その1
突然、楓は戦慄で体を大きく震わせた。
『邪悪な、邪悪な臭気』
かつて臭ったことのない程の『臭気』が、女の嗅覚に鋭い杭を打つ。堪らず吐いた。烈しい頭痛と極度の脱カを起こし、再び床に座り込む。
「しっかりしろ!」
シバサキは女に歩み寄った。楓は両手で髪の毛を掻きむしりながら、頭を抱え耐えている。衰弱する顔の女に男は言葉を無くして立ち竦んだ。
「ネフロ」
ネフロは窓に向かって両目を閉じている。
「やっていますよ。けれども相手の壁が厚く、アクセス出来ませんよ。見つかってしまった」
長身の細さが特徴の男は窓に両手を挙げて、ひと呼吸した。眉間に皺を寄せたシバサキは険しい顔になる。
「楓、立て。行くぞ」
男は楓の上腕を掴んで、無理に引き上げ立たせた。
「この場から逃げるんだ。おまえが考えているよりも相手は手強い。もう普通なんてない」
「シバサキの言う通りです。早く逃げて下さい、楓さん」
未だ足元おぼつかない楓は困惑し戸惑う。シバサキは強引に掴んでいる腕を引き、歩を進ませた。
「誤魔化してくれよ、ネフロ」
「二手にわかれるわ。部屋には男一人だけ。吹雪楓たちは非常階段へ行く」
茜は青い瞳を光らせてその行動を予知する。
『予知能力』―。
「案外早く接触できたのですね」
泡を吹いて目の前に転がっている大男を踏みつけて、諸星は前に歩き出した。
「茜、どこで逢えますか」
「マンションの地下駐車場。出た非常階段の扉から左へ五台目の、白い車の陰」
茜は相変わらず、諸星の腕に手を絡めている。
「その前にマンションから嗅いでいるネズミを、何とかしないといけませんね」
「そう。でも、あなたが勝つわ」
諸星は立ち止まり、茜を見つめ口元を吊り上げた。
「予知したのかい?」
女は首を横に振る。
「負けること考えられない。予知するまでもないよ。これって結構疲れるんだよ」
茜は口を尖らせて、悪戯な表情を向けた。
「いいね。じゃあ君は、彼等を出迎えて下さい。くれぐれも丁重にお願いしますよ」
男の言葉を聞こえない振りをして、腕から離れた女は軽やかにマンションへ走る。
「そう。君でないと、楓は迎えられない」
暗闇に消えていく姿に不敵な笑顔を見せた。マンションに月が隠れていくのを、魅せられたように眺める男は、遠い記憶を呼び覚ます。呼応する右腕に顔を歪ませて抑え込んだ。
「そうだね。君に逢うのはもう少し先だね」