その3
陶酔する男は背後の人影に気づく。水槽に頬をつけたそのままの姿勢で呟いた。
「……桜子」
異常に蒸す鉄に囲まれた室内の入り口から、女は冷ややかに睨み付けるように佇んでいる。諸星は一旦目を伏せてから、頬を名残惜しそうに離した。
「僕はあの時……。そうです、君が決死の覚悟で楓と闘った時、とても美しい光景だと感じました」
言葉を発さない女は眼前の水槽を見据えて、男の側にゆっくりと歩き出す。
「二人の超能力が激突・融合し、巨大なサイ・エネルギー帯の磁場を作った。それは天空に風穴を開け、そしてこの世のものではない黒い異形のものを産み落としました」
恍惚とした声が、憂いに満ちて震えていた。
「あの日、あの時の二人が、この世を揺るがすだけの全ての条件を揃えていたのです」
女の指尖が小刻みに震えている。体が覚えている過去だ。
「あれは未来。再び開け放つには君たちが必要です。二人の能力が鍵なのです」
桜子に向き直る男は、更に口元を呂り上がらせる。
「君が蘇った理由はこのためなのです」
黒く長い髪の艶が、男を必要以上に刺激した。
「前にも言ったかも知れませんが、君が埋葬されていた場所は『田山翡翠』という有能な予言者の骨が埋没されたという、伝記のある場所でした」
全てがもどかしい程の時間を掛けて、その言葉は続いていく。
「翡翠は、この世の生きとし生けるものの生涯、全ての過去や未来を大宇宙からメッセージとして受け取ることが出来たと言います。すなわちそれは……」
ーアカシック、……レコードー
口元を吊り上げていた諸星は、少し唇を止めて振り返った。女が応えたことが意外だったのだ。
ーこの宇宙万物、全ての出来事の記録ー
「選ばれし大予言者たちは、そのメッセージをあらゆる形で受け取っていました。その光景は凡人には異様だったでしょうね。天からの声という可愛いいものでも無かったでしょうから。時には鞭のように全身に、時には肉親が犠牲に、時には国の崩壊とともに、そしては世界の滅亡の時に」
高揚する男の声はついに室内に響き渡っていく。
「止めどもなく流れてくるサインを受け取ることは、生きている意味を無くしてしまうものですからね。死さえ自分でコントロールできない。これまでに崇められる先人たちは、良くも悪くも犠牲者だったかも知れません」
女は水槽に漂う物体を見つめる。この世のものでは無い。
「翡翠は身に覚えのない罪で死罪になったそうです。その罪文に、一切の抵抗をしなかった。未来を見通したからこそ、その運命を受け入れたのだと思います」
満足気な表情を浮かべる諸星は、女と相反するように笑いさえ軽やかだった。
「シバサキがあの地に君を葬ったのは偶然ではありません。翡翠が蘇るためには君が必要だったのです。強力な能力者であり、強い精神の持ち主たる君が」
冷たい空気が、室内を一層冷やしていく。
「三百年後に君に宿ることを翡翠は知っていた。だからこそ屈辱的な死罪を受け入れ、この時を待っていたのです」
諸星の興奮は遂に最高に達した。
「過去を遡れば、君が楓との戦いで絶命することも決まっていたと言えます。あのシバサキからの銃弾を受けることもね。君が死ななければ、翡翠は蘇ることが出来なかったのでしょう。だから楓が気が狂うことも必然でした。彼女が能力に目覚めなければ、翡翠の復活はあり得なかったのです。翡翠は全て知っていた。宇宙からのメッセージを感じ取り、三百年後の未来を見通していたのです」
「愚か……」
女は強い口調を露わにする。その感情の起伏に諸星はようやく我に返った。桜子の瞳に憎悪が宿っている。
「君はこの世の未来を、全てを知りたいと思いませんか」
直後に男は頭を振って苦笑した。
「一度死んでいる君に、未来など存在しない。……いや、し得ないか。地獄から再生したのだから。行くも戻るも、所詮そこしかありませんね。これから起こることの全てを知り得て、僕にしかできない理想の世界を創りたいのです。そのためには……」
突然、諸星は右腕を押さえた。
意思とは全く違う物が皮膚の下で蠢き波打つ。右眼が白濁し、今までとは全く違う鈍い表情に変化して口を歪ませた。
「この子たちは知っています。世の終末を」
右腕は押さえつけていた左手を撥ね退ける。それでも女は瞬きせず、踊る腕を見つめていた。諸星の半分の大きさまでに膨れ上がった黒い腕が蠢いている。
「楓と共に再び風穴を開け、世界を変えて欲しいのです」
目が異常なほど吊り上がり、嫌悪で浮かんだ表情がその言葉を拒絶していた。首に掛かる緑色勾玉を強く握り締める。
「君には申し訳ありませんが、僕には楓も必要です」
黒い腕は床を叩き、懇願するような言葉を男が発した。
「ここから先には進めません。心からお願いします」
皮膚と同化した無数の黒い目玉が女を挑戦的に睨み付けた。
「君が翡翠と相通づる事が出来なくても、楓は必ず彼の『臭気』を感じ取ることができます。二人が会話出来れば『アカシック・レコード』を知り得ます。さすれば、未来は僕らに味方します」
凝視する目玉たちは、今にも飛びかかって来そうな勢いだ。女は人差し指をその一つに向けると、その目玉は威嚇する。
その瞳はどこか冷淡だった。黒い目玉が女の人差し指に向かって飛び出す。身動きしないその指に目玉は喰いついた。
「全く、愚か」
鋭い炎は黒い目玉を包み込み、焼き焦がして消滅させる。やがて灰が臭気とともに空気中に漂っていった。他の目玉たちが揃って歓喜に似た奇怪な鳴き声を出す。その反響の中、何物かが動いた。




