その4
夜が更ける丑三つ時、地球の地軸が約二十三度傾いている角度との誤差の中に存在する僅かな闇の刻。生死を分かつ聖なる場であるが故、この世のものでは無いものたちが出入りする隙間とも言われる丑寅の方向。古くからその方角は特別な意味を持ち、『鬼門』と呼ばれた。
更けゆく澱む闇黒の空に一筋が入る。裂け目から、現世とは違う異次元がゆっくりと開いた。そこから夥しいほどの灰色の液体が流れ落ちていく。そのすべてが落ちた後、その奥から何かが覗いていた。大きな赤い目玉がこちらを伺っている。目玉はやがてひとつから、二つ、三つと、分裂していくかのように増えていった。それは溢れて、やがてその隙間からこぼれ落ちる。
「異形のものたち。ここにあなたたちの手足があります!」
諸星は水槽の傍らに近寄って叫んで、両手をその方向に差し伸ばした。溶けかかった赤い目玉が床に一つ落ちる。それは蠕動運動して蠢き、水槽の縁に装飾されている手足まで這い擦った。目玉は薄気味悪い、黒い胴体を立ち上がらせ、それを飲み込む。茜と同じ光景だった。やがて黒いものは形態を増殖させ、形を造ろうと不格好な動きをしている。
「おお、なんと、美しい……」
恍惚となっている諸星は呟いた。
「これのどこが、美しい!? 何をしているのか、わかっているのか!」
戦くシバサキは、叫ぶしか出来ない。
「……何って」
次々と赤い目玉が落ち、水槽の手足を喰い漁っていく。
「このままだと過去のように、全てが吹き飛ぶぞ」
諸星は笑った。
「結構です。最高の舞台じゃないですか。僕はこの世の最高の支配者に、成り得る」
この雰囲気を楽しむかのように男は笑顔を見せる。
「勝ちです。僕は君に、勝ったんです」
子供のような、無邪気な顔だった。
「君から桜子と楓を奪いました。研究所の汚名返上とともに、この世もね」
「いい加減にしろ!」
シバサキは拳を作って飛びかかる。だがその体は押し戻され、再び壁に激突した。
「僕は知っていますよ。二人の憎しみの縺れは、君にも発端があるじゃないですか。幼かったとは言え、その二人を騙していたのですから」
唾液と吐いた血液を袖で拭いながら、シバサキは押し黙る。
「まだ教えていないのですか、君の本当の名前を。いい加減にしなくちゃいけないのは、君ですよ、シバサキ。いや……」
唇を噛む男の動きが止まった。
「『吹雪 流』」
上目遣いに男を見定める諸星は苦笑する。
「驚いたようですね。何故、おまえがそれを知っているんだ、という顔をしていますよ」
無数の目玉が落ちてきた。足元で蠢くそれを「吹雪 流」は力の限り踏みつける。睨みつづける汚物は、奇怪な声を発して潰れていった。
「愛した女性を殺した者が、自分の妹とは。憎くても所詮、肉親を傷つけることなど出来ませんでしたか」
野獣に頚部を捕まれ、右腕を挙げる『死に人』は恍惚の白目を見せている。
「一番哀れなのは桜子です。恋人にも恨みを晴らしてもらえないとは……」
「黙れ!」
「滑稽です、君のその顔、姿、実に嘆かわしい。そんな男の側にいるより、二人は僕と一緒にいる方が正当というものです」
眉を吊り上げて諸星は大きく笑い飛ばした。
「やめろ!」
シバサキは鉄骨の一本を念動力で持ち上げ、男に向けて投げる。
「無駄とわかりませんか。君と僕との力の差は、前に天空から流れ落ちた異形の子たちに飲み込まれて以来、全く違いすぎます」
諸星は左手で受け止め、払い除けた。
「やれやれ男の嫉妬ほど、不様なことはない」
あらぬ方向へ飛んで行ったそれは、建物の一部を破壊して突き刺さる。
「二人はあの時に成し遂げられなかった事の続きを始めようとしています。君に構っている揚合ではありません」
「どうしても、おまえはやる気なんだな」
「もちろん。ずっと前から宣言しています。変える気は毛頭有りません」
男は睨みつけたままその場で構えた。諸星は右手を挙げ、首を不自然に捻る
「この世を創り直すためにね」




