最終話
暖かい早春の日、桜の蕾が所々開花し始めている。その先の青い空に向かって大きく息を吹きかけながら、『吹雪 楓』は公園のベンチに腰掛けていた。
女は先ほどから感じている。
吐き気がするほどの、様々な『臭気』を。
「何か、問題か」
隣りに腰掛けて眉を顰める『桂 桜子』は、読みかけの本から少しだけ目を離して訊ねる。楓は首を横に軽く振った。
「いいえ、いつもと一緒」
『臭気』ヘの受け止め方は以前とは違っている。人の最後の主張とも言える『臭気』は、魂からの『喜怒哀楽』たる叫びだ。それらは邪悪で有り続ける執着心の強い妄想のように、決して消すことの出来ない『人の性』である。これは何事にもとらわれない魂の源だ。人が生まれてから無意識に持っているものなのだろう。そしてそれを感じ取ること出来る人間などいない。もし、知り獲たならば人格は崩壊するだろう。
そんな物を見えてしまう能力を、今まで恨めしく思っていた。人から離れていれば、避けていれば、互いに傷つくことも苦しんだりすることもない。接触さえしなければ、何事も起こらないはずだった。
しかし、答えは違っていた。接して交わりながら、生きとし生けるものの運命を共に感じ、分かちあうことが重要であったのだ。これまで出逢ったものたちが、そうであったように。奇しくもあの鬼の中で見た無限の宇宙の運命『アカシック・レコード』は、自分の『性』だった。今まで『存在意義』を掴めずいたことが、少しだけ解った気がする。
遠くで『森川 茜』が、自動販売機で飲物を買っている。
あの時、人と赤い血を選択しなかったら、ここは鬼の支配世界に成っていたのだろうか。破壊しか出来ない鬼の意志によって、この世界は、宇宙は、消えていたのか。ガラス箱に納められた宇宙がひとつの運命として考えるならばー。
「あの無数の中にも、違う私がいたのだろう」
別世界では桜子も田山翡翠も甦らず、自分は鬼の血を選択した世界を築き、人類に愛想を尽かして、能力『アクティブ・アクセス』によって一瞬きで滅亡させているかも知れない。
その運命も当然、あったのだ。
そう考えると、『アカシック・レコード』という運命の記録は確かに存在していると言える。それを諸星は欲していた。だが、現世の人々が知り得るには途轍もなく無限で、途方もない。
「そのような単位を人が理解出来るはずがない」
言い方を変えれば、宇宙の辺境の地球で、しかも瞬間的存在でしかない人間の人生の運命など、些細すぎて考えるだけ無駄かも知れない。
楓は再び空を仰ぎ、溜め息を吐く。
「斜め前のベンチの男の人。彼女と一緒にいるのに、ずっと桜子さんのことをチラ見しているね」
飲み物を買ってきた茜は、桜子に渡しながら小声で耳打ちする。目前の道を挟んだベンチに男女のカップルがいる。女が話している隣の男は桜子を見ながら、上の空で生返事ばかりしていた。
桜子は本を持ったまま、指先を立てた。爪先からオレンジの火炎が立ち昇る。楓は慌てて指を押さえた。茜は何が面白いのか、さっきから桜子をそそのかしては楽しんでいる。女が目だけで威嚇すると、二人が持っていたソフトクリームが一気に溶け落ちた。そこから男女の痴話喧嘩が始まる。
「もう、茜ちゃん、変なこと言わないで」
「大丈夫。桜子さんがこうしなくちゃ、あの二人、上手くいかないの。これで仲直りして、今よりももっと良くなって、めでたし、めでたしと」
茜の予知通りにその後彼らは仲直りして見せた。
「もう……」
「いいじゃない、ちょっとした人助け。桜子さんとの運命の連係プレイ」
買ってきたペットボトルのお茶を、笑顔で茜は一気に飲み干す。桜子は咳払いして目を吊り上げた。
「楓、これからどうする」
強い風が女の黒く長い髪を靡かせる。
「あの隙間から溢れ落ちた邪悪な黒い目玉たちを、残らず退治する」
桜子と茜は顔を見合わせ、眉間に皺を寄せた。
「では、私はこの世の末までを見届ける」
目を伏せて桜子は本を畳む。
「私も一緒に行く! いいよね、楓さん!」
茜は声を弾ませて二人の間に割り込んで、それぞれの腕に手を絡ませた。楓はそんな茜を見て口元を緩ませる。艶のある長い黒髪を桜子は掻き上げた。
『田山 翡翠』が死を選んでも伝えなければならなかったのは、この現世に自分がいたからだ。自分が人だったからだ。
鬼から注がれている異形の血は消えはしない。赤い血の中にいても動き出そうと蠢いている。
またいつか何処かで、再び対峙する日が来るだろう。選択の余地は無限だ。鬼は別世で舌舐めずりしながら期を伺っている。
その時、また人を選ぶことが出来るのか。わからない。
ベンチから立ち上がった楓は一旦背伸びし、右手を大きく広げて青空に透かす。ベンチの二人も腰を上げた。
「だけど」
指と指の間で、太陽の光が見え隠れしている。楓は目を細めた。
「この世を、人として生きていく」
『嗅ぐ女』 完




