110話 親子
優貴と希の話です。
彼は閉じていた目蓋をゆっくりと開く。額を触った後の指を確認しても、これといったことは無かった。
「……ここは?」
まず彼はそれが気になり、周囲を見渡した。そこはまるで和室のようだった。
畳の床、障子、花の屏風。さらに目を引いたのは、縁側から見る和風の庭だった。白い帽子を被る岩が楕円状に連なっており、枝に雪を実らせている木がそんな彼らを見守っている。
「分かっておるくせに。わっちの意識の中じゃ」
大人びた声と共に、障子の向こうから赤い着物の女性が部屋に入室する。着物の上からでも体のラインが確認できるほど、彼女は男性の目を釘付けにする体の持ち主だ。
しかし彼──優貴はそんなものに興味が無さそうな目で、ただ彼女──希を睨んでいる。
「次は、何の用だ?」
彼の問いに答えることはなく、希は淡々と彼の元に歩み寄った。終始彼の獰猛な視線をものともせず、彼の顎を人差し指で持ち上げてじっと目を合わせる。
彼が抵抗することは無かった。しても無駄だと知っていたからだ。
「どれどれ……ああ、ある程度『成って』おるな。目の赤さがそれを物語っておる。ならば一言──」
彼女は顎から指を離すと、数歩後ろに下がる。寂しいような嬉しいような──本人しか真意の分からぬ笑顔を浮かべると、彼に告げた。
「──おかえり」
「……『ただいま』とは返さないからな。俺だって喜んで来たわけじゃない」
彼はそう言って突き放す。それでも彼女の笑みは消えぬままで、どことない気味の悪さや気迫を感じる。
そのことを悟られぬように、優貴は彼女を見つめたまま質問することにした。
「聞いてもいいか? 俺を呼び覚ましたのはあなただろ。何のために?」
「はて、記憶にないのう。わっちがいつ優貴を呼び覚ましたと?」
「……屋敷の外、風が吹いてるぞ。ごまかすなよ」
彼女は庭を見る。優貴の言う通り、外はそよ風より少し強い風が雪を乗せて通っている。
それが彼女の意識が揺らいでいる証だった。
「はあ……お主だってそれを望んでたではないか。ほれ、結果オーライというやつじゃ」
「『だって』、か。何か望んでて俺を醒ましたんだな。じゃあ何を望んだ?」
「……本来は、プロ・ノービスを倒した段階で終わっていた。じゃが今は、明らかに終わっておらぬ。わっちだって、どこまでが範疇の中なのか分からないのじゃよ。まあ要するに、イレギュラーを起こしたかったのじゃ」
「……そうか」
優貴がそう返答した瞬間、気まずい空気が胡座をかき始めた。そのせいで辺りに沈黙が漂う。
再会してこれはまずいだろうと、希はその空気をかき消すために会話を続行した。
「次はわっちから聞こう。届称と眼音の館で何をしておった?」
「RDB側についたことを報告した」
「ほう、それだけか?」
「ああ」
優貴がそう返事した瞬間、沈黙が再び始まる。周囲の音が暇そうにしている中、同様に希が口を開く。
「……ところで優貴。これからわっちのことを『お母さん』と──」
「呼ばない、それくらい分かるだろ」
「…………冗談じゃ」
からかっていると彼は思い、眉をしかめて返す。
彼女は言葉を詰まらせた後、彼から視線を逸らす。
彼女の様子を見て良心が傷んだのか、頭を掻いて話す。
「ただ後々を考えると、本当にこのマフラーは感謝してる。忍び込んで盗ってきてくれたんだろ?」
希は視線を彼に戻す。彼は先程の彼女のように視線を逸らしている。
彼女は、自然と口角が緩んだ顔を浮かべる。
「なに、礼には及ばぬ」
彼女はこのままの歪な関係でいいと感じた。むしろそれこそが救いであるとすら感じてしまった。
「さて、そろそろ時間じゃ。わっちもそろそろ行かねば怪しまれるからのう。……ああそうじゃ、『RDBはそろそろ撤退する』ぞ。お主の出番がないまま続くかもしれぬな」
「ふっ……あの人たちがそう簡単に諦めると思うか?」
「諦めない……と? ならば取締班を全て壊滅するしかないのう」
「それは、やめてほしい」
彼の言葉に、希は目を丸くした。彼はまだ完全に『こちら側』に染まった訳ではない。彼女はそのことに、安心と不安が半々に混ざり合う心を抱く。
「私情か?」
「私情だ」
「それで終わってもよいのか?」
「……それで終わらせないために、俺がここに来たんだ」
優貴の瞳の奥には確かな『闘志』があった。誰に対するものなのかは分からなかったものの、希は静かに頷いて能力を解除した。
*
景色は無機質で趣のないものになった。路地裏のような、そんな薄暗い通路の中に二人は居た。
彼は額を触った後の指を確認する。そこには和也による外傷から溢れ出る血がこびりついていた。
また少し遅れてしまいました、申し訳ございません。
ご愛読ありがとうございました。次回も宜しくお願いします。