その3
鉄椅子に座ったままの女の瞳が何かを待っている。黒い雲の間に月が見え隠れしながら、次第に姿を現そうとしていた。
「また、アエタ、……カ、エ、デ、……楓」
朧げだが妖しい黒い瞳は、シバサキの能力をも取り込もうとするようだ。
「楓を、……戻す」
張り付けられたまま頭を振って、力を振り絞って男は楓に向き直った。
「聞くな、楓!」
楓の記憶に、あの研究所で起こった忌まわしい光景が浮かんだ。
「わ、わたしの……、力……」
女は何度も頭を振って狼狽える。戦慄く青ざめる唇はやがて引き吊っていった。
何十もの人の精神を瞬時に奪い操った力。一瞬にして辺りを血の海に変化させた殺戮の能力。
『アクティブ・アクセス』
「い、いや、だめ……」
眼光は衰え、恐怖して女の全身が痙攣する。
「楓!」
シバサキは叫んだ。椅子に座った桜子は、冷ややかに呟く。
「ここに……、封印している」
桜子を凝視する男は発見した。首元に緑光勾玉が光り輝く。
「その、中にか」
頭を掻きむしりながら、女は体を丸くして震えていた。男はあの惨たらしい記憶に恐怖し、呼び戻されることを女が拒否していることを認知する。
「あいつが恐怖している能力を、戻す訳にはいかない」
シバサキは桜子を睨み貼り付けられている躰を捻った。
「やめろ、桜子!」
「封印……を、解く」
不吉で不敵な口元を吊り上げて微笑む。ちぎれた手錠が鈍く、耳障りな奇怪な音を立てた。
「今度こそ、この世の崩壊と破滅になって仕舞う」
眼球を寄せながら、男は呟く。少しだけ月光が当たり『死に人』の黒髪に隠れた白い顔が浮かび上がらせる。
「桜子、おまえは忘れたのか。犠牲になっても、守らなければいけなかったもののことを!」
月の光がゆっくりと室内へ差し込んだ。
「時が……、満ちた」
その集光塔となっていた鉄骨に吸い寄せられていた月光は、女が座っている椅子の金属の塊に吸い取られていく。冷たい椅子が歓喜を起こしているかのように震え、軋みだした。甲高い金属音を鳴らしながら振動している。
「どうしたんだ……」
その狂気の震えは、やがて建物全体に共鳴していった。
「建物が震動している。一体何が起こっているんだ」
シバサキは辺りを見回す。その壁際に体を丸めていた楓は掻きむしっていた手を止めた。女の鼻を鋭い臭いが突く。それは錆びきった金属とは違う、血の色濃く生臭い猛烈な『臭気』を放っていた。
「こ、これ……」
薄く目を開けた先に桜子の椅子がある。茶褐色だった椅子に、鮮明な赤い色が噴き出していた。同時に複数の『臭気』が飛び込んでくる。吐き気が一気に高まった。
「これは一体、どうしたんだ」
男も異常な状態を感じ取って辺りを見渡す。
「大勢いる……。もの凄い数の『臭気』」
楓は嘔吐した。
「一体……」
桜子が座っている椅子のフロアーだけが、ゆっくりと上昇していった。ステージ下部の空間には、硬質ガラスに囲まれた不透明な水槽が見える。
「何だって……」
シバサキは目を疑った。水槽の中には、何かが漂っている。
「ば、馬鹿な、そんな」
水槽の中で海藻の様に、人の髪の毛が揺らめいていた。何人もの手足のない人間が、赤く染まった水槽に浮かんでいる。
「まだ、みんな、生きている……」
楓は抑えきれない恐怖で歯を鳴らして震えた。
「何だと!?」
仰天する男は目を丸くする。
「あの中で、人間が生きているのか!?」
楓の全身の毛が警告を発するように逆立った。
「犠牲になった人間の怒り、絶望や苦しみ、悲痛さを伴った『臭気』が蠢いて充満している」
上腕と下腿から先が寸断されている体が、逃げ場のない水槽の中を藻掻いて出口を探している。
「桜子、おまえ……」
『死に人』は口元を人らしく見せた。
「宴を……、サイカイ」
楓は目眩を起こすほどの強い『臭気』を吸い込む。その刹那、頭頂に杭を打たれたように卒倒した。女は『死に人』の精神世界へ、強制的に引きずり込まれていった。




