140話 ただ一人の悪人
ある兄妹の過去です。
* * * *
叢雲家には、警視総監の英滋、その妻である花が居た。そしてその子供である兄の椿、妹の菫──その四人で平和に暮らしていた。
父は『永年、日本の正義と平和を象徴する者』と言われるほど優秀な人だった。常に国民を愛す故に、国民や部下にも信頼されていた。家に帰ることは少なかったが、帰るときは母や兄妹によくお土産を買っていた。
母は専業主婦で、兄妹の面倒を始め様々な家事をこなした。使用人を雇おうとする父の話を断るほど、彼女は四人のみで暮らすことにこだわっていた。特別な暮らしよりも普通の暮らしを好んでいたのだ。
兄はどんな人にも平等に優しく接し、いつも目の前にある輝かしいものを大事にしていた。妹を可愛がっており、両親のことも敬愛していた。
妹は人見知りで、人と出会うといつも兄の後ろに隠れていた。しかし兄と同様に優しい性格の持ち主であり、時折その人を気にかけるように兄の背中から顔をのぞかせていた。
そんな周囲からも憧れられるほどの、仲の良い家族だった。しかし──どんな光からも遮蔽物の影が見えないように、その家族には忍び寄る影に気付けなかったのだ。
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俺はこの家族に生まれて幸せだ。しかし同時に、特に最近になって不安になっていることがある。
父さんがあの公表をしてから、どこか胸騒ぎがするんだ。
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先月、父さんは警察に新たな部署を設立することを公表した。その部署の名前は、『罪人取締班』──罪人による犯罪を抑制するため、罪人によって結成される組織らしい。
その設立は特例中の特例だった。なぜならそれは、『国民の意見』を聞かない決定だったから。なので当然、反対意見も多かった。
そんな中、父さんはこう言った。
「国民の皆さんのおっしゃる通り、罪人を警察に起用することの問題はございます。しかし罪人は、定義上『殺人の意識』をきっかけとしております。実際に手を下さなくともそうなり得るのです! そんな者を一括りに罪人と呼称する訳にはいきません。せめてそのような者にも、社会で活躍する場を設けたいのです」
いつもの仰々しい口調ではない。どちらかと言えば、むしろ家で話している時の口調でそれは語られた。
ふと記者が質問する。
「叢雲総監、なぜ国民に公表するよりも先に決定したのでしょうか? 国民の権利を度外視しているのはなぜでしょうか?」
「その点に関しましては、不徳の致すところであります。その代わり政府とはある制約を交わしました。その制約は、『もし一定の期間内で成果を見込めなければ、罪人取締班を即座に解散し、同時に私が責任を取り辞職する』というものです」
恐らく父さんは、先に公表すればすぐに反対され、設立がしにくくなると思ったのだろう。
それにしても、父さんがそこまで罪人に情熱を注いでいると思わなかった。家の中ではあまり仕事の話をしないからだろうか。
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そうして『罪人取締班』が設立されることが決定した。父さんの演説で全ての国民を納得させることはできず、未だに反対意見が多い。
国民をこよなく愛する父さんのことだ、国民には悪いことをしたと思っているはずだ。それでも、父さんは決定を変えることはなかった。
多少強引とは思うが、俺も父さんの意見には賛成している。罪人だろうと人間なのだから、刑務所で更生した殺人犯が社会に復帰するような感覚で扱っても良いのではないのか、と。
とはいえ、反対意見も理解できる。俺はどちらかと言えば賛成なだけで、反対の意志も心の中にある。
それにしても、どこか胸騒ぎがした。勘といえばそうなのだけど、背筋に筆を当てられているような、そんな漠然とした違和感と嫌悪感。
反対意見が多いと不埒な考えを働く輩もいる。しかも父はその張本人だ。もし恨みでも買ったら……。
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砂を手ですくう。スキマからサラサラとこぼれ落ちた。
今はお兄ちゃんといっしょじゃない。どうやらようじがあるみたい。『すぐ戻る』の『すぐ』ってどのくらいなんだろう……?
