その1
茜を飲み込んだ蠢く黒い固まりは、蠕動様の動きをしながら咀嚼を愉しんでいる。鉄骨に貼り付けられていたネフロが哀れな格好で床にずり落ちた。雑巾のような赤布が、少しだけ息を吹き返す。男の微かに開いた眼球がシバサキと楓の方を向いた。
「シ、シバサキ……、あ、あなた……」
亡霊のような精気の無い口元から、血液を垂れ流しながら呟やいている。
「あ、あの娘は、最後まで、私の首を締め上げることは……」
その眼球の視点は、周囲を掴めるまで定まった。
「……出来ません、でした」
上体をゆっくり起こしながら、口に溜まった血を吐く。竹のような長身さが今はかえって、脆さを感じさせていた。
「私はあのか細い手から、あなたの力を感じた。そして鉄格子に張りつけられている時も」
何かを思い起こすように、目を閉じる。
「シバサキ、あなたは敵でした。あなたが楓さんに危害を加えないように、見張っていました」
鉄格子いるシバサキに向かい、ネフロは睨んだ。幾分体の強張りが緩んでいる。
「楓さんは、最後の希望です」
踏み足の弱さを感じながら、一歩ずつ男が動き出した。
「全くあなたは、人のために力を使い過ぎる。自分自身がボロボロじゃないですか。早く体を回復させて下さい」
途端にシバサキは鉄格子からずり落ちていく。息を切らす男はそのまま床に伏した。
やがてネフロは泡が弾ける異様な水槽を見た後、眉をひそめて楓を直視する。憔悴している女は、両肩を丸くしながら二人に構えている。
白いエナメルの汚れた靴先が、諸星に向かって歩を進めていた。
「楓さん、あの小娘……、茜は、まだ生きています」
ネフロの臭いの発信を読み取った楓は、動きを止めた。茜の意識を探る。だが辺りの臭気が強烈過ぎて辿り着けなかった。
「楓さん、茜を助けて下さい。あなたなら出来る。たとえ、本当の力が解放されても、必ず」
ネフロは諸星に険しい表情で向きあう。
「それに私には、もう時間がありません」
それまで桜子の隣にいた諸星は、もう一度ゆっくりと歩み出した。そして楓の傍までくると下目使いに口元を吊り上げる。
「全く不愉快です、ネフロ。君は僕には勝てないと同度言わせる気ですか」
「手加減は要りませんよ」
ネフロは埃を払ってハンカチを鼻にあてた。
「この勝負、すでに結果は出ています。先程、君を張り付けにした時にプレゼントを仕込んでおきましたよ」
諸星は鋭利な目で突き刺す。何くわぬ顔でネフロが歩きだすと、男は腹部を押さえて笑い出した。
「全く君ごときにこの僕が倒せるはずなど、一パーセントの勝機もありません」
エレベーターの中にいた黒い塊が蠢いて全身を奮い立たせる。癒着せずに溶けて流れていく体の一部が、泡を吹き出すように弾けた。その度に鼻を突く異臭気が立ち昇っている。沈黙して音を発さない紫色の目玉が、何かを待ち望んでいるかのように静かにネフロを見据えた。
「さあ、茜。今度こそネフロを始末なさい」
諸星は指差す。
「あなたの思い通りに、もう茜は動かない」
「面白い。随分と彼女も信頼されたものですね」
諸星がそう言い終わると、突然ネフロが立ち止まる。彼の手足に、極細い金属の糸が纏まり付いていた。動くとその糸は締まり、体に食い込んでいく。
「もっと踊ってごらんなさい、ネフロ。茜の精神が取り込まれて同化していく様を見るのです。そして、茜に呑まれなさい」
ゆっくりと黒い異形物は床に臭気漂う汚物を落としながら、ネフロに近づいていく。やがてそれは目の前に立ちはだかった。激しい臭気の塊は、ネフロの嗅覚を目眩と共に麻痺させる。
それは全く、汚物としか言いようのないものだった。紫と無数の赤い目玉が男に憎悪を見せたまま凝視する。
「全く、醜く、汚らしい」
肉に食い込む金属糸にものともせず、男は手に持っていた黄色のハンカチを落とした。床にそれが触れた瞬間、白煙とともに辺りの砂塵が舞う。ハンカチから匂いが拡散した。放出された煙幕のような白い気体が黒い物体の動きを止める。
「目を醒ましなさい! 茜!」
砂塵に包まれた臭気の塊は苦しみ出した。溶け出す両手で頭を抱える。
「今更、そんな子供だまし」
諸星が操る金糸がネフロを締め付けた。男の手足が不自然に痙攣する。
「幾ら手足を縛られていても、私が出来る事」
静かにネフロは目を閉じた。汚物の中に何かを探し始める。
「やってみるといいでしょう。しかしアクセスしても、あの女の精神世界などに届くはずなどあり得ません。もう茜は異形に食べらているのですから」
諸星は踊り狂う右手を押さえながら、苦笑した。
「諦めて帰ってきた時が君の最後ですよ。まあ、帰ってくる間にここで茜に喰らわれなければね」




