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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第1話 存在意義
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その6


 マンションの一室にある大型液晶テレビには、昼間のバス騒動が放映されていた。病院で治療を受けている痛々しい高校生や、俯く会社員、包帯を巻いた運転手のインタビューなどが流れている。事件の張本人は別の病院で治療を受けているが、全身を無数に刺されて昏睡状態であり、警察の事情聴衆も意識が回復してからだった。


「もう、この世に戻ってこないさ」


 楓はネフロと共に、テーブルと椅子しか無い殺風景な部屋いる。ただ壁全体は銀色の金属で覆われ、遮光カーテンにて一切の光を遮断していた。外界と一線を分けている部屋の背高い椅子に腰掛けて、楓は沈黙している。


 ここに来た事を女は後悔していた。地下鉄やバスの出来事で混乱していたとは言え、気を付けていたはずのあの能力を第三者に知られてしまったからだ。しかもその能力を操る方法を知っている人間にだ。


 少し離れた窓側にもう一人、男が立っている。黒い革ジャンバーとジーパンで身を包み、顔すら隠す様に長髪をしていた。その男は『シバサキ』と教えられた。薄く開けたカーテンから外を執拗に伺っている。


「私が彼を壊したの」


 楓は思いきったように呟く。


「あの男はおまえがバスに乗る前に、既に壊れていた」


「一体、何がどうなっているのか、わからない」


「そうだな。おまえは何一つ知らない。だが、わかるはずだ」


 男の鋭く敵意のある眼が、楓を強く睨み付けた。


「人の精神世界に直接アクセス出来る能力。どんな人間の心理状態でも、その本性を垣間見ることが出来る。何を考えているのか、どんな行動をとりたいのか、とろうとしているのか」


 男は勢いを持って楓の側に歩いてくる。その凄んだ形相に彼女は息を止めて身構えた。


「しかもおまえはその精神を破壊できる。その人間に一切の身体的危害を加えることなく、内部から廃人にしてしまうことがだ」


 怯えた瞳を丸くして、逃げ場のない椅子に身を押し付ける。楓は細い指を絡めて握り込んだ。


「そんな破壊兵器をどんな能力だと思っているのか。おまえが持っているものは、核兵器よりも強大だ」


「破壊兵器……」


「特殊な能力は特殊な事に活用して、初めて役に立つ。それを何も知らずに感情的に使うのは、極めて危険だ」


「あ、あなたに、何がわかる」


「思い出せ。おまえがしたことで、誰か幸せになったか。最初に不幸になった奴は誰だ」


 楓は口元を締め、反論する言葉を失う。


 最初の不幸ー。

 高校生の頃。女子生徒に人気のあった若い教師と、帰宅駅のホーム居合わせた時だ。内気な性格で友人もなく独りで居ることの多い自分に、気さくに声を掛けてくれた。教師の話しぶりは好感がもて愉快で、人気の教師を独占している状態に、快感にすら覚えたのだ。心が緩んだ時、つい自分の遊び心のひとつで、教諭の気持ちを探りはじめた。笑いながらも真摯に答える男を困らせようと、かなりきわどい質問を繰り返した。


 そうする内、教師の瞳が偏光したことに気がついた。同時に今まで嗅いだことが無い『におい』を感じたのだ。男の瞳から次第に目を逸らす事が出来なくなり、その光に魅了され体が吸い込まれていく。


 途端に駅が上下反転し、風景が渦状に歪みだした。空間が黒くなり、光が差した時には、いつの間にか学校に戻っていた。

 身に起こっている事が理解できず、それでも校舎に進んで行くと、教室の中から獣のような声が響いた。ドアのそばで耳を澄ますと、淫猥な声も混じっていたのだ。

 恐る恐る扉を開けると、三十人くらいの裸になった女子生徒たちが、ある獣の周囲に群がっている。それはこの世に存在しない生き物だった。顔はオオアリクイの様にも見え、細長い舌をちょろちょろと出し、両腕と胸部は人間、下半身は白い尾を持つ馬だった。それが二本脚で直立している。


 時折長い舌が大きく跳ね上がり、鞭となって生徒たちを打ちつけていた。その裸体に傷が刻み込まれる度に彼女らは甘美な声を上げ、なおも両手は馬の下半身を求めていた。

 扉のそばで立ちすくむ自分をオオアリクイが気付いた。長い舌が大きく跳ね上がると、不意に背中を押され扉が閉まった。振り向いた矢先長い舌が鞭になって、学生服が割かれた。肌が露わになるが痛みは感じなかった。近づこうとするオオアリクイの下半身を、他の女子たちが引き留める。身動きが出来ないオオアリクイは長い舌で、教室の壁を破壊した。底板を残して周囲と女生徒が消し飛んでいく。

 周囲の空間は、これまで見たこともない風景が拡がっていた。地上が遥か下にあり、エベレスト級の山頂の尖った部分に、教室の床がやじろべえのようにバランス良く留まっていた。景色が素晴らしく美しかった。

 床が軋む。眼前にオオアリクイが仁王立ちしていた。次のターゲットは自分だった。鋭い鞭で痛めつけ、服従させることが目的だ。その鞭が飛んで来た。服は破れていくのだが、痛覚は無い。露わになった肢体は自分の形状と違っている。やがて乳房が露出した。見落とすはずが無い、二つの乳房の間にある深い傷跡が存在していなかった。それがこの空間の創造物だとわかる。猛威を奮うオオアリクイの鞭の前に、ようやく我に返った。


『いったい、何が起こっているの』

 

