その4
「ヨミガエ、ル……」
揺れる車内の助手席で、何度も同じ言葉を繰り返している。
「ナン、ノ、タメ……」
絡めた細い指を女はただ何となく見つめていた。
「随分、引っかかっていますね。あの警察官の言葉」
少し不機嫌になった男の眉が吊り上がる。
「君は僕について来るだけでいいのです。君の主は、この僕です」
少々乱暴に男は言葉を吐いた。正面を向いたまま『死に人』は呟くのをやめる。急に車内は静まり返った。異常なほどの暗闇がライトに照らされては、通り過ぎていく。
「僕は君に『死に人』だと言いました。これまで幻のような『死に人』は、知っています」
車は赤信号で停車した。諸星は女の手を取り、握り締める。瞬間強張りがあったが、すぐに力を抜く。その握ったままの手を、男は自分の頬に触れさせた。
「だが、『死に人』は実体などありません」
信号は青になっていたが、車は発車しない。
「君の脈打つ鼓動を、僕は感じるのです」
「コ、ド、ウ」
「そうです。胸から鳴る音を聞いて下さい。君は確かに『生きています』」
女は瞳を閉じる。
音が鳴った。またひとつ。規則正しい音のリズムが、体の中の隅々まで音楽を奏でている。
「イキ、テ、イル……」
「そうです。生きているのです。君が蘇った理由は、生きなければならない、意味があるからです」
満足気に男は細く微笑んだ。
「そう。君は新たな時代の『礎』となるために甦ったのです。でなければ、意味がありません」
女は一瞬だけ、黒いダイヤの瞳を諸星に向ける。
「完全なる世界への扉を開けて下さい。君にはこの世界を滅ぼして欲しいのです」
「……ホロ、ボ、ス」
思わず男は大笑いした。
「君を目の前にしては、どんなことを言っても嘘にはなりません」
車内の空気が一変する。
「僕はこの世界を、きっと変えてみせます。そのための道具は揃いました」
右腕が膨らみ僅かに震えた。
突然、大きな音とともに後部トランクに衝撃が加わった。運転席に一人の男が現れ、スパナでドアガラスを割る。前方のトラックが後進して、ボンネットに突き刺ささった。割れた破片が、諸星の顔に飛び散り、エアバッグの衝撃が来る。窓の隙間から催涙スプレーが顔に浴びせられた。バールでドアがこじ開けられて、諸星は引きずり出される。念動力でその一人を吹き飛ばす。しかし催涙スプレーと照明が顔に当たり、視界が確保できず周囲の状況がわからない。
『死に人』に集中する余り、付近の警戒を怠ってしまった。
「お邪魔ですかぁ~。この道、結構物騒なんで、俺ら、巡回パトロールしてんスよ」
堅いパイプのようなもので、諸星は何度か殴られた。息が詰まり、腹部を押さえて道路にのたうち回る。手に触れた人間を再び能力でねじ曲げた。何人いるのかがわからない。念動力で全てを蹴散らすことは出来るだろう。だが『死に人』を巻き込んでしまう恐れがあった。全体を把握しないと反撃出来ない。
「こいつ、ヤベえ武器使ってんぞ! やっちゃえ!」
「この女! すげー、いいぞ!」
助手席のドアが開けられ、黒髪の女を三人の男達が拘束した。
「お姉さん、俺らとこれから遊ぼうよ」
「……ア、ソブ」
「そうそう、遊んじゃおうよ。あんな変な奴放っといてさ」
女は出来事に理解対応出来ない。少しだけ見開く黒い瞳に、その輩たちを写し出すだけだ。
「やめなさい! 彼女に触れてはいけません!」
『死に人』はまだ能力を使える程、生長していない。
顔の近くに人の気配を感じた瞬間、頭に鈍いものが当たる。念動力でその方向に圧力を掛けると、車輌の弾ける音と人の悲鳴が聞こえた。まだ複数の人間が束になっている。潤む視界の中、未だどれが『死に人』なのか判別出来ない。
暴漢程度に襲われて身動きが取れないなんて、全く未熟でとんだ失態だ。これで世界を変えることなど出来るのか。頼みの闇黒の右手も躍らず、役に立っていない。無力だ。
一体自分の使命は何処に存在するのか。
「お前、何だよ。うっせーよ、ばーか!」
怒号の後、強い衝撃が脚と頭部に加わり、そのまま意識が遠退き動けなくなった。
やはり理不尽な世界には、鉄槌を下さなくてはいけない。




