋がる手すりも、所々ツタが絡んでいるのが分かる。
「楽しみなんです。例えここが植物園になっても、私の目が光を取り戻した時、どのような光景になっているのか」
「……うん、そうだね。もし目が良くなれば、色んな所に行くのもいいね」
「いいですね、それ! ふふっ、そうしましょう!」
薄々分かっている。彼女はきっと、光を知ることなく一生を終えてしまうだろう。
「あら、もう行くのですか?」
「うん。心配しないで、また明日も来るから。何かあったら緊急ボタンを押すんだよ?」
だけど、もし、彼女が──アリスがそれを知ることができた時。
「分かりました。ではまた明日、待ってますね!」
「うん。また明日」
その時までには、アリスが目に入れても痛くないほど、優しい世界を、日常の景色を取り戻そう。
誰も何も取り繕っていない、ヘイワな世界を創ろう。
ゆっくりと扉を閉めた。
最後、彼女の寂しそうな視線を背中に感じて。
* * * *
久々に彼女に会う三人。彼らはリンゴや梨の入った袋を持って、病院の一室の扉を引いた。
彼女は扉が金属板を這う音に気がついて、こちらを見た。
「おっ、やっほー。久しぶりだねぇ」
「怪我の具合はどうですか、天舞音さん」
「へーきへーき。大したことなかったよ。あのとき優貴が助けに来てくれてなかったら、流石にやばかったけどねぇ」
「何が平気ですか! 搬送された途端、生死をさまよう状態ってお医者さん言ってましたよね!?」
美羽はつい声を張ってしまった。「しーっ」と天舞音が唇に人差し指を当てる。
「まあ、本当はそうなんだけどね。今だって、人差し指を口元に持っていくのですら、なんかぎこちないでしょ?」
「それより美羽、もしかしてもうお見舞い行ってたのか?」
「行くも何も、あのベッドに前まで私がいたの!」
そう言って、美羽は天舞音の隣にあるベッドを指さした。まだ誰もいないため、壁にある名札をよく見ると『天ノ川美羽』と、確かに書かれている。
「療養中、ずっと隣だったのか」
「……あの、えっと…………」
優貴と美羽の間から、芽衣が顔を出す。美羽は察して、優貴の手首を掴んで外に出た。
*
「美羽? どうしたんだよ、急に」
「今は、芽衣ちゃんと天舞音さんの二人だけにしておこうよ」
「……それは、いいが、その──」
「ん?」
優貴はある一点をじっと見つめていた。美羽もゆっくりと視線を落とすとそこには、同年代の男子の手首を掴む自分の手があった。
「──っ!?!?」
声にならない悲鳴をあげたあと、美羽は反発するように勢いよく手を離した。
美羽は優貴の機嫌を見ようと、頑張って顔を見た。優貴は、少し恥ずかしそうに目線を逸らしていた。
「ご、ごめんね……?」
「いや、こっちこそ。変に意識してごめん」
そんな中、美羽は気付く。初めて優貴が恥ずかしがっていたことに。そう思うと、何だか不思議な気持ちが美羽を支配した。
美羽は想像上の一方通行の道が、少しだけ広くなった感覚を得た。
*
「芽衣、怪我はどう?」
「少し歩くと痛いですが、それ以外は……」
こちらもこちらで、気まずい雰囲気が漂っていた。それとも、芽衣がそう思っているのかもしれない。
「そうだ、芽衣! 君の能力凄かったよ! 僕のと組み合わせたら最強だね!」
「……え?」
突然、天舞音は明るくそう言った。
「君の能力、感覚を共有するだけなんでしょ? なのに、どうして僕が触れたようになるんだろうね」
芽衣は一瞬で気がついた。自分が元気ないことに気がついた天舞音が、必死に元気づけてあげようとしていることに。
分かっているのに、声が出なかった。
「感覚っていうと、どこまでがそうなんだろうね。ほら、音を聞くのも鼓膜を振動させてるでしょ? その感覚もあるのかな?」
徐々に、芽衣は天舞音の元に歩み始めていた。
「心臓の鼓動とかもさ、しっかりと共有されるのかな。今度実験してみようよ!」
芽衣は天舞音の体に、しがみつくようにしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい……! 私の、せいで……もっと酷い傷……私の、せい、で──」
「そんなん思ってないよ。気にしすぎ」
天舞音はそっと、芽衣の頭を撫でた。ぎこちない動きであったが、芽衣は不思議と安心感を得た。
「むしろ、助けてもらったのはこっちだよ。君の能力がなかったら、僕たちは全滅だったんだから。だから、結果オーライだよ。もう少しで僕も退院できる。だからさ、今度一緒に買い物とか行こ? そしたら僕、アホみたいに喜ぶから、ね?」
「ぐすっ……約束です! 絶対行きます!」
「あはは、強制したかった訳じゃないんだけどなぁ」
芽衣の涙が止まるまで、天舞音は頭を撫でた。
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