その4
遠い遙か彼方にひとつの光が見えた。呼び寄せられるように吸い込まれる。眩い光の輪をくぐると、見慣れた世界とは違う風景が遠く広がっていた。空を飛行している。桜子から発する『臭気』に引き寄せられてきた。『死に人』の深層意識下だ。
地面には山間地域で田園が広がる。田畑の間に緩やかに小川が流れていた。隣の農道を人間が一人歩いている。髪を結って着物と草履で、明らかに現代の出で立ちではなかった。小枝を軽く振っている。
「他の人がいるなんて。『臭気』など感じなかった」
事態を理解できないまま、楓はその存在の元に降り立った。男の前で緊張して直立する。どう対応していいのか判らず、握った右拳から母指立てて臨戦態勢を取った。だが男の微笑みがそれを打ち消す。ゆっくり男が歩きだすと楓も後ろから付いていく。
「あなたの名は……」
楓は顔を強ばらせて躊躇った。その表情を見て、男は口角を下げて苦笑する。
「これは失礼しました。私は『田山翡翠』と申します」
その着物姿の男は持っていた枝を片手から両手に持ち変え、手元でくるくると回し始めた。
『田山翡翠』
小声で驚く。桜子が甦った土地に300年も埋もれていた、未来を予知できる能力者―。
「そう、確か……」
「『吹雪 楓』です」
男が空を見上げると、広く大きな青空が広がっている。
「もう、それ程経ちましたか」
爽やかなそよ風が二人の間を通り過ぎていく。この風景が、一度この世を去って『死に人』として甦ったものが持っているものとは、とても信じ難い。
「ずっと、感じていました」
男は始終笑顔を浮かべていた。
「あ、あの……」
楓の戸惑いを察したかのように、手を挙げて発言を制止させる。
「私と少し、話をしてくれますか」
緊張と不審の面持ちで楓は頷いた。ここは『死に人』の深層心理下であり、何が起きてもおかしくない。
「私はこの世には存在してない。自分の末路をはっきりと知っていましたから」
未だ笑顔を浮かべたまま、男は楓が飛来した空を見上げた。
「ここは『桂 桜子』という女性の精神世界の中です」
その男は顎に手を当て考え込む。
「なるほど。私がこの一度も来たことがない風景の中にいるのは、彼女の意識下が関係しているのですね」
「あなたは三百年前に亡くなっています」
それを聞くと、男は納得したように深く頷いた。
「あなたの顔を見て思い出しました。私が果たさなければならない使命を。この事態はわかっておりましたが、三百年も経っていたとは」
「使命?」
遠くを見る翡翠はやがてその視線を天空に向ける。
「そう。私はその昔、この世のあらゆる万象事を天から授かり、善くも悪くも民たちに告知してきました」
「予知……能力」
楓は呟いた。
「私はいつも、まやかし者として奇異な目で見られていました。ある時は救い者に、ある時は災い者に……」
風で草が靡いて、足元を擦っていく。
「……そうですよね。超能力って、持たない方がいい」
翡翠は女の方を振り返った。
「ほう、超能力。私とこうやって話をしていること自体、あなたも、その超……、能力ですね。あなたの時代は変わった言葉があるんですね」
男は少し頭を傾げて笑う。
「私の時代では、天界からの声を聞くことは、必ずしも特別な能力を必要としませんでした。皆の耳に常にあります。ただそれを言葉として、言い表せなかったのです」
着物姿の翡翠は再び、澄み渡る青空と空気に満ち溢れる空を見上げた。
「この風景。とても他の人の中にいるとは思えません。まるで私が描いていた故郷の風景です。不思議なものです」
答えを探す楓は翡翠を見つめている。
「あ、あの翡翠さん。あなたは、そんな普通じゃない能力を持っていて、幸せだったのですか」
「私は普通の人間ですよ。あなたと同じです。元来人は皆同じなのです。誰かが特別優れていることなど決してありません。大切なのは自分自身がどう生きて、どう死んでいくのか。自己の存在がどうあるべきなのか、という意志の問題です」
男は立ち止まった。楓の不安そうな瞳を涼しげな切れ目が差す。
「あなたは自分を信じて、信念を持って生きていますか」
女の心臓が高鳴った。
