その2
青い……空間、遠くから雑音。
いや、違う。……悲鳴が聞こえる。
やがて視界が晴れると、ネフロの目の前には深緑色の不透明な揺らぐカーテンらしきものがあった。静かに右手を入れると、粘性の強いゲル状のようなものが取り巻き始める。途端に強い痺れが起こった。抜き出すと、生臭い臭気が泡を弾かせながら立ち昇る。左手をポケットに入れるが、もうハンカチはなかった。男は袖を鼻に当てて顔を歪める。
「恐らく、ここから先に閉じこめられている」
茜の精神世界に入り込もうとしていた。
「もう一度、中に入るなんて」
呟いて挙げた上腕から血液が滲んでいる。
「どう見ても、もう生きて帰って来られないわね」
ここに来て、男は苦笑した。
「こんな小娘のために」
呆れるくらい笑いが止まらない。
「だけど、あなたくらい、助けてみせる」
深緑色のカーテンは何かを呑み込むために、待っているように見えた。攻撃を仕掛けてこないからだ。
「思い通りにはさせませんよ。もう昔の私じゃない」
男らしからぬだが腰を少し落とし、両脚をがに股で地盤を固める。左手掌で右手首を強く握り、持ち上げて前に突き出した。人差し指を曲げて親指で掛ける。
「行くわよ、茜」
指を弾くと同時に男は緊縛している四肢を解き放って走り出した。光玉は渦巻き状の波動を伴い、カーテンの中央を丸くくり貫いていく。そのトンネル内をネフロは駆け抜けていく。何発も男は行く手を遮るカーテンを撃ち抜く。指に痺れを感じ始めた頃、それまでとは違った空間に飛び出た。
「ここは」
澄んだ青空と野原、大きな大木。木の丘から見える、規則正しく並ぶ夥しいほどの黒い墓標たち。
「……茜」
ネフロは以前出逢った風景に、ある意味戸惑った。
「茜……、まだ引きずっているの」
楓とともに女を救ったと思っていたことが、実は間違いだったのかと自問自答する。
「結局、やっていることは自己満足なだけ」
緊縛よりも重い足を引き摺りながら墓標の間を抜けていく。幾つか通り過ぎた後、立ち止まった。そしてひと息吐く。
「……違う」
ひとつの墓標の前に屈み込み、じっと黒い十字架を見つめた。
「よく造ってあるけど、意思が全く違う」
その一つを土から無造作に引き抜き、遠くへ放り投げる。それは弧を描いて他の墓標に当たって倒れた。
「あの小娘はこんな簡単に割り切ってなんかいなかった。墓標には過去の出来事への後悔と懺悔が全て刻んであった。それは決して倒れない」
ネフロは更に墓標を蹴り突ける。そして再び腰を落とし、構えた。
「本当は、純粋な娘」
弾いた指先から再び大きな衝撃派が飛び出す。墓標と土を抉り取り、空に巻き上げながら進んだ。やがてそれは風景の途中で、不自然な形で跳ね返る。見えない壁に当たったようだった。
「そこね、小娘が閉じ込められているのは」
ネフロは歩き始めて卒倒する。土に顔を埋めて、呟く。
「やっぱり、ただという訳じゃないか」
それは諸星の攻撃だ。恐らく、手足に張られた金色の糸が締め上げ、動けなくしているに違いなかった。口から大量の血液を吐き出し、戦慄く男は腕を持ち上げる。
「ま、まだ、まだ辿り着いていない」
ネフロはスーツのポケットから、手のひらに収まる程の小瓶を取り出した。そしてそれを思いっきり地面に叩きつけて割る。揮発する強烈な香りを胸一杯に吸い込んだ。
黒い大きな壁に構えたネフロの指先に、目映い光が集中していく。塊となっていく光は、指先の太さを越えた。その光の重圧に耐えるようにネフロは歯を食いしばる。両足から血が吹き出した。
「まだ、もう少し、狙いを込めて」
両手からも血液が噴き出し、手足の震えが小刻みになっていく。
危機を察知したかのように、目の前の青い空が変形し始めた。巨大な緑色の目玉が姿を現す。アメーバのように思えた壁は溶け始めていた。飛び出してきた幾つもの触手が、男を取り巻いて絞めあげる。
「これが、最期の切り札」
ネフロの目から血が滴り流れ落ちていた。
「小娘、正気に戻りなさい。そして、生きるのです」
弾かれた指先から大きな光玉が発射された。それは猛烈な勢いで触手を消滅させながら、中心の目玉に向かう。襲いかかる目玉は奇声を上げ続けた。
空間の崩壊に合わせるように、ネフロの姿もその闇の中に飲み込まれていく。男の最後の衝撃波は闇の全てを消滅させた。
「茜、いい娘になりなさい。楓さんともに生き……て……」




