その7
大きな鉄骨が飛んでくる。それは獣に直撃した。その姿が押し潰れたように見えた。だが鉄骨はくの字に折れ曲がって、赤い棘に刺し止められている。次の瞬間、火炎が獣を包んだ。火達磨になった個体が転がってくる。それは手足がない胴体たちだった。
転がってきた黒こげの胴体が諸星の足先に触れた刹那、顔面蒼白となる。気配を消していつの間にか背後にいる野獣に、これまで味わったことのない恐怖を感じたからだ。
「桜子が、弱いのでは、ない」
筋肉が痙攣して体が危険を察知しているが、その場から固着して動けないでいた。黒く巨大化している右腕も震えている。諸星の感情を反映するように怯えていた。
「き、君が、強すぎるのです」
殺気立った獣の臭気が煮え立っている。諸星の念動力も大きな力の前では、もはや歯が立たなかった。
「僕が、望んでいた、究極の異形、最終形態……」
口元を不自然に引き吊らせながら、諸星は苦笑する。
「いい……、実に、いい。真の異形と人間との融合が、いた、なん……、て……」
直後、男の口から黒い液体が大量に吹き出し、異変を知らせた。
「い……、い……い、いい……」
身体全体が激しく痙攣している。何者かに操られているように自身では制御出来ず、口から液体を垂れ流した。
「ああああ、あ……、あ……」
眼孔から光彩が消え、白目を向いて口を開け放つ。諸星の目から黒い涙が筋を作って流れて落ちていった。
「お、お、おかしいよ。あ、あ、頭の中が、と、溶けて、いく……」
飛び上がるかのように頚部が後方へ反り、諸星の顔面が天を向く。四肢を真っ直ぐ伸ばし、鋼のように硬直させたまま更に痙攣した。
「あ、あ、あ……。僕は……、異形、とは……、融合で、きないの、か……。選ばれない、のか……」
背後の獣は、その光景を沈黙して見ている。男の太くなった異形の黒い腕が、狂喜乱舞しながら獣に喰いついた。しかし飛び出た赤い棘の餌食になり、悲鳴を上げる。獣は素早く鋭い爪を立ててその腕に突っ込み、異形のその目玉を抉った。そのまま力任せに右腕をもぎ取る。諸星の無くなった右腕の付け根から、黒い血液が放射状に飛び散る。唸る獣はその手を放り投げた。傷口から体液が滴り落ち、煙を立たせながら臭気を放つ。震えるように動く左手が少し挙上したところで、鋭く赤い棘は諸星の胴体を刺し貫いていた。
野獣は臭気に誘われるまま、諸星の精神世界にアクセスしている。
目に見える風景の何もかもが、白い靄に包まれた池にいた。獣はその畔に佇んでいる。鼻を鳴らして、その深緑池の主たるものを探していた。獣は池に足を入れて真っ直ぐに歩んでいく。
周囲の水に混じるように、次々と人間や動物の手足が浮かび上がってきた。獣は臆せず、その中を突き進んでいく。しかし行く手を阻むようにその手足が絡み付いてきた。体中から飛び出す赤い棘は扇状に広がり、四肢の群を貫いて風船を割るように破壊していく。先は未だ靄が掛かったまま先が見えなかった。
池の中央に小さな島が見える。土地全体に草叢になっていた。そこに飛び乗ると草を分けて更に進んでいく。丁度、中央辺りが草も何も無く空いていた。白いベッドがある。そのシーツが深紅に染まっていった。それは止め処もなく噴き上がっていく。
獣の目の前に何かが落ちてきた。大きな芋虫が足元を這いずり回る。獣は足でそれの動きを踏み留めた。芋虫は耳を突く金切り声を発する。獣はそれをじっと見つめて、蹴り上げた。弾んだ芋虫は池の中に落ち沈んでいく。
「僕は……、悪くない……」
獣の頭上から声が響く。
「僕はこんなに頑張っているのに、誰もわかってくれない」
水面が揺れていた。池底から気泡が浮かんで弾ける。
「僕は、みんなにわかってもらいたいんだ。この腐りきった世の最期と、未来の行く末を掴むことの素晴らしさを」
池から紫色の芋虫が跳ね上がった。獣の背中に覆い被るように向かう。だがそれは、体に触れることはなかった。棘は芋虫に何本も突き立てられている。
「な、なぜ、僕は……」
獣は冷ややかな眼で睨み突けた。棘がゆっくり抜くと、芋虫は緑色の体液を流しながら転がり落ちる。蠢くその腹部が割れ、中から歪んだ顔が覗いた。
「か、楓……。僕を……、け、消してくれ……」
金切り声が響く。獣は更にその腹部に向かって睨み続ける。
「は、早く……、僕が、僕で、なくなる前に……。もう、元には、……戻れない」
それまでの見せてきた高慢で自信に満ち溢れる表情ではなかった。泣き声を上げそうな程の、苦痛に歪んだ顔がある。
「お願いだ……、君に、僕を、消して、欲しい……」
獣は右腕を振り挙げ、母指を中指に掛けた。
「ぼ、僕は……、君に逢えたことが、一番嬉しかった……」
構えた先の諸星の顔は、今までにないほど穏やかに微笑む。
「僕にとって……、君は特別だった……。けれど、君に、辛い思いを、……させていた」
芋虫本体は、割かれた腹部の穴を塞ごうとしていた。次第に再生される穴を「本当の諸星」は必死で食い止めようと顔を這い出して来る。
「君に望んだ、未来を……、君が望む……、未来を……見つけ……、て……」
腹部が再生し、虫は鳴き声を上げて変態した。芋虫の体から細長い脚が飛び出す。粘着性の強い体液を流しながら頭部が割けた。中から諸星の歪んだ頭部が落ちて獣の足元に転がる。口元から黒い涎が垂れていた。
「か、え、で……、す、ま、な、い……」
芋虫は長い脚で大きく飛び跳ねる。そして獣の眼前に舞い降りた。落ちた頭部がその脚に潰される。変形した顔には、精神を乗っ取られた「もうひとりの諸星」が生え替わっていた。
「カエデ、マタ、アエテ、ウレシイ、ヨ」
その口角を吊り上げた口元から、赤紫色の長い舌が触手のように滑り落ちてくる。舌が獣の頬に触ろうとした瞬間、憎悪に満ちた低音が唸った。
「……サ、ワ、ル、ナ」
赤い棘は舌を切り裂き、獣は指を弾く。空間が歪んで衝撃波が放たれた。至近距離からのそれは、一瞬にして芋虫を呑み込むと躯体は細胞から分子レベルに至るまで砕かれていく。精神空間そのものがある一点に収束し、小さくなって弾けた。諸星にこびり付いていた黒い邪悪な異形は消滅する。
腕をもがれ、獣の棘に刺さっている諸星は、力無く頭を垂れた。
「諸星! おい!」
精気を失い丸くなった背中をシバサキは見つめる。獣が赤い棘を収めると、諸星は安堵した顔つきで目を閉じて静かに床に崩れ落ちていった。
「楓、おまえは正気なのか。何を、考えている……」
獣の行く手を、男は阻むことは出来ない。
突然、地面に叩きつけられるような、建物全体に大きな激震が走った。何らかに掴まっていないと、宙に浮いてしまいそうな勢いだ。シバサキは頭上を見上げると、空間の裂け目が大きく開いていた。




