20話 森閑を埋めるのは凄惨のコール 後編
「ふふっ、ふふふふふっ……」
猟奇的に笑う黒いワンピースの女性は、俺の首筋へナイフを突く。刹那、首から赤く生ぬるい液体が……出ることは無かった。
俺の首元に当たる寸前、彼女のナイフが『音も無くボロボロと崩れた』のだ。
「……えっ? な、何、が……?」
彼女も理解できなかったのだろう。呆気にとられたような、か細い声を漏らす。その隙にも、俺の体は徐々に動作するようになってきた。
彼女はそれに気づいたのか、
「いや! やめて! こないでぇ!」
と大きく後退した。その間に、俺は鈍る体で何とか立ち上がることができた。隣に居た翔さんは……まだ動けないようだ。彼は瞬きすらせずに固まっていた。
その時、後ろで足音が聞こえた。一般人だったら危険だ、と思いその方向に顔を向ける。
そこには毛先から上まで、水色から黒へのグラデーションの髪色を持つ男性が立っていた。
彼は全身を白いスーツで着飾り、頭に被っているのも、また白いソフトハットだ。目は紫色で靴は黒色。その格好は、この血みどろな状況だというのに、何1つ汚れてなどいなかった。
彼は白い帽子を、上から抑えるように手をあてながら話し始めた。
「いやぁ、危なかったねぇー。ボクが居なかったら今頃どうなってたか……」
「……あなたは?」
彼は飄々《ひょうひょう》とした表情、かつほんわかとした喋り方で話す。そんな彼へ俺は疑問を投げかけた。彼はきょとんとして首を傾げる。
「あれぇ? 会ったこと無かったっけぇ? ……あっ、というかほらぁ! ターゲットが逃げてくよ!」
しまった、と思いながら振り向くと、黒いワンピースの女性が早歩きで逃げていくのがひと目で分かった。
彼女もしまった、と思ったのか肩をビクッと反応させる。そしてバレたためなのか、俺たちを見向きもせずに、全速力で逃げていく。
その手前で翔さんが動く。彼はすぐに、『右目を右手で隠して』こう言った。
「《発動》! 全員、『目を5秒間閉じて』!」
と。
その言葉がきっかけとなり、俺の瞼は俺の意思に反するように落ちた。さらに、女性の走る足音も止んだ。
彼女は足音の代わりに、
「えっ……えっ!? これ、どういうことなのよ……!?」
と1人で愚痴を吐く。彼女も、翔さんの『強要罪』の効果で目を瞑らないといけないのだろう。そのために、突然走るのが怖くなったのだ。
「……期待する。そっちで捕まえて」
それは翔さんの声だった。その言動から、俺は彼の作戦を速やかに察した。つまり全員に目を閉じさせたのは、彼女に進行を止めさせるだけではないということだ。
俺は常に目を開ける準備をしておいた。そして、前方の景色が鮮烈に目に入る。つまり、俺が目を開いたそのとき、
「《発動》」
と言って『暴行罪』を発動させた。発動条件の、『目を3秒瞑る』というのがクリアされたからだ。
俺はまだ逃げようとする女性に、全力で追いつくと、後ろから手を優しく掴む。
優しくというよりは、彼女の手首が折れない程度にだ。
「いや! やめて! そんな手で私に触らないでよ!」
彼女は必死に逃げようと抗う。しかし、今の俺の力の前では無力に等しかった。
先程の白スーツの男性が遠くから声を張り上げる。
「その人の両手は掴んでおいた方がいいよー! その人の能力、『爪を噛んだら発動』するからー!」
大きな声でも、やはりどこか気の抜ける声だったが、その助言は秀逸なものだった。俺は彼女の両手首を、手錠のような拘束力で固定した。
「う、動かな……」
彼女が苦しく言う。次の彼女の口からはむせび泣きが聞こえた。
彼女は逃げることを諦めたのか、ふっと力を抜く。逆に、俺が手を離すと彼女は倒れてしまいそうだ。
「な、んで、よ……。私は……ただ……」
彼女の嗚咽が人気のない、赤い駅に響き渡る。彼女なりの信念があったのだろうか、と同情してしまうほどに、彼女の姿はとても可哀想な女性を彷彿とさせた。
しかし、彼女は殺人鬼だ。その事実は彼女が涙を流しても決して覆ることはなかった。
少しして、警察の応援が来た。白スーツの男性が知らぬ間に連絡していたらしい。
後ろ手で手錠をかけられた彼女は、特に抵抗する様子もなくパトカーに乗り込んだ。所々にカメラもあり、その映像はテレビで見る日も遠くはないだろう。
3人は血なまぐさい駅から逃れるように外に出た。白スーツの男性は大きく背伸びをする。
「いやぁー、疲れたねぇー! お疲れ様ぁー!」
「もう一度聞きますが、あなたは?」
彼は背伸びをやめてこちらを向く。そして俺に口を開いた。
「……だからぁ、会ったこと無かったっけ?」
彼はとぼけているのか、困った表情で聞く。俺はため息を堪えて答えた。
「……だから、会ったこと無いですって」
外には京之介さんの乗っているパトカーが同じ状態で停車していた。白スーツの男性も何故かそれに乗ろうとするものだから、俺はさすがに制止した。
「ちょ、ちょっと! 何乗ろうとしてるんですか!?」
「えっ……乗っちゃダメなの?」
「ダメに決まって……!」
呆れすぎて声が途切れた。彼は本気でショックを受けてそうだ。翔さんは無言をやめて、何故か呆れた顔で話す。彼の話は耳を疑うものだった。
「……紹介する。この人、『篠原頼渡』。ちゃんと、罪人取締班の一員」
「……え!?」
篠原頼渡という名前は、何日か前に聞いた事あった。罪人取締班のメンバー。そしてずっと海外に居て、罪人を制圧する団体の一員でもあるという……『とても強い人』だ。
「あっ、自己紹介忘れてたねぇ。ごめんごめん」
こんな子供っぽい人が? ……でも、あの女性のナイフが壊れた理由が、彼の能力によってだとしたら納得はできる。
「もっと早く言ってくださいよ……。おかげで上司に失礼なことをしました」
翔さんに言ったのか、それとも頼渡さんに言ったのか、自分でも分からなかった。
車に乗り込むと、京之介さんの声が1番に聞こえた。
「おっ! 良くやったな、お前た……うお!? 1人増えてる!」
相変わらずうるさい人だ、と声には出さなかった。助手席の頼渡さんが、
「じゃあ、罪人取締所までー!」
「誰かと思ったら頼渡か! ……まあ、言われなくとも目的地はそこだけどな」
そうして車は発進した。俺にとっての、新たな仲間を乗せながら。
次回、美羽編に場面変更されます。