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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第8話 それぞれの意志(後編)
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その5



「何故、争う。何故、殺し合う。何故……」


 未だに女の頸を掴んで離そうしない獣は、視線の先に無言で問いかけている。コントロールを失った獣の鋭い眼光はどこか悲しげだった。


「人間、だから」


 白目だった眼球が下方に動き、瞳を獣に見定める。細い指が獣の額を突いた刹那、爆炎が舞い上がった。紙一重で炎を避けた獣は、もう一度飛びかかる。だが女は椅子から離れて水槽の前に立った。


「生きて、いるから」


 放つ炎は、獣の攻撃を避ける盾となる。その忌々しい姿に獣は怒り興奮していた。唸り声が室内に響く。体中に黒い臭気を放ち、毛穴から無数の赤い棘が飛び出た。それは勢いを持って、四方八方と放射状に伸びる。


 赤い棘は周囲を巻き込んでるが物体を貫いて破壊した。そのひとつが水槽に鈍い音を立て、突き刺さる。鋼鉄の椅子がバランスを崩して落ちた。水槽の厚い硬質ガラスにヒビが入り、水圧に耐えきれず粉々に散っていく。手足を切断された胴体が床に転がり、何かを求めるかのように逃げ惑って動いていた。その物体の目は赤く滲んでいて、既に異形化している。


「愛して、いたから」


 眉に皺を寄せる桜子の肩と脚に、棘は突き刺さっていた。指尖が獣に向きを合わせる。蛇の様な渦巻き状の火炎が放出された。それは辺りに転がる胴体を巻き上げ、野獣をひと呑みする。


 建築中の最上階に爆炎が立ち上がった。建築資材とともに、無数の蠢く異形や手足の無い胴体が燃え盛りながら階下に落ちていく。桜子の足元に黒焦げになったものが転がっていた。女はゆっくりと前へ歩き出す。その外殻を踏みつけると、脆く崩れ落ちて灰になっていった。



 念焼力。


 全てを、焼く尽くす力。



「全部、無くなれ。何もかも」



 直撃をかろうじて避け、烈風に飛ばされた獣の体は目玉の肉塊の前に転がってきた。その姿を凝視し、蠢く緑色の目玉は歓喜した。邪悪な臭気を体中の穴から発散しながら重い姿態を引き擦り、触手を伸ばし始める。先ほど茜を呑み込んだ黒い異形たちだ。


 その触手が横たわっている獣の腕に触れた刹那、毛穴から飛び出した無数の赤い棘がそれを串刺しにする。緑色の目玉は悲鳴を上げた。複数の目玉たちの触手が反撃を繰り出す。一斉に刃を向け、もみ合いながら呑み込もうと体に取り巻いた。黒い巻物のようになった体が、激しく揺すられる。震える触手が獣になおも張りついた。少しだけ引き寄せることが出来たが、やがて強制的に停止する。


「ハ、ナ、セ」


 その言葉に目玉たちは恐怖した。纏わりついた全ての触手は、赤い棘で貫かれていく。細胞の塊が木っ端微塵に床に飛び散った。


「ハ、ナ、レ、ロ」


 再び、唸る声がする。黒い塊の本体の目玉が鋭く凝視した。直後、棘のある細い腕で目玉が抉り取られる。獣の口元の笑みとは逆に、目玉は断末魔の奇声を発して手掌の中で押し潰れた。細胞が粘性状に溶け、指の隙間から床に垂れていく。幾つもの目玉が同じように剥ぎ取られていった。やがてその奥から、少女の顔が見える。汚物に染まった獣の両手が血だらけの頬を掴んだ。


 更にその手は纏わりつく目玉を次々に剥がしていく。突然、少女の胸から緑色の目玉が飛び出した。牙を持った目玉は、その肩に鋭い歯を立てて喰らいつく。無言で冷ややかな黄疸色の瞳がそれを見つめた。肩から伸び出た棘が目玉をひと突きし、高々と持ち上げる。未だ敵意を持つ目玉に向かって、更に何本もの棘が飛び出し続け、それは跡形も無く塵となった。すると制御本体を無くしたかのように、女を呑み込んでいた異形たちも体から溶け落ちて消滅していく。獣の指間にその残骸が残っていた。それを睨みつけて壁に投げつけると、熱気のように体中から鋭い臭気を立ち昇らせる。


 止まっていた息を少女は咳ともに激しく吹き返した。朦朧とする意識の中、焦点の合わない視力で周囲を必死に把握しようとする。その中にある影を見つけて手を延ばそうとしたが、無理だった。

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