その2
冷たいエレベーターの中で赤いスーツのネフロは、ハンカチを取り出して鼻にあてた。
「あなたは相変わらず、とんでもない馬鹿なことばかりしゃべっている」
「ね、ネフロ」
諸星の素性を知っている茜は青ざめた顔をする。
「ああ、君もいたのですね、ネフロ。気配があまりにも薄くて、今まで忘れていましたよ」
「ふん。あなたのおままごとに、これ以上つき合うなんて、ご免」
ハンカチごと手を振って、ネフロは怪訝な顔をした。
「仕方ありませんね」
男は口元を静かに吊り上げ、ゆっくりとエレベーターに近づいていく。同時にネフロも白いエナメルの靴音を鳴らして前に出た。
「ネフロ、気をつけろ!」
金属の摩擦音を鳴らして、格子状の鉄骨が揺れる。天井から降りてきた楓との空間を分断する格子の側で、動けないシバサキは叫んだ。
「もともと楓以外は必要ありません。この場から抹殺しましょう」
冷血な諸星の目が茜に向けられる。
「取りあえず、ネフロと茜。君たちです。桜子、そちらは任せましたよ」
戦慄く女はエレベーターの壁に手足を貼り付けられる。と、茜の前をネフロが覆った。
「相変わらず、酷い人ですね、仮にも一緒だった仲間をこんな風に扱うなんて」
「とんだ言いがかりです。勝手に裏切ったのは、恐れをなした君たちではありませんか」
眉間に少しだけ皺を寄せたその顔のまま、諸星は能力を発動させる。
「あああ!」
ネフロの背中にいた茜が大きな悲鳴をあげた。女の腕が壁から離れてある方向へ動いている。その両手はネフロの頸を鷲掴みにした。
「ネフロ、もがいて哀れに死になさい」
茜のか細い手にこれまでない血管と筋が浮かび、籠る力は男の頸部を絞め上げていく。ネフロは茜の手首を掴んで引き離そうとした。
「こ、小娘……。これが、予知した事、だったのね」
「嫌! やめて、お願い! 止めて、諸星!」
その言葉とは逆に女の手は、まるで屈強な男が乗り移っているかのようにその獲物を離さない。
「裏切り者への当然の報いです」
ネフロの顔から血の気が引いていく。
「さあ、ネフロ。君が助かるには、茜を殺さなければなりません。彼女はもう自分自身をコントロール出来ません」
「ア、『アクティブ・アクセス』……」
「楓ほどの力はありませんが、一人くらいなら何とかなるでしょう」
茜が絶叫している。表情とは逆に力強い腕が爪を立てて、男の細い首を絞めあげていた。
「どうしたのですか、ネフロ。このままでは本当に茜に殺されますよ。まさか君はこの哀れな女に同情しているのですか」
「ネフロ! 私の手を離して!」
茜の腕をもう一度男は掴む。
「小娘、あ、あんた、なん、かに、殺されて、たまるもの、ですか……」
泣きじゃくる茜の腕は、ネフロの首に確実に爪先を食い込ませて絞めあげた。
「だめ、止めて! 止めてよ、諸星!!」
食い縛る男の口から泡が噴き出し、握りしめていた手が力無く下がっていく。
「ネフロ!!!」
女は力の限り叫んだが、床に膝を付いた者からの返答はなかった。
「案外、呆気ないものでしたね」
震える茜の手がようやく解放される。女の目前から膝を付いたままのネフロは、顔面から床に落ちて転がった。
「嘘、でしょ……」
精気を失った目は上を向き、開いた口からは唾液が流延している。あれだけ清潔を保っていた男が、今は汚く哀れな姿となっていた。
「……あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ!!」
唇を震わせ絶叫し、茜は腰を抜かして床に座り込む。
「君はいい経験をしました。立派な能力者はこうであるべきです。威厳高く、自己の信念を貫く。踏み台となる死をしっかりその胸に刻みこみなさい。世を新しくするには、犠牲はつきものです」
腕組みしたまま諸星は満面の笑みを浮かべた。
「こ、殺すことが、威厳なの」
「今まで君は僕と一緒にいて、何を学んできたのですか」
諸星はゆっくり近づいてくる。彼女は恐怖し身を硬直させた。
