その6
「何故、丑三つ時が重要なのか」
建設中ビルの最上階、その剥きだした鉄骨を手で擦りながら男は言った。桜子はその姿を気にも留めず、夜空の美しい月を眺めている。
「子の刻から丑の刻までの約二時間。丑三つと言えばその中でも、午前二時から二時半に掛けての時刻。もっとも夜が更ける『闇の刻』」
見返す男はその女の虚ろな瞳に取り込まれそうになるくらい、月が映っていることを確認した。
「この現世の裂け目から、異形の世界が現れる時刻です」
諸星は右手の袖を巻き上げた。手首から肩まで黒く焼け爛れた様は収まりそうにもない。しかもただ黒いだけではなかった。皮膚が波のように幾つも移動している。
「この子たちもこの時間になると、外へ出たいと、はしゃぎ回わって困るのです」
その物体に向かって男は微笑した。
「闇の刻の三十分の中でも、十五分の不毛の時間が、重要……」
桜子に呼応するかのように、諸星も夜空を見上げる。
「丑三つ時は北東の方角。ここに窓や出入り口を作らないのは、その異形たちを入らせないためでもあります」
黒いものが皮膚の下で這いずり回り、異常に太くなった男の右腕が震えて出していた。
「鬼門は、生まれ変わる、神聖な場所。汚しては、……いけない」
ぽつり、ぽつりと、朴訥に女は呟く。
「そうとも言えますね。だからこそこの最上階に、神聖な場所を設けました。これと君の能力で、丑三つ時の天界の裂け目を捉えることが出来ます」
鋼鉄の椅子一脚が、ステージの上に置かれてある。
「この鉄製の椅子は丁度、鬼門の方角を向いているのです」
男は軽やかにステージの上に登った。そして桜子を手招きする。女は畏れる様子もなく、ゆっくりと近づいた。椅子の肘掛けと前脚には鎖と錠が備わっている。
「どうぞ、座って下さい」
言われるがままに女は鉄の椅子に座った。肘掛けに乗せた手首と前脚の足首が、鎖錠で堅く固定される。女は正面を直視したまま、その行動には何も反応しない。諸星はほくそ笑む。
「少々手荒なまねですが、我慢して下さい」
男の黒い右腕が女の肩を掴むと、波打つ皮膚下から幾つもの突起が玉のように膨らんだ。奇音を発すると皮膚を食い破り、大きな目玉がぎょろりと女を睨む。目玉たちが互いに共鳴し合うと桜子の体は激しく痙攣した。手首と足首を固定されているために、それらを残した胴体が椅子から宙に上下している。鎖と椅子の摩擦音が何度も響いた。やがて手足からは血が流れ出す。桜子は口から唾液を流延し、目は白目を向きかけていた。
「嗚呼、なんて美しい……」
その狂った異様な光景に、諸星は魅了されている。男の黒い右腕が激しく奮った。
「この子たちも、嬉しがっていますよ」
建築中の剥き出した鉄骨の隙間から、月の明かりが差しこむ。月光は桜子の椅子を目掛けて、照射した。反った身体は女の白目が元に戻ると同時に、ゆっくりと元の通りに椅子に落ちていく。桜子の瞳は黒ダイヤの瞳から、澄んだ赤褐色に光っていた。
「さあ、君の能力を見せて下さい」
椅子の上の桜子は落ち着いたかのように見えたが、握り込んだ拳はまだ小刻みに震えている。
「……ア、ア、ア」
雲の間から垣間見える空が朱色に変色していた。
「桜子、どうしましたか。君の力はこんなものでは無いはずです」
歯を食いしばる女の長い黒髪が、逆立ち波打つ。錠が鋭い力に牽引されるように張力を増し、摩擦による金属音が奇音を上げた。やがてその間から更に血液が吹き出す。諸星はそのひと筋を人指し指ですくい上げ、舌で舐めた。
「これは、あの時流した血と、同じですか」
男は鷲掴みにした黒髪を引き上げる。
「楓を呼びなさい。時は満ちて来ました」
顔を天空へ向けた女は、言葉にならない奇怪な音を発する。
その声は朱色に染まった天空を次第に闇で隠し、陰鬱な夜を舞い降りさせていった。
第7話に続く




