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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第7話 それぞれの意志(前編)
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その4



 遠い遙か彼方にひとつの光が見えた。呼び寄せられるように吸い込まれる。眩い光の輪をくぐると、見慣れた世界とは違う風景が遠く広がっていた。空を飛行している。桜子から発する『臭気』に引き寄せられてきた。『死に人』の深層意識下だ。

 地面には山間地域で田園が広がる。田畑の間に緩やかに小川が流れていた。隣の農道を人間が一人歩いている。髪を結って着物と草履で、明らかに現代の出で立ちではなかった。小枝を軽く振っている。


「他の人がいるなんて。『臭気』など感じなかった」


 事態を理解できないまま、楓はその存在の元に降り立った。男の前で緊張して直立する。どう対応していいのか判らず、握った右拳から母指立てて臨戦態勢を取った。だが男の微笑みがそれを打ち消す。ゆっくり男が歩きだすと楓も後ろから付いていく。


「あなたの名は……」


 楓は顔を強ばらせて躊躇った。その表情を見て、男は口角を下げて苦笑する。


「これは失礼しました。私は『田山翡翠』と申します」


 その着物姿の男は持っていた枝を片手から両手に持ち変え、手元でくるくると回し始めた。


 『田山翡翠』


 小声で驚く。桜子が甦った土地に300年も埋もれていた、未来を予知できる能力者―。


「そう、確か……」


「『吹雪 楓』です」


 男が空を見上げると、広く大きな青空が広がっている。


「もう、それ程経ちましたか」


 爽やかなそよ風が二人の間を通り過ぎていく。この風景が、一度この世を去って『死に人』として甦ったものが持っているものとは、とても信じ難い。


「ずっと、感じていました」


 男は始終笑顔を浮かべていた。


「あ、あの……」


 楓の戸惑いを察したかのように、手を挙げて発言を制止させる。


「私と少し、話をしてくれますか」


 緊張と不審の面持ちで楓は頷いた。ここは『死に人』の深層心理下であり、何が起きてもおかしくない。


「私はこの世には存在してない。自分の末路をはっきりと知っていましたから」


 未だ笑顔を浮かべたまま、男は楓が飛来した空を見上げた。


「ここは『桂 桜子』という女性の精神世界の中です」


 その男は顎に手を当て考え込む。


「なるほど。私がこの一度も来たことがない風景の中にいるのは、彼女の意識下が関係しているのですね」


「あなたは三百年前に亡くなっています」


 それを聞くと、男は納得したように深く頷いた。


「あなたの顔を見て思い出しました。私が果たさなければならない使命を。この事態はわかっておりましたが、三百年も経っていたとは」


「使命?」


 遠くを見る翡翠はやがてその視線を天空に向ける。


「そう。私はその昔、この世のあらゆる万象事を天から授かり、善くも悪くも民たちに告知してきました」


「予知……能力」


 楓は呟いた。


「私はいつも、まやかし者として奇異な目で見られていました。ある時は救い者に、ある時は災い者に……」


 風で草が靡いて、足元を擦っていく。


「……そうですよね。超能力って、持たない方がいい」


 翡翠は女の方を振り返った。


「ほう、超能力。私とこうやって話をしていること自体、あなたも、その超……、能力ですね。あなたの時代は変わった言葉があるんですね」


 男は少し頭を傾げて笑う。


「私の時代では、天界からの声を聞くことは、必ずしも特別な能力を必要としませんでした。皆の耳に常にあります。ただそれを言葉として、言い表せなかったのです」


 着物姿の翡翠は再び、澄み渡る青空と空気に満ち溢れる空を見上げた。


「この風景。とても他の人の中にいるとは思えません。まるで私が描いていた故郷の風景です。不思議なものです」


 答えを探す楓は翡翠を見つめている。


「あ、あの翡翠さん。あなたは、そんな普通じゃない能力を持っていて、幸せだったのですか」


「私は普通の人間ですよ。あなたと同じです。元来人は皆同じなのです。誰かが特別優れていることなど決してありません。大切なのは自分自身がどう生きて、どう死んでいくのか。自己の存在がどうあるべきなのか、という意志の問題です」