「君はついこの間まで僕の隣にいたはずです。人が悲鳴を上げながら、哀れに潰れていく様を見ていたじゃないですか。今の台詞は聞いたことがありません。違うとは言わせませんよ」
諸星はネフロを跨いで、座り込んでいる茜の前に立ちはだかる。片手で髪を持ち頭を引き上げた。否が応でも女の顔は諸星に向けられる。睨み付ける茜は抵抗するも、その尖った顎と頬を捉えられた。
「触らないで!」
両手でそれを振り払う。
「ほう。随分と君らしさを失いましたね」
男の右手は今度は茜の首を鷲掴みし、そのまま一気に上体を持ち上げた。
「『吹雪 楓』といたからですか」
女は悶えながら両手で諸星の手を掻き毟る。
「だが君は彼女の正体を知らない。教えてあげたいところですが、君にはもう時間がありません」
小柄な体が次第に浮いていき、最後は足先が床から離れた。
「君には、もう少し能力者としての躾が必要でした」
女の頸部を掴んでいる諸星の右手に血管と筋が浮かび上がる。
「君さえよければ、僕の元に帰って来ても差し支ありません。今度こそ、しっかり調教してあげますよ」
茜は渾身の力で頭を諸星に向け、唾を吐く。それは男の頬に付いて滴り落ちていった。
「もう……、能力者、ごっこ……、なんて、……しない」
少し目を見開いた後、男は微笑する。
「つくづく君は愚かです。そうですね。お別れしましょう」
形相を変えない表情の中に残忍さが浮かんだ。右手掌の異様な膨らみが血管を食い破る。
「ネフロと共に、逝きなさい」
遠のく意識の中で楓の声を聞いた。それが響く室内で、茜の言葉は空を切る。
その時、諸星の両腕の力が緩んだ。背後から羽交い締めに合って動きを制止されていた。茜は床に膝から倒れ込んで転がり、激しく咳込む。
「全く、懲りない男ですね」
更に強く締めあげる。
「こんな小娘ごときに、むきになるなんて……、低俗な男」
茜は見上げた視界の中に、乱れたスーツの男がいることを認知した。
「あなたの、アクティブアクセスなんか、弱すぎて、茜の意志を、コントロール、出来てなかった」
「なるほど、もう少し精進しなくてはいけませんね。君がこんなにも強かったとは意外です。賞賛に値します」
危機感のない淡々とした口調で言い放つ。
「しかし『嗅ぐ』ことだけの男に、これ以上何が出来ますか。君なぞ、脅威ではありません。愚かな行為ですよ、ネフロ」
そう言い終わるとネフロの体は男から離れ、シバサキがいる鉄格子の壁に向かって吹き飛んだ。
「ネフロ!」
未だ体を硬直させているシバサキは叫ぶ。剥き出している鉄骨は絡むように全身を締め上げた。体は動きを失い、口から舌がだらりと垂れる。
「もうやめろ、諸星!!」
歩み寄る形相を見て、再び女は怯えた。その右上肢は不自然に蠢いている。それは男とは無関係に別の意識体が存在していた。
「茜、最後のお願いです。この子たちが歓喜し過ぎて、もう僕の意志ではコントロール出来ないです。だから、君の体をくれませんか」
その隆起した黒い腕から黒い目玉が幾つも浮かぶ。それらは四方八方に眼球動かし、女を物色するように睨みつけた。
「ほら、君も知っているじゃありませんか、この子たち。懐かしいでしょう」
茜は恐怖で顔を引き吊らせて目を見開いた。
「い、いや……。近寄らないで」
逃げようと手をばたつかせるが、行き場のない壁に当たる。
「さあ君の体をこの子たちに食べさせて欲しいのです。最後の僕への償いです」
踊る黒い手は茜の足首を掴んだ。奇怪な声が再び鳴り響く。黒い目玉たちが一斉に蠢き、諸星の腕を食い破って這いずり出てきた。
「茜、君は自分の事は予知できません。この修羅場がわかっていたら、ここに来ましたか。自分の能力をしっかりと呪いなさい」
粘性を帯びたそれは、茜の足に絡んできた。両足で蹴り返すが離れない。
「痛い。あ、足が……、しびれて、動けない」
強烈な感覚麻痺が突き抜け、絡まれている足を動かすことが出来なくなった。黒い液体が下腿から大腿部を覆い、腰を飲み込み上半身へ這い上がってくる。
「た、たす……け、て」
それは瞬く間に胸を隠し、息をつかせず全身全てを飲み込んでいった。