 執拗に弄ぶ鞭を掴んで立ち上がり、そしてオオアリクイを睨みつけた。


『傷つけないで!』


 その瞬間、空間がまるでガラス扉に投石したようにヒビが入る。オオアリクイは顔が歪ませながら、長い舌を抜き取った。


『あなた、誰』


 今思うとそれは、迂闊な発言だった。

 凝視した先のオオアリクイの顔が揺らいで表面が剥げ落ちてくる。必死に顔を隠そうと両手覆うが、途端に床のバランスが崩れ、その大きな体が転がった。剥がれ落ちるオオアリクイの仮面の隙間から、驚愕する目が伺える。


『先生……』


 目の前をけたたましい音を鳴らして、電車が通り過ぎた。不意に体を掴まられ後方に引かれる。揺さぶられて気がつくと、駅のホームに戻っていた。構内は騒然としている。


「お嬢ちゃん、大丈夫かい」


 肩をしっかりと支えられている状況で、中年の男から上ずった声が掛かった。


「だ、大丈夫です。何かあったんですか」


「何かって、気づかなかったのかい」


 男はそう言うと指差す。ホームに一足の革靴と鞄が散らばっていた。


「あんたの隣にいた男が、急に電車に飛び込んだんだよ」


 教師の事故は不明な部分が多いものの、自殺と断定された。警察は男に不純異性行為の案件で前から目をつけていた。その証拠物件が、自殺後家宅捜索にて見つかったのだ。男には性癖があり、その怪しげな目視催眠能力で、同校以外の女子生徒も含めて淫らな行為をさせていたらしかった。

 身も心も成熟するに連れ、教師の中の自分が何だったのか理解出来た。それから他の男性たちからも多くの場合、性欲の対象として見られていることに気付いてきたのだ。教師の様な悲劇を起こさないため、そして執拗で猥褻な男たちの創造の世界から身を守るために、相手の心の中身を覗く能力を開発していった。誰もが多くの場合、欲求の彼方に陰鬱な『臭い』を持っていた。

 次第に感受能力が高まると、止めども無い『臭い』が、良かろうとも悪かろうとも無しに、数多く流入する結果となってしまった。頭痛と吐き気に苛まれながら過ぎて、普通の生活が出来なくなった。仕事を辞め、しばらく引きこもった生活をすることで、認知のコントロール訓練を行った。


 心を打ち明ける、信頼できる人間もいなくなっていった。人間不審になった。この能力さえなければ、人を信じることも出来たのかも知れない。最後には、何度も自分の能力を責め続け、この世からいなくなってしまいたいとも思っていた。


「偶然にもおまえに出会ってしまった彼らは、幸せなのか、不幸なのか。個人的な感情によって、壊された者も……」


「やめて!」


 楓は両手で頭を抱えて椅子から転げ落ちて座り込んだ。迫っていたシバサキは我にかえって、再び窓の方に踵を返す。


「俺は、念動力を持っている。子供の時は何も知らなかった。自分が思った通りに、物が動くんだ。面白いわけさ。いいお遊びだった。小学校に入ってもそれはそれでよかった。自慢になったしな。だが、ちょっとした喧嘩で友人を怪我させてしまった」


 楓は男の呟く話と、自分のそれからの過去と照らし合わせていた。


「最初は偶然で済まされたが、二度三度と続くとそんな事では説明つかなくなった。友人や近隣との付き合いは悪くなって、俺は転校を繰り返した。結局は同じ事だったがな」


 自分の両手を見つめ、男は握り込んだ。


「能力を理解できる者など、誰もいなかった。能力を使わないように隠してきた。普通にしていることがましだって、気がついてからな」


 シバサキは皮肉ったように、表情を歪ませて少し笑う。


『普通の生活、普通の会話、普通の時間、普通の……』


 楓の妄想をかき消すかのように、シバサキの言葉が続く。


「両親は俺を連れて、俗世間から消えた。俺もおまえも同じ立場だ。このままにはしておけない」


「私は何も変わらない。明日も同じように過ごす。このまま放って置かれても、別に今日と変わり無い日々を過ごすだけ」



 ネフロは床に座り込んでいる楓に手を差し伸べた。楓は躊躇ったが、やがてその手に触れる。


「もう手遅れなんです、楓さん」


「手遅れ?」


 ネフロは頷いた。


「もう少し私たちが、早く楓さんを見つけていたら、こんな話がゆっくり出来たんですけど」


 男から安心させ得ないため息が漏れる。


「あの者はあなたの能力を推し量るために、刺客を送り込みました。そしてあなたは見事にそれを倒して見せた」


「刺客」


「バスの男です」


「まさかあの人は操られていた」


 ネフロは少し頭を振った。


「あの臭気と風景は男のものです。だがマンションにいた大蜂は、仕込まれていました」


「これからどうなるの……」


「追われることになるか、あなたがその者に手を貸し、生き延びるかです」


「追われる? 誰から? あなたたちは、いったい何者なの」


 楓が言った途端、窓が風で音を大きく鳴らした。


「私たちと共に行動して下さい。でなければ、あなたの身が危険に晒されてしまいます」


「わからない。信じること、出来ない」


「こんなこと、本当は知らない方がよかったですか」


 赤いスーツの男の懇願する気弱な眼差しに、楓は戸惑って口を閉ざす。窓際のシバサキは厳しい眼光を向け、ネフロに合図した。


「だが、もう逃れることは出来ません。すべては動き始めました。前にも言いましたね、あなたの力は強大だと。早くとも遅くとも、いずれはあの者たちは追って来ます。あなたがどんなに拒否しようとも」


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