その2
ネフロの意識は邪悪な『臭気』へアクセスを試みている。天まで届くが如く、大きく重厚な錆びた黒い扉がそれを拒んでいた。立ち竦むネフロは溜め息を吐いた。
「こんなことをする人は」
そう呟くと、待っていたかのように鈍い音を立ててゆっくりと扉が開いていく。途端にその隙間から飛び出すように液体が飛び散った。地面を塗った場所から黒白の気体が浮遊する。ネフロは胸ポケットからハンカチを取り出し鼻にあて、強い香りでその『臭気』を追い払った。
「全くを持って、汚らわしい」
そして男はハンカチを鼻に当てたまま、口を真一文字に締める。
「そして当然、これは罠ですね」
門の中の黒く深い闇は、ネフロが入室するのを静観していた。その扉の隅では黒い触手が誘うかの様に靡かせ、そしてざわめいている。
「わかりました。あの女性の逃げる時間が少しでも稼げるのなら」
男が大きな扉の隙間に身体を滑り込ませると、ゆっくりと扉は閉まっていった。やがて暗い漆黒の闇が身体を埋め尽くす。
強烈な『臭気』が襲った。ネフロの体は黒いぬめりを帯びたスライム状の触手に引き擦られていく。中からひとつ球体が頭を持ち上げた。流れ落ちていく汚状から、赤色の眼球が光る。それから幾つもの目玉が分裂していった。
ある陽の当たる野原に、ネフロは大の字に寝転がっている。明るく暖かい陽の光が顔を照らしていた。眩しさを感じ、薄く目を開ける。青空が広がり、白い雲がゆっくりと空を漂っていた。誰もが心に描く、最もらしい希望の風景が広がっている。
「こんな光景」
起きあがった男は辺りを見渡した。頬を掠めていく優しいそよ風に、金色の細いストレート髪が微かに靡く。
「隠蔽している」
ネフロはここで、気が付いたように口唇を噛んだ。
「そう簡単には入らせてはくれないか」
歩き出した男の足元を、緩い流動性を持った地面が絡み、ゆっくりとした速度に制限している。
「取り込まれた時に、別な場所に幽閉された」
訝しげる頭上で小鳥のさえずりが心地よく聞こえた。小高い丘に大きな大木がそびえ立っている。そこを目指して幹下に辿り着いた男は、その先に拡がる光景に目を細めた。
見降ろした先には黒い十字架が、何本も果てしなく草原を埋め尽くしている。
「何とまあ」
ネフロは胸ポケットから再びハンカチを取り出して、鼻に軽くあてた。
暫く見下ろしていると、微かな『臭気』が二つ漂っていること気付く。男は身構え、同時に額に汗が滲んだ。
『ネフロ。君もその墓標のひとつに、今すぐ加えてあげますよ』
遠くから頭の中を突き刺すような声が響く。途端に眼前が漆黒の闇に閉ざされた。