その4
薄く黒い霧がかかった高校のグランドにいた。辺りは誰も居ない。ただ今さっきまで、ここに多くの学生が部活をしていたような痕跡があった。野球のバットやミット、転がる硬球、ゴール前のサッカーボール、水分補給のためのペットボトルやクーラーボックスなどだ。
楓は臭気の根源を探索しようと一歩踏み出す。刹那、すぐ耳のそばでポーンと音が鳴った。振り返ると、グランド奥のテニスコート黄色のボールが弾んでいる。何かが動いていた。楓は身構える。
「ネフロのように誘ってる」
コートの中央に誰かが立っていた。そこへスポットライトのような光が差している。楓は注ぐ光の元を目で追った。学校の隣のマンションからそれは発光している。そこに向けて、楓は跳躍した。大きな弧を描いてベランダに達する。
砂埃にまみれた一面に、幾つかの観葉植物が枯れて鉢が転がっていた。物干しには皺になったまま乾き過ぎた洗濯物が、微かな風に揺らしている。楓は窓ガラスに近寄り、破れたカーテンの隙から静かに中を覗く。しかし気配を感じなかった。他を見回すと別の窓からカーテンがはみ出し揺れている。その隙間から黒い筒が飛び出ていた。
「望遠鏡。あのレンズが光っていた?」
ベランダからはテニスコートが見え、その中央に人が立っている。さっき見た光景の様だが、少し違っていた。楓は望遠鏡の先を注意深く辿って確認する。
「やはり、あの娘を」
望遠鏡が出ている窓枠に手を掛け、静かに開けた。頭だけを隙間から入れ、警戒しながら辺りを見渡す。その部屋には何もいなかった。大型液晶画面の映像を見た途端、楓は硬直する。
「芋虫……」
映像の芋虫は奇妙な蠢きを見せ、まるで楓を監視しているかのように口元を動かし、テレビから凝視している。ゆっくり窓を開け、音を鳴らさないように部屋に進入した。廊下に出ると、最も『臭気』が強い場所へ移動する。廊下の突き当たりあるその部屋のドアノブに、手を掛けようとした時だった。
『臭う』
異常な強い『臭気』が楓の鼻を突く。鼻を押さえ、ドアを開けた。瞬間、彼女の動きが再び止まる。
「蜂」
蜂の大群が部屋を埋め尽くし、顎を大きく鳴らして威嚇していた。その中心に人間大のスズメ蜂がいる。従える無数の複眼は、楓を見据えていた。
「これは幻影。男の作り出した、あり得ない世界」
楓が部屋に一歩踏み入ると、その行動に敵意を表すかのようにそれらの羽音が一斉に高鳴る。彼女は右中指を曲げ、親指に掛けた。
「ネフロという男がやれるのなら、私にも出来るはず」
蜂の大群に向け中指に意識を集中する。
「ヤ、メ、ロ」
中央の大きな黒い副節を持つ蜂が、声に似た音を発した。楓は更に肘を伸ばして右腕を突き出し、手首を左手で掴んで構える。標準が定まらない震える中指の爪先が、血液を遮断し白くなっていく。
次第に気の流れが変化し、指先に空間の歪み始めた。歪みは光りを放ちながら煌めき、部屋全体に発光していく。指先の空間が均衡を保てず、ひび割れて崩壊していた。歪みはさらには大きくなり、中心に渦巻き状の回転を持つ。
「ヤ、メ、ロ!!」
部屋に響く疳高い声が楓の聴覚を潰し、一斉に大小の蜂が巨大な波のように襲いかかった。だがその衛兵たちは目標に達することなく、空間の歪みに潰されていく。眼前の様子に驚愕する楓は咄嗟に指を弾いた。真っ直ぐに伸びた中指の爪先から勢いある光が空間を呑み込みながら、渦巻く衝撃波となって放たれる。楓の体は余りの勢いに負けて、背後の扉を壊し吹っ飛んだ。
放たれた衝撃波は残りの大群を消し、大きな蜂の中心部を貫く。その勢いを保ったまま、マンションの壁ごと破壊した。高校のグランドを目指し、テニスコートに一人佇む女子高校生の前に突き刺さる。割れた地面を盛り上げ、その少女はいとも簡単に跳ね飛ばされた。
砂埃の中、激しく咳込む。足元をふらつかせながら立ち上がると、体はいつの間にかグランドに移動していた。
「強い力」
目前の盛り上がったテニスコートが剥がれた中に、力無く大蜂は落ちていた。腹節に丸く穴を開けた蜂は、口から泡のようなものを垂れ流したまま動かない。
やがて繋ぎ合っていた主を失った集合体のように、細切れに崩れ落ち溶けていった。強靭な顎から頭部が裂け、中からバスケットボールのようなものが転がり出てくる。
楓は思わず声を上げた。そして、先ほどテニスコートの上にいた女子学生を探す。彼女は剥がれたコートの下敷きになっていた。足だけが見え、瓦礫になったコートの側から血が流れ出し滲んでいる。恐る恐る楓は、それを払いのけた。その胴体には頭部がない。
「あの大蜂の頭部から出てきたのは、この娘の頭……」
腹節と同じように溶け落ちていく彼女の頭部は、やがて最後に手掌大の黒い玉となって残った。
「これは」
玉が割れて鋭い臭気が立ち登り、その中から黒い目玉が飛び出し睨み付ける。周囲が真っ暗になった。足元が揺らぎ体が浮く。静けさが訪れ、何事も存在しない無の空間になる。
遠くに人間らしきものが浮遊していた。それはゆっくりと近づいてくる。身構える楓は目を凝らして、それを凝視した。
『僕にとって君は必要な女性だ。迎えに行くよ』
あのバスの運転手と同じ声質のものが頭に響いたと同時に、楓の肩に鋭く痛みが突き刺さる。激痛が走った。