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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第7話 それぞれの意志(前編)
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その1



 『臭気』が充満する牙城の入口は、エレベーターだった。見回しても階段など無い。また四十階余りある最上まで徒歩で進むことは現実的ではなかった。


「このエレベーターもかなりの臭気を帯びている」


 薄暗い照明のエレベーターは扉を閉じることなく涎を垂らして、確実に四人を呑み込もうと待ち構えている。


「上までは、落ちは、しない」


 皆の顔を見渡し、茜は努めて気丈に振る舞った。




 乗り込んだ冷気を宿す揺りかごは、赤ん坊を乗せているかの如く、何の衝撃音も出さず滑るように昇っていく。空間と不釣り合いなデジタル表示は、何も光ることはなかった。


 そのままそれは静かに息を停める。開く扉の前で四人は身を固めた。そこは最上階近くのようだった。楓とシバサキが先に地を踏む。


「随分と遅い到着でしたね」


 警戒しながら出てきた二人を、諸星は懐かしむかのような表情で出迎えた。


「今夜の主役が集まりました」


 高揚する声の背後に青白い女は椅子に座ったまま身を屈めて震えている。その姿を見た途端、シバサキは戦慄き立ち竦んだ。


「何をしているんだ、諸星」


 突然、繋がれていた鎖が念動力で破壊され、手足が解き放たれる。女の頭が力なく更に垂れ下がった。


「全く、君は。いつも僕の邪魔ばかりをするのですね」


 楓の前へ出ようとするシバサキの体が壁に引き寄せられるかのように、勢いよく後方に弾かれた。背後のネフロに体当たりし、二人もろとも今しがた乗り込んで来たエレベーターの壁に叩きつけられる。


「でも僕の楓を連れてきてくれたことには、感謝しますよ」


 垂れていた桜子の長い黒髪が、その名に反応してゆらりと動いた。


「旧友が、君に会いに来てくれましたよ」


 半ば亡霊としか見えない女の上半身が、不自然な形で起きていく。


「あり得ない、再会ですがね」


 苦笑しながら男は手を挙げて、楓の立っている方向を差した。先ほどまで苦痛で歪んでいた青白い顔と、憂いを満ちた黒い瞳が月光に照らされる。


 背部のネフロに構わず押し退け、咳き込みながらシバサキは再びフロアーに足を踏み出した。


「本当におまえなのか、桜子!」


 その存在を否定する男の言葉は、あってはならない事実そのものだった。辺りが静かになり、答えを待つかのように時が止まる。


「俺はあの時、おまえを楓とともに銃で撃った。俺の能力を合わせて、弾は心臓を貫通したはずだ。確かに俺はおまえと楓を葬った」


 愛する者を自分で死に追いやった拳を、歯を立ててシバサキは握り込む。


「全てが吹き飛んだ後、残った亡骸を俺は……、おまえを……」


 男の記憶の片隅にある、忘れ得ることのない傷が疼いた。再び悪夢が開くのを食い止めるように唇を噛む。


 目の前に佇む冷淡な顔と、細い姿は記憶と同じだ。しかしかつての男の愛すべき者とは、似て非なる人の形が存在していた。


「だが、何故だ。どうして甦った」


 その言葉に女は少しだけ瞳を開く。男の幾ばくの想いをよそに、室内には不穏な空気が張りつめていった。


「やれやれ君は、何ひとつもわかっていません。そんなことを問いかけても無駄なことです。甦ったのは彼女の意志とは無関係なのですから。それにもう、生きていた頃の桜子ではありません」


