その5
「楓さん!」
体が前後に大きく揺さぶられる。床に転倒していた楓は目を開けた。
「……ネフロ」
目の前には相変わらず清楚なスーツと強い香りに身を包んだ男がいる。
「あなたは破壊しすぎる」
楓は眉を潜めた。男はやや焦った表情で何かを発しているが、女には訳が理解出来ない。ネフロはバスの車内を指し示す。
「これは……」
車内は呻き声が鳴っていた。転がって大声で叫んでいる者もいる。すすり泣く声もあちこちから聞こえていた。
「あなたも肩を刺されたんです」
鋭い羽音がまだ車内をうろついている。近づいてきた蜂を、ネフロは脱いだ赤色の上衣で払い落とした。
「早く、出ましょう。また刺されます」
男は楓の体を持ち上げて起こす。車外には人集りになっていて、警察や野次馬が囲んでいた。パトカーや救急車が何台もサイレンを鳴らして集結している。
「大丈夫だとは思いますが、念のために病院に行きましょう」
ネフロは楓の腕を取って肩に掛け、警察の誘導で救急車に乗り込んだ。
「恐らく、あなたが疑われることはありませんが、やり過ぎました」
一緒に乗り込んでいる救急隊員は、その会話に不思議な顔となる。
「一体何が起こったの」
ネフロは女の顔を見た。
「判らないのですか?」
楓は首を横に振る。ネフロはため息をついた。
「いいですか。あなたが放った一撃は彼の精神本体そのものを破壊し、脳神経のシナプス制御すら無くした。その行為行動まで記憶を無くした彼は、防衛機能を働かせるしかなかった。そう、本能的に身を守ることです。手に持っている物を放つしか、なかったのです」
「……ものすごい『臭い』が……。蜂から黒い目玉が出てきたの」
人差し指を口にあて、ネフロは言葉を制止させる。
「あなたは狙われている。偶然だったと思いますか、あのバスでの出来事」
瞳を大きく開いた楓はネフロを凝視した。
「何のために、私が」
「あなたの力は強大なのです。この間お会いしたときにわかりました。私なぞ、足元にも及ばない」
「……」
「ただ、使い方を知らない。闇雲に力を放出していては、あなた自身にも危険が及びます。能力の制御は決して楽なものではありません。まあ、あなたにはどうだかはわかりませんが」
理解の及ばない説明に疲れを見せ、女は眉間に皺を再び寄せる。
「ともかく、あなたと話をしたいと言っている人がいます。逢ってくれませんか。私を信じて下さい」
ネフロの香水の臭いに軽く目眩を覚えながら、彼女は頷いた。
一人の女子高校生が、騒ぎになっている現場を野次馬の後方から混じって見ている。バスから次々と運ばれていく乗客らしき中に、一番酷く刺されている男が出てきた。担架に乗せられている男は体中を鋭い針に刺され、赤く手や顔が腫れ上がっている。口からは泡を吹き、目は見開いていた。
「もう、随分目立つじゃない」
少女はその惨劇の片隅に、楓の姿を見つける。
「なんて人かしら」
「君もそう思うかい」
銀髪の男がその隣に立っていた。
「僕の『おもちゃ』を跡形もなく壊すなんて」
口元は細く微笑みながらも、髪に覆われている瞳は鋭く光らせている。
「ねえ。そんなにあの女が気になるの?」
「……そうだな」
少女に視線を落として見つめ、顎に手を当てた。
「これからの僕には必要かも知れないな」
「嫌な人。私がいるじゃない」
それを聞いた男は幾分呆れた顔をして、頬を膨らませている女を見てくすりと笑う。
「失礼。君も大切な人だ」
少女は無言のまま、そっぽを向いた。
「もうすぐ、また逢えるよ」