その6
「やはり、本能は衰えていなかった」
諸星は鋭く折れ曲がり破壊された柱に手を掛けながら、驚愕よりもむしろ感動すらしかかっていた。
「楓……」
再び変わり果てた姿を見つめながら、シバサキは困惑した表情を浮かべる。
『やはりおまえはあの時に死すべきだったか。いや、生まれるべきではなかったのか』
諸星の念動力に封じ込められ、掴むものを見つけられない指は何度も空を掻く。
男の記憶から『楓』の存在が露わになっていく。
あれは最初の惨劇だったー。
両親は共に『サイ研究所』で働いていた。人間の能力の限界を超えることから始まる、未来への架け橋の創造。それが始まりだった。莫大な国家予算をつぎ込んで立ち上げた能力者開発のための研究施設。国家機密として設立された研究所には様々な能力者が集められた。これからの世界で活躍する新人類として活躍を期待された。だが、その進展には時間と金が掛かり、しかも十分な成果を出せずにいた。
この世にいる能力者を超える存在。父親は世界を見通すことのできる見聞能力を持った母親とともに、ある計画を企てた。それは宇宙のシナリオとも言える、生きとし生けるものの運命の顛末を全て記した『アカシック・レコード』を見つけることだった。そしてそれが現世ではなく、別の次元に存在することを母親が見聞して発見したのである。だが、その入り口がわからない。そもそも異次元に行くことなど考えられなかった。そこで父親は母親の見聞能力を高めるためにトランス状態を作り、丁度この日ような時間と意識集合体塔を作り上げてその在り処を探そうとした。
「母親にはあの二人に通ずる何か秘めた能力があった。それがどんなものなのかは、俺は知らない。二人の能力を凌駕するものだったかもしれない。最初の実験が行われた」
苦悩するシバサキの姿をよそに眼前の男は深く首を奮った。無造作に争いで付いた服の埃を軽く払う。
「そして開いたのは邪悪な空間だった。向こう側から得体の知れない物体が流れ落ち、それは研究所を埋め尽くした。人々は黒い汚物のような異形に食い殺され、人が人でなくなり、互いに殺しあって自滅していった」
「適合不十分でしたか」
口元を吊り上げる男はシバサキを再び蔑んだ。未だ自由に動かせない体を、シバサキは引き摺って起こす。諸星は黒く倍以上に巨大化した右手を挙げる。
「その空間を戻すために親父は懸命に対処した」
視線先に諸星はいない。シバサキは思い出したくもない記憶を絞り出すように顔を歪めた。
「実験の中心にいたお袋も、あいつらに全身を呑み込まれて感染させた。その数分後に闇は通り過ぎて行った。何とか一命はとり止めたが、それは助かったわけではない。奴らの目論見だった。お袋の中にはある物が存在していた」
「ま、まさか……、同化適合したのですか」
諸星は壁に体を衝ける。
「実験の引き換えに、お袋は異形の子を孕んだのだ。取り出そうとしたが成長していくスピードが速く、しかも子宮内の成長ではなく、人の細胞を糧として身体中の隅々まで血管を這わせたんだ。取り出すことは、お袋の死を意味した」
シバサキの声に反応してか、黒い太い腕が奮った。
「親父は苦悩していた」
恐らくー。闇の存在を消すために、悪魔の取引をしたのだ。
だがその子をこの世に産み落とすことは、再び邪悪な惨劇を繰り返すかもしれない。衰弱していく母親の腹の中で、異形の血は徐々に肉体と精神を蝕んでいたんだ。狂っていく愛し死する命と、未来を継ぐか破滅か異形と人間の遺伝子が混合した命。
やりきれない怒りに似た感情が、一気にシバサキから吐き出た。
「君の母親はその運命を受け入れた。『アカシック・レコード』にアクセス出来たのです。そして自身の運命の全てを知ったのです」
そんな馬鹿なことはない。あってたまるものか。
「ある夜、親父が様子を見に向かった先にそれはいた。破裂したお袋の腹の上にあいつがいた」
その言葉が合図だったのか、諸星の黒い腕が音を立てながら異様に膨らんで巨大化する。
「最初から楓は、異形のものだったと言うのですか!」
ゆっくりとシバサキが頷くと、明らかな動揺が右手を蠢かせている男を襲った。
「生まれたての人間の形をした異形の子を、親父は葬ることは出来なかった」