信念を持った生き方など、これまでしてこなかった。いや、出来なかった。この忌まわしい能力があるために。
「でも、あなたも結局最後はその能力のために、死ぬ事になったのでは……」
「それが、私の人生だったのです。死にはしました。だが、悔いは残していません」
真摯な瞳は、確かに後悔など微塵も感じられないほどだ。
「でも……」
「楓さん。私は生涯を通して、ある女性を愛していました。私の人生の中で、その女性以外は何もありません。何を於いても彼女のために、私の存在はあるのだと思っていました」
笑った顔が次第に決意したような、表情に変わっていった。
「私は行動の一挙一動に慎重に対応しました。無駄な動きを極力無くして、行動しようと思いました。それは最終的に彼女の幸福のためにも、意味ある行動であると考えていたからです」
「意味のある行動、ですか……」
理解が及ばない楓は呟く。
人目を避けて逃げてきた生活に、意味などない。
「あなたは、自分の存在に意味を持とうとしていません。誰もが何も意味もなく、生きているはずなどありません。意味のない人生など、本当は存在しないのです」
「存在して、私は生きていて……、いいのでしょうか」
女は俯いて指を絡めた。
「生と死は同じ意味があります。その意味は誰にも決める事などできません。ただ天からは、様々なお告げが届くでしょう」
「天……」
「万物の理です」
「……宇宙」
翡翠は腕を組む。青い空を再び仰いだ。白く薄い月が見える。
「なるほど。空間を現す「宇」。時間、つまり、現在、過去、未来なる「宙」。摂理を説くには、大いなる力を感じます。まさに時空を越えて、やってくる偉大なる天からの声だ」
「ま、まさか……」
諸星が固執するように言っていた言葉を、女は思い出した。
―『アカシック・レコード』―
「あなたは、この世の全ての事を知ることが出来たのですか」
翡翠は苦笑いを浮かべる。
「そういう時もありましたね、生きている時は」
「自分の事や愛していた人たちのことも……、わかっていたんですか」
先程までの笑い顔が消えていった。楓はなおも質問を浴びせ続ける。
「どうしようもなかったんですか。予知が出来るのなら、全てを知っているなら、何故その運命を変えようとしなかたのですか」
興奮気味の口調が響く女を翡翠は見据えた。
「運命というものは一つではありません。いつも刻々と変わっています」
予想もしなかった答えが、手を握り締めた女を惑わせる。
『運命が変っている』
「そう、『命を運ぶ道筋』はひとつではなく、無数に点在しています。それをどう選んで、どう生きるのかです。その瞬間こそが運命なのです。決まっている事など、何ひとつもない。天の声は様々なことがありますが、いつも何も決めていない」
今までの自分の数奇な人生を振り返り、今起っているこの危機を改めて考える。
「あなたが、これまでの中で『後悔』をしていると感じているならば……」
翡翠は満面の笑みを浮かべた。
「それは今までの自分の選び方が、思っていたことと違っていただけです。いや、違っていると思い込んでいるだけなのです。先程も言いました。分岐する道筋は一つだけしか無かった訳ではないはずです。選んだ結果だけを運命と思っているだけなのです」
「まだ変えることが、……いえ、選ぶことが出来るのですか」
穏やかな表情はどこまでも爽やかで、どこまでも澄んで、そして優しい。
「自分で決めること。それこそが運命の選択と申します」
刹那、光が目の前に広がった。
「楓さん、あなたに逢えてよかった」
微笑する翡翠の体に靄がかかっていく。
「翡翠さん。また会えますか?」
その笑みを見届けて、楓はゆっくり瞳を閉じた。
「私はあなたとこうして逢って話すために、選んだのです。死しても蘇り、これを伝えて諭すこと。この世界をどうするかは、あなたの選択です」
楓の背中から大きな力で牽引された。弾かれたようにその場の風景が、遥か彼方に遠ざかって行く。女は伸ばしかけた手を胸に収めた。
「判るはずです。何故ならば、あなたはもっと崇高な摂理を軀に秘めているのですから……」
離れていく楓に手を振っている翡翠は、満足そうにそう呟いた。




