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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第5話 生ける屍(後編)
32/63

その3


「君と会えたのなら、ここには用がありません。外が騒がしくなってきました。もう、行きましょうか」


 持ってきたボストンバッグを開き服を取り出す。


「『死に人』がどんな、男か女か、背格好など判りませんでしたが、持ってきた物は正解でした」


 中から女性の冬物服を取り出した。


「我ながら変な気分でしたよ。こんな物を揃えておくなんて。もし、持ち物検査なんてものがあったら不審者と疑われてしまう。それかカミングアウトするしかないですね」


 と冗談を言ったが当然、女の反応は無い。これには言った本人も後悔した。


「まあ、外は寒いのでこれを着て出ましょう」


 暫く後、少し目を見開いて女は頭を持ち上げた。


 幾つかの大きな足音が幾つも階下から聞こえてくる。その音は深夜にしても騒がしい。


「し、失礼する!」


 諸星が返事をする先に、山木警察官が扉を開けて入り込んできた。


「いったい何事ですか。騒がしいのですね。他のお客さんにご迷惑ですよ」


 勿論、他の客などいないことはわかっている。黒いコートを羽織って身支度しながら、苦笑して諸星は皮肉って言った。


「ここに不審な人物がいるとのことで、通報を受けました」


「さて、不審な人物ですか。それは奥にいる女性ですか」


 ボストンバックのチャックを閉めながら男は目配せする。山木は奥の籐の椅子に腰掛けている女に目を見張った。


「お巡りさん、そこの人ですよ! 腰掛けている人! 幽霊です。死んでる!」


 先程、慌てて出ていった女中が指を差して叫ぶ。『死んでいる』という言葉と今日あるものと遭遇した恐怖も加わり、思わず山木は腰に手を当てて身構えた。


「死んでるなんて、失礼ですね。よく見てください。ちゃんと足は付いていますし、彼女無口だから、冷たい表情に見えるだけです」


 諸星は女を手招きした。


「彼女は僕の助手です。先ほど遅れてきたのですよ」


 ゆらりと立ち上がり、黒髪を揺らしながら女は歩き出す。その様は酷くぎこちなく、立位バランスが取れていなかった。


「ひっ!」


 女中はまたしても仰け反る。その背後にいた同僚たちも煽りを喰らって、一緒にひっくり返った。


「これのどこが死人などと。人を馬鹿にするのもいい加減にして下さい」


「た、確かに、人間……」


 目を丸くした山木はその強張った顔のまま動けないでいる。


「お巡りさん。真面目に言っていたら、名誉毀損で事を荒立てします」


「い、いや、決して、そう思って言っているのでは、ありません」


 言葉を濁しながら、山木はただ女を見つめるしかなかった。


 あの林で転んだ時、あの土に埋められていた人間らしき頭部とのことを男は思い出す。

 

 月明かりに照らされた時、眼球を宿した瞬間の顔を忘れてはいない。それはこの顔、あの眼……。


「いや、いや、いや。そんな、そんなはずはない」


 夢か現実か、馬鹿な妄想を取り崩すように、山木は頭を大きく振った。


 女が静かに近寄ると警察官の顔に冷汗が滴り落ち、背筋が凍り付いたように全身の動きが止まる。



「なんだお巡りさん、この人知ってるのかね。こんな美人、この辺じゃ見たこと無いよ。あんたも隅に置けないな」


 背中を大きな平手が襲った。あの変なことを言い出した老人が、何故か野次馬に混ざっている。反動で一歩前に出た瞬間、女の顔が眼前に近づいた。


 埋れていた、あの顔か!?


「ち、ちがう……、あり得ない」


 頭を振る山木は数歩下がると両脚が震えだし、警察官らしからぬ形相をして腰が砕けて床にへたり込む。


「そんな、そんな、馬鹿なことって……」


 女は未だその場に沈黙して起立したままでいた。諸星はその隣に並び出る。


「お巡りさん、東京での急用を思い出しまして、これからすぐに帰ります」


「あんた、これから東京なんて明け方になっちまうよ。今夜はやめにしたらどうだい。この人も今来たんだろう」


 老人は代わりに返事する。


「お気遣いありがとうございます。しかしとても重要なことなのです。まあ、ゆくゆくは皆さんにも関係してくることなのですが」


 山木ひとりだけを除いて、周囲の者はきょとんとした顔となった。


「それでは急ぎますので、失礼いたします」


 諸星はボストンバックと銀色のトランクを持ち上げて部屋を出ていく。その後に女も続いて小刻みで不安定な歩容を始めた。


「あっ、あんた!」


 這い出して山木は、思わず声を上げる。


「い、生き還ったのか」


 振り返った女は、黒ダイヤのように美しくも艶のある冷ややかな瞳を男に向けた。


「何のために、生き還った」


 廊下で座り込んで震える山木は、戦慄きながら呟く。


 立ち止まったままの女は眉を潜めた。諸星は腕を掴み取り、無理に引き寄せて歩を進ませる。


「何ため? 僕のためですよ」


 諸星は小さい声で発して口角を吊り上げた。


「そして、君には僕が必要です」


 だが女の怪訝な顔は、山木の言った言葉を繰り返す。


「ナンノ、タメ……」


 月が再び暗雲に隠れ始めた頃、二人はその地から静かに立ち去っていった。



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