その3
振り向いた顔面に、血飛沫が付いて身悶えていた震えが止まる。視界にいた長身のスーツの男は満身創痍で崩れ落ちていた。
「まあ、ネフロにしては上出来でした」
薄笑う諸星、震えながら溶けている黒い塊、そして赤褐色の水槽の隣で虚ろに見つめている桜子がいる。シバサキは格子に体を支えられて精気を失っていた。
「もう時間です」
耳障りな轟音が鳴り、床が揺らぐ。大きなものに捕まえられたように建物が動かされた。桜子の椅子下部の赤褐色に染まった水槽が、呼応するかのように泡立つ。水面に浮かんだ気泡が水面で弾けて血生臭さが立ち昇っていった。漂う物体たちが水槽の壁にぶつかり、逃げ惑っている。先程から感じていた『臭気』が更に強く拡散されて楓の嗅覚から脳を突いた。視線の先に感じる、異様さが合図する。
水槽の縁が何かに象られていた。桜子の椅子を囲むように、細長いものが何本も伸びている。先程までは気がつかなかった装飾だった。それが桜子の視線と同じ方角を向いている。
「ま、まるで、……花びらだ」
大きく目を見張り、精気を失いかけた男は呟いた。そして汚れた赤い物を確認する。
「ネフロ……」
その花の中心に桜子がいる。血色の悪い表情の女は、シバサキに向かって少しだけ口元を緩めた。
「……桜子」
男の視線はかつての愛しい女に奪われる。その唇は遠い記憶の過ちを呼び覚ましていった。男にとって見つめる瞳は、優しく、怪しく、澄んでいる。
「銃弾で亡き者になった抜け殻と、俺は対峙しているのか」
シバサキの力が更に抜け落ちて再び膝を突いた。楓はその視線を遮る。
「あんなもので、異形のものを呼んでいるなんて。桜子の周りにあるものは、あの人たちから奪われた手足よ」
戦慄しながら見る装飾のようなその手足は無数に蠢いている。特に手指は母親を求める赤ん坊の手のように、何かを掴もうとしていた。
様々な『臭気』がこの空間を埋め尽くしている。今まで楓は外界からのアクセスを意識的に遮断していた。この世にある全て『臭気』を拾うことは、その切なく悪意の意識に自分の意識が喰いちぎられ、我を忘れてしまうかも知れないと思えるからだった。あの研究所で我を忘れて破壊していた自分は正にその結果だと理解した。
だが今はここにいる全ての『臭気』にアクセスを拒否しなかった。外界ヘ意識を解放し、受け入れる決意をした。諸星と桜子の支配する空間に居続けることは、それよりも苦痛だったからだ。
やがて止め処もない沢山の『臭気』が一気に楓に入り込んで来た。吐き気を感じたが、受け止めるようと歯を食いしばる。その軋む奇怪な音を鳴らしながら楓は手を奮った。
「桜子、どうするつもりなの」
女の啜り笑う声が響く。
「封印を解いて、教える。所詮、運命は変えられないことを」
桜子は緑光勾玉を首から掴んで引きちぎる。
「楓を退治するため、蘇った」
そして振り被って床に叩き突けた。玉は床で放射状に割れる。
「違う! あなたが今いるのは……」
桜子が割った勾玉から閃光が広がり、何も見えなくなった。
同時に辛辣と憎悪、悲哀を伴った断末魔のような悲鳴が聞こえ、室内に反響する。
目が眩んで頭を押さえたシバサキは、馴染むまでに動けずにいた。
そして室内に慣れてきた時、背後にその場とは明らかに違う意識体を感じた。振り返ると息を荒げ、まるで野獣のように殺気立っているものが身構えていた。シバサキは体を震撼させる。
「……か、楓……」
自分の攻撃対象を見据えて、野獣は唸っていた。
「さあ、楓、もう一度」
手招きする桜子を睨んでいた楓は跳び上がった。人間とは思えない跳躍だ。駆け寄るや否や、楓は椅子の傍にいる桜子の頸部を掴んだ。力任せに絞めあげる。眉間に皺を寄せながら桜子は微笑んだ。
「楓、憎しみを……、頂戴」
瞳が赤く妖艶に光る。
「憎悪の爆発と、生死の狭間の危機感。それが融合すると」
暴発する炎は指尖から天井に向けられた。
念焼力。
火の手が騰がる。それは天井を赤く焦がして貫き、大きな穴を開けた。衰えを知らない火炎はそのまま一直線に闇夜に向かう。
ついに火柱は炸裂し、漆黒の天空をも裂いた。