拳を握りしめたままの男の口調は、いつしか無音となる。
無邪気に父親に縋る愛くるしい仕草は、人としか見えなかった。愛しき人の面影すら見せるそれは、失うわけにはいかなかったのだ。それから外界と隔離して研究所の監視下に置き、人として育てていくことを決心した。
次第に成長し、判別を付けれるようになった。普通の生活に慣れるために出て行った高校生活だったが、男性教師の深層心理への無意識にアクセスして廃人にしていた。あの時、気づいてやれなかったことは自分の汚点だった。いつの日か異形どもに操られないように、能力を開発、制御するために研究所に俺は連れ戻す。だが、楓の何処に秘めたる異形の力があるのかは判らなかった。
「おまえは、それをこじ開けた」
シバサキのやりきれない怒りが拳となって、地面を叩く。
「確かにあいつの能力は人並み以上だった。遊びでやっていたつもりだろうが、能力の向上は凄まじかった。だがそれでも極力、開発しないようにしてきた。だが、おまえが仕組んだ桜子との実験の時、目覚めさせてしまったんだ」
頭を掻き毟る男の右腕は更に膨れ上がった。
「前にも言いましたが、そこまで二人が憎しみを持ったのはあなたが原因なのですよ。もっと早くから素性を明かしていればよかったものを。とんだ三角関係が暴発したまでです」
「楓を押さえるために、桜子は自己犠牲を払い、親父は研究所とともにその全てを吹き飛ばした。おまえはその時既に異形に飲み込まれて感染していたから、記憶に無いだろうがな」
辺りから全ての気配が消えたように、冷たく静まり返る。
「おまえが言う、未来への架け橋に成るべく空間など存在しない。あるのは邪悪な破滅だけだ。『アカシック・レコード』のようなものや『田山翡翠』などなかった」
「楓は彼と遭ってきました」
「本当にそうなのか。あいつの『嗅ぐ』能力のアクセスする世界は、自分の深層心理が見せる、自己暗示ではないのか」
戦慄く諸星の足元が揺れた。眉を吊り上げた後、苦笑する。
「君は最初から知っていた。桜子を撃った理由、あの場所に葬った理由、そして甦る理由を」
辺りの砂塵を巻き上げて、風が建物を冷やして通り過ぎていく。握り締めた手に汗が滲んだ。
これ以上、凍りついた記憶を溶かさねばならないのか。
「君の両親がしてきたことはわかりました。だが、君が今までしてきたことは、桜子や楓のためではない。確認です。『アカシック・レコード』が正しいかどうか、その存在を含めて」
立ち上がろうとするが、シバサキは体力の消耗が激しく動けない。代わりに右半身をやや引き擦りながら諸星が近づいて来た。
「僕があなたと知り合ったのは偶然ではなく必然。楓が再度目覚めるには桜子も必要であり、彼女が蘇ることも必然だった。だから君は『田山翡翠』が最期に辿り着いた場所も知っていた。彼がどんな男かも。全ては最初から決まっていたこと」
目の前に辿り着いた男は、全身を小刻みに奮えさせている。
「責めたりはしません。むしろ感謝しています。僕は嬉しいのですよ。君がいなければ『アカシック・レコード』を確信など出来なかった。ましてや世紀末を知り得ることも」
柔和な表情が不格好だった。
「『アカシック・レコード』に、現在の堕落した人間社会の根絶と未来創造を賭けているのです。ご両親が成し得なかったこの遺業を継ぐ者として、僕が必ず成功させるのです」
「もう、こんなことはやめろ。おまえも危険だ」
思いがけない事を言われ、動きの止まった諸星の右腕が微妙に揺れる。
「この期に及んで僕の心配ですか。君らしくない。でも感謝します。しかし何度言ってもわからない人ですね」
嘲笑が止まり、男は沈黙した。
「この実験はご両親の遺志ですよ。あなたが継がないから、僕がやっているのです」
「邪悪なものに感染しているおまえも、いつまで正気で人としていられるのか」
シバサキが言い放った後、諸星は気が狂ったように笑い出した。
「実に愉快です。それで僕を説得しているつもりですか。もう後へは引けません。開いているのですよ、天空は」
「諸星!」
「それにもう、二人とも止まりません」
静寂だった空間に大きく何かが潰れていく、奇怪な異音が鳴り響く。