「うう……」
まわりにも私と同じ子がいるから、上手にあそべない。『他の子に迷惑をかけちゃだめ』って、お兄ちゃんが言っていたから。
でも……まわりの子といっぱいあそびたい。お兄ちゃんがいたら、ほかの子といっしょにあそべるのに。
ううん、でも、これはチャンス。私もお兄ちゃんみたいに、ほかの人と話せるまでれんしゅうしないと。
今まで話しかけるのがこわかったけど、今日こそ……! ──よし、がんばってこの子に、『砂の山作ろう』って話そう!
「あ、あの──」
「ごめんねお嬢ちゃん。ちょっといいかな?」
「ひっ!」
後ろから男の人の声がきこえた。私はおどろいて、砂に顔をつけて体を小さくした。そこにお兄ちゃんがいたら後ろにかくれてると思う。
「はは、そんな蹲らなくても大丈夫だよ。おじさんは君に何もしないから、ただ話したいだけなんだ」
「は、話す?」
そう、これはれんしゅうだ。人と話すれんしゅうだ。
後ろを向くと、やさしそうな笑顔の男の人がいた。
「な、なにを話すの……?」
「君のお父さんに用があってね。今日は休みなのに家に居ないんだけど、どこに居るか分かるかな?」
「えっと、今はすぐそこのスーパーにいると思う」
「そっか、でもおじさん目が悪くてね。良かったら一緒に──」
「すみません、うちの菫に何してるんですか?」
男の人の手を、後ろからお兄ちゃんがつかんだ。
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俺がそう言って腕を掴むと、その人は振り向かずに首を振った。
「君は、この子のお兄ちゃんかな? おじさんはこの子と話したかっただけだよ……邪魔したらごめんね。それじゃあ」
その人はかなりの力で俺の手を振りほどく。彼は俺に、顔を見せることなくその場を後にした。
菫は終始驚いた顔をして俺を見ていた。なぜか顔にはたくさんの砂がついていて、俺も少し驚いた。
顔の砂をはらってあげながら、俺は話した。
「どこも怪我してない? あの人に何か変なことされた?」
「ううん、ただ話しただけだよ」
「……そっか」
とりあえず何事もなくて安心した。菫もケロッとした顔をしている。
あの口ぶりからして、恐らく身代金目当ての誘拐だろうか。俺の感じていた胸騒ぎはこれだったのかもしれない。
「お兄ちゃん、それ何?」
「ああ、これ?」
菫が指さした先には、俺がもう片方の手で抱えていた本だった。先程はこれを忘れてしまって、家まで取りに行っていたのだ。
忘れなければ、もっと未然に防げたかもしれないのに……。
「これは、悪い人がたくさんいる本だよ。菫にはまだ早いかな」
「ふーん……」
どこか菫は不貞腐れたような顔で頬をふくらませた。
ごめん、だけど菫に教えるわけにはいかないんだ。これは指名手配犯や有名な犯罪者など、父さんの資料からこっそりコピーして作ったものだ。
胸騒ぎの正体がハッキリしたから良かったけど、『家族を危険な目に合わせる』人が、もうこの地域に居る可能性があると思って作った。
菫と遊ぶついでに、この公園でそういう人が居ないか確認しようとしてた。だけど、さっきみたいな有名じゃない悪人が居る可能性があるから気をつけないと。
「そうだお兄ちゃん、私あの子と──」
菫が何か言いかけた時、突然ゲリラ的に豪雨が降り始めた。天気雨かもしれないけど、菫が風邪をひくかもしれないから急いで帰らないと……!