 男は立ち止まった。楓の不安そうな瞳を涼しげな切れ目が差す。


「あなたは自分を信じて、信念を持って生きていますか」


 女の心臓が高鳴った。

 信念を持った生き方など、これまでしてこなかった。いや、出来なかった。この忌まわしい能力があるために。


「でも、あなたも結局最後はその能力のために、死ぬ事になったのでは……」


「それが、私の人生だったのです。死にはしました。だが、悔いは残していません」


 真摯な瞳は、確かに後悔など微塵も感じられないほどだ。


「でも……」


「楓さん。私は生涯を通して、ある女性を愛していました。私の人生の中で、その女性以外は何もありません。何を於いても彼女のために、私の存在はあるのだと思っていました」


 笑った顔が次第に決意したような、表情に変わっていった。


「私は行動の一挙一動に慎重に対応しました。無駄な動きを極力無くして、行動しようと思いました。それは最終的に彼女の幸福のためにも、意味ある行動であると考えていたからです」


「意味のある行動、ですか……」


 理解が及ばない楓は呟く。

 人目を避けて逃げてきた生活に、意味などない。


「あなたは、自分の存在に意味を持とうとしていません。誰もが何も意味もなく、生きているはずなどありません。意味のない人生など、本当は存在しないのです」


「存在して、私は生きていて……、いいのでしょうか」


 女は俯いて指を絡めた。


「生と死は同じ意味があります。その意味は誰にも決める事などできません。ただ天からは、様々なお告げが届くでしょう」


「天……」


「万物の理です」


「……宇宙」


 翡翠は腕を組む。青い空を再び仰いだ。白く薄い月が見える。


「なるほど。空間を現す「宇」。時間、つまり、現在、過去、未来なる「宙」。摂理を説くには、大いなる力を感じます。まさに時空を越えて、やってくる偉大なる天からの声だ」


「ま、まさか……」


 諸星が固執するように言っていた言葉を、女は思い出した。




 ―『アカシック・レコード』―




「あなたは、この世の全ての事を知ることが出来たのですか」


 翡翠は苦笑いを浮かべる。


「そういう時もありましたね、生きている時は」


「自分の事や愛していた人たちのことも……、わかっていたんですか」


 先程までの笑い顔が消えていった。楓はなおも質問を浴びせ続ける。


「どうしようもなかったんですか。予知が出来るのなら、全てを知っているなら、何故その運命を変えようとしなかたのですか」


 興奮気味の口調が響く女を翡翠は見据えた。


「運命というものは一つではありません。いつも刻々と変わっています」


 予想もしなかった答えが、手を握り締めた女を惑わせる。



 『運命が変っている』



「そう、『命を運ぶ道筋』はひとつではなく、無数に点在しています。それをどう選んで、どう生きるのかです。その瞬間こそが運命なのです。決まっている事など、何ひとつもない。天の声は様々なことがありますが、いつも何も決めていない」


 今までの自分の数奇な人生を振り返り、今起っているこの危機を改めて考える。


「あなたが、これまでの中で『後悔』をしていると感じているならば……」


 翡翠は満面の笑みを浮かべた。


「それは今までの自分の選び方が、思っていたことと違っていただけです。いや、違っていると思い込んでいるだけなのです。先程も言いました。分岐する道筋は一つだけしか無かった訳ではないはずです。選んだ結果だけを運命と思っているだけなのです」


「まだ変えることが、……いえ、選ぶことが出来るのですか」


 穏やかな表情はどこまでも爽やかで、どこまでも澄んで、そして優しい。


「自分で決めること。それこそが運命の選択と申します」


 刹那、光が目の前に広がった。


「楓さん、あなたに逢えてよかった」


 微笑する翡翠の体に靄がかかっていく。


「翡翠さん。また会えますか?」


 その笑みを見届けて、楓はゆっくり瞳を閉じた。



「私はあなたとこうして逢って話すために、選んだのです。死しても蘇り、これを伝えて諭すこと。この世界をどうするかは、あなたの選択です」


 楓の背中から大きな力で牽引された。弾かれたようにその場の風景が、遥か彼方に遠ざかって行く。女は伸ばしかけた手を胸に収めた。


「判るはずです。何故ならば、あなたはもっと崇高な摂理を軀に秘めているのですから……」


 離れていく楓に手を振っている翡翠は、満足そうにそう呟いた。



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