 女の前に諸星は立ち塞がる。


「だが……」


 言葉を探すシバサキは詰まった。


「それとも、彼女が君のために甦ったとでも言いたのですか。君の勝手な妄想とおぞましきエゴです」


 吹き出す笑いを堪える諸星の顔が不器用に歪む。


「彼女はこの世に、成すべきことのために甦ったのですよ」


「成すべきことだと」


「楓と桜子の二人で遂げられたあの日の出来事は、僕にとって最高でした。まあ、研究所の機能と役割は消滅しましたけどね」


 シバサキは諸星を睨み付ける。


「それで、よかったんだ」


「あの研究の先にもっと重要なことが隠されていたにも関わらずです」


 話しぶりによって変化する諸星の目は、睨む男を通り越し遠くを見つめた。


「あれが起きる前に、研究所に向けた政府の最高機密事項を僕は見つけたんです。日本の、そう、桜子と楓を使った最重要研究をです。君も知っているはずですよ」


 強張るシバサキの顔を見て諸星は笑う。桜子は鉄の椅子からの微動だにしない。


「茜が予知した『死に人』が甦った場所は、『田山翡翠』に関連する謂われのある土地でした。きっと、君は知っていましたね」


 口を真一文字にする男は一層戸惑いの表情を見せた。


「宇宙が誕生してこれまで、百五十億年余。この全ての万物の生と死、運命の記録とでも言いましょうか。そして我々の地球に関係する未来の予見」


 勝ち誇り、満足げな表情を見せる諸星は更に熱弁をふるう。


「運命の記録、未来。そんなものがどこにある。それこそおまえのおぞましい妄想だ」


「あり得ないと、本当にそう思っているのですか」


 まるで子供のように無邪気な乾いた笑いを浴びせ続けた。


「そんなもの無い。人の未来など何一つ、決まってなどいない」


「全く君には、つくづく失望しますね。目の前の現実を何ひとつ理解しようとしない。今からこの世にとって、最も重要な選択が迫っているというのに」


 目を見開いた諸星の口元が、不敵に吊り上がった。


「まあ、この日に君たちがここに来たのは偶然ではありません。全宇宙における摂理の中に、すでに決められていた行動なのです」



 シバサキ以外に睨み返す、もう一つの眼光の鋭さに男は意外なほど驚く。


「力強く、いい瞳です。それくらいの覇気がなければ、楓、君にこれからお願いすることが出来ません」


「諸星、おまえは一体、何を企んでいるんだ」


 シバサキはもう一度問い返した。


「何も企んでなんかいませんよ。僕は研究所が成し得なかった研究の続きを全うするのみです」


 その言葉に周囲が冷たく静かになる。


「望んでいたではないですか。能力者が誰にも媚びることなく、自由に生きていける世界を」


 握った拳を胸に当てて口元を締めた。


「未来を手に入れる能力を有し、僕に忠実に従う世界を新生するのです」


「おまえの考えは馬鹿げている。そんな事が本当に出来ると思っているのか」


 少々呆れたような顔をして、諸星はゆっくりと腕を組んだ。


「出来ないことを研究していたのですか、君の両親たちは。君の言葉は甚だ不愉快です」


 月明かりで、次第に室内の様子が捉えられる。


「あまり怒らせない方が身のためですよ。僕には桜子がいます。そして……」


 建設中の壁のない剥き出しの鉄骨に囲まれた特殊な空間が見えてきた。

 何本もそびえ立つ鉄の塊たちは、天に向かって伸びている。その間から月の明かりが差し込んでいた。隠れるようにして桜子の座っている椅子が一段高くあり、そして黒い天井がある。鉄骨はそこに月光をに集約しているようだった。床の下部にはまだ何かが隠れている。


「君たちが邪魔しなければ、順調に研究が進むと思うのですがね」


 ゆっくりとした足取りで諸星は歩き出した。楓は身構える。


「楓、君はこちらにどうぞ」


 男が黒い右腕を振り上げると、強力な力で体ごと集光する鉄格子まで牽引された。抵抗した女が伸ばした手は空を切る。


「楓!!」


 飛ばされた空間と諸星の背後は、天井まで続く鉄格子で仕切られた。


「大丈夫ですよ。桜子も楓に会いたいでしょう」


 今度はシバサキが吹き飛ぶ。鉄格子に磔になりながらも、自己念動力を発動させて留めていた。


「さすが力は衰えていませんね。まあ、僕には無力な限りですが」


「どうしたいんだ」


「全ては動き出しています。そうそう。君と話をする前にそこのゴミを処理しないといけませんね」



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