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この本に防水加工しておいて良かった。おかげで菫の頭を雨から守ることができた。
俺たちは体を拭いて、新しい服に着替えた。
「そうだ、父さんと母さんがまだ買い物中だ……傘持って行ってあげよう」
気がつけばもう夕方だ、雨もまだ降り続いてるし外は暗くなる。
「菫はお留守番してて。父さんと母さん迎えに行くから」
「……うん」
寂しそうな顔をした菫の頭を優しく撫でる。
「じゃあ行ってくるから、鍵もかけてくね」
手を振る菫を背後に、俺は家を出た。
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俺は近くのスーパーに向けて足を進める。自分を含めて三人分の傘を持って。
とりあえず今は胸騒ぎは消えている。やはりあの人さらいが原因だったのだろう。むしろ、人さらいが可愛く思える。もし殺人鬼で、菫を殺すつもりだったら──
「ん? 殺す、つもり……?」
もし、もしも本当に殺すつもりだとして、周りに人がいるせいで殺せなかったとしたら……? いや、『罪人取締班』の設立の決定はまだ先月の話。いきなり殺す考えを働く冷静な奴なんて、まさにあの本に載せてる凶悪犯罪者ぐらいしか居ない。
本を作ったのは結構最近だから、あの本に載ってる奴らの顔はまだ覚えてる。あの人さらいは本に居なかった気が──あれ、そういえば人さらいの顔を見てない……?
俺がそんなことを考えてると、後ろからバシャバシャと誰かが走って近づく音が聞こえた。
慌ててそちらを振り返ると、そこにはせっかく着替え直した服をびしょ濡れにして駆け寄る菫の姿があった。
「菫!? お留守番しててって言ったでしょ?」
「はぁ、はぁ……っ、お兄、ちゃん」
菫は震えていた。寒いせいじゃない、これは──恐怖?
「……どうしたの? 何があった?」
「ママが、パパがっ……!」
俺は、傘を落とした。
*
赤いサイレンが眩しかった。スーパーの入口には、サイレンとは違う赤い液体が流れていた。誰のものでもない、父さんと母さんのものだ。
救急隊員が言うには急所をやられてもう助からないらしい。最善は尽くしてくれているそうだ。
スーパーの中を逃げ回ったという犯人が、パトカーの中に入っていく。先程の人さらいの格好をしたそいつの顔は、あの本の写真に写っていた顔と酷似していた。
「……椿」
二人組の男が近寄ってきた。京之介さんと和葉さんだ。父さんと面識があったと聞く。
京之介さんが言うには、その犯人はすぐに自供したらしい。
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簡単に言えば依頼されたらしい。本人は前科があり、警察も手を焼いた元暗殺者だった。
しかし、出所後は本当に足を洗うつもりだったらしく、仕事を見つけようとしたが顔も有名だったため、犯罪者を働かせたくないと全て断られたとのことだ。
生活が困窮して餓死寸前の所に、大金とともにある者に依頼された。
『私は叢雲椿の反対派である国民たちの代表者です。私たちは、罪人を一生許せません。罪人に家族を殺されたのです、彼らが救われると聞いただけで家族の顔が浮かんで──。……とにかく、彼の強引なやり方に酷く反対しており、あわよくばあなたに彼とその家族を……』
金と彼の涙に促された犯人は、過去に手を染めてた方法で──。
なお父さんと母さんの居場所は他でもない、菫に聞いたらしい。なお、菫も対象だった。そのため人の少ないところで殺そうとしたが、その前に俺に見つかったため先に父さんと母さんを──。
しかし獄中に長くいたため勘が鈍り、人を殺した後パニックになってスーパーに入ったそうだ。
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誰も、悪くない。罪人を救おうとした父さんも、俺に『人に嘘はついちゃダメだ』と教えられたから居場所を正直に教えた菫も、社会に見放されて大金に縋るしかなかった元暗殺者も、罪人に家族を殺されたため父さんを酷く憎む依頼者らも、誰も──いや、一人だけ悪い。
もし父さんに少しでも反論していれば、もし菫にそんなことを教えなければ、もし腕を掴んだとき彼を説得できていれば、もし彼らの声にもっと早く気づいていれば──。
和葉さんの服にしがみつく。もう限界だ。
「……何が」
「椿、くん?」
「……何が悪かったんでしょうか!? 誰が……いけなかったんでしょうか……? あの子も! 菫も! ……誰も悪くないのに。悪いのは判断した俺だけなのに……」
父さんを、母さんを……殺したのは、俺なのに──。
大きく遅れてしまい申し訳ございませんでした。
それでもご愛読していただきありがとうございました。次回もどうかよろしくお願いします。