その1
「そ、そんな……、ばかな」
瓦礫の下から、シバサキはその姿を見つめる。
男は拳を床に叩き突けた。崩れ落ちて背中を押し当てている金属片を渾身の力で払い退ける。何度も膝折れをしながら立ち上がった。その視線の先には、無残にも十字に張り付けられた哀れな野獣の姿がある。黒い棘に赤い血液が幾筋も伝っていた。巨大な鬼は無表情のまま、空中に呼び掛ける。
『この世は、うぬらの物ではないか』
拳を震わせて、シバサキは瓦礫の一角から叫んだ。
「ここはおまえの世界ではない! 去れ!」
大きな金色の九つの目玉は、ゆっくりと小さき声の方を向く。
『選ばれし者か。選べよ、この世の終わりを』
「この世界は誰の物でもない! 誰も選ぶことなど、出来ない!」
眉を吊り上げて威嚇し、鬼を指差した。
「おまえの居場所など、ここにはない! 立ち去れ!」
鬼の目が少し見開いて光った直後、男の頚部は後ろに反って両足が宙に浮く。空中に大量の血吹雪きが起った。何が起こったのか理解出来ない男が胸に手を当てると、黒い棘が刺さっている。
「そんな……、まだ、こんな、ところで……、俺は」
矢継ぎ早に何本もの棘が、シバサキ目がけて飛び出した。もがく手足は何の役にも立たない。だがそれは途中で火炎に巻かれる。そのまま男の体を持つと、再び発火して棘を折った。飛来塔の向い合うマンションの屋上に着地する。間髪入れず、棘たちが襲った。白い女が楯となって火炎を噴く。全てを焼き払うことが出来ない棘が、女の肢体に突き刺さった。
「ナ……、ガ、レ……」
眉間に皺を寄せて女は呟く。
「俺が……、わかる、のか」
女は両手で棘を掴んで肢体に食い込んだものを力任せに引き抜き、そしてシバサキに向き合った。
「……桜子。諸星が、いなくなったからか……、解かれたのか」
今までの冷ややかで敵意と破壊的だった瞳は、幾分憂いを宿していた。
「ワタシノ、ソン在、……理ユウ」
桜子は男に刺さっている棘の周囲を指で沿わせる。そしてをそれを掴み、ゆっくりと体から抜いていく。傷口から大量の血が吹き出した。
「桜子。おまえが、甦った、本当の理由は……」
力なく倒れ込むシバサキの体を桜子は抱き止める。傷口を押さえる白い手が赤く変色していった。
「……桜子、おまえは、生きている……」
そう言いかけた刹那、背後から飛んでくる棘を察知して女を押し飛ばす。手負いの念動力はもはや何も役に立たず、黒い棘は更に幾つも男の肉体を貫いた。
「もう、おまえを、二度も、死なせない……」
火炎で黒く焼け尽くす鬼の棘は幾十にも重なり合い、次第にスピードを上げて向かって来る。もはや自分では体を起こせないシバサキを桜子は再び抱き上げて、爆炎を放出して跳躍した。向かった先で転がりながら着地し、そのまま瓦礫の中に飛び込む。
「おまえは、死ぬために、甦ったんじゃない」
耳元で囁くその言葉は、閃光の様に女の脳に響いた。倒れた二人が重なった中、男の赤く染まった太い指が青白い頬を撫でる。
「おまえに、課せられた使命を……、妹とともに……」
女はその手のなすがままにして、瞳に少しだけ光を宿す。
「桜子……、楓を、……頼む」
シバサキの精気が桜子の顎先を捉えた指先から、静かに抜け落ちていった。
その崩れていく身体を追う瞳の光彩が小さく変化する。桜子は鬼から飛んでくる棘の嵐に向けて、両手から巨大な爆炎を放った。それはまるで感情を放出したかの様に大爆発を起こして、シバサキの亡骸とその場の全ての棘を焼き尽くす。
「ナガレ、私は、選んだ。だから、死なない」
桜子は鬼の大きな手掌から離れると、静かに唇を噛んで鋭利な目を向けた。
『うぬも、選ばれし者では、ない』
鬼は金色の九つの眼球を動かし、一笑する。
『この世は皆の血の一滴まで、われのものである』
黒い十字架に身を任せていた獣は、静かに息を吹き返していた。血に塗れた両手は胸に突き刺さっている黒い棘を掴んでいる。
『うぬにも、もう用などない』
鬼の手掌が飛んでくる前に、獣は刺さっている棘から抜け出た。血液が流れていた穴が再生して自然と塞がっていく。
獣はもう一度、鬼の野太い腕の上を走り出した。上腕に駆け上がると、再び黒い棘が乱舞する。満身創痍の小さき体では俊敏さが鈍り、降りかかる棘を交わすことで精一杯だった。応戦する赤い棘の勢いも弱くなっている。上腕から生え伸びてくる棘が足元に絡み、獣は激しく横転した。何十本も黒い棘を持ち上げて弾丸のように乱打する。手足にそれは突き刺さって再び動きを失った。野獣の指先は震えながら何かを求めている。
「何故……、何故、争う……、この世は、誰にも……」
灰色の手掌はその小さき獣を腕から毟り取り、握り絞めた。
『うぬの運命なぞ、とうに尽きておる』
空間に鈍い音が響き渡る。
獣の眼光と全身血塗れの胴体が、再び静かに衰えていった。




