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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第1話 存在意義
3/63

その3


 『臭う』


 市営バスの先頭座席で楓は、またしても只ならぬ『臭気』を感じた。彼女は真っ先に、ネフロの存在を確かめる。だが鼻を突くあの香水とは、全く別のものだった。


 意識を集中させようとした時、男とも女とも言えぬ悲鳴が車内で上がる。他の乗客も驚き、誰もがその声に反応した。


『一番後ろの座席』


 楓は集中することを止めて、後部座席に向けて振り返る。そこに座っている小太りの男は、大きなリュックサックから透明なビニール袋を取り出していた。大袋に茶色の玉、鈍い羽音が幾つも鳴っている。


「は、蜂! この人、蜂を袋に詰めている!」


 バスの中がざわめく。立ち上がった男はビニール袋を高々と持ち上げた。黄色と黒のコントラスト。親指大の蜂の大群が、その袋の中にいた。


「お、おい、それ、スズメ蜂だろ! あんた、何持って来てんだよ!!」


 隣に座っていた高校生の男子が絶叫すると、バスの中の乗客は一斉に男から遠ざかる。しかし、このバスの中は満員で、居場所は限られていた。


「ゆ、ゆみちゃんが……、悪いんだ。ぼ、ボクのことを、ボクの……」


 呟く男に一番近い高校生は恐怖のあまり、顔が歪みすぎている。袋を持ち上げている男の顔面は脂汗が滴り落ちているにも関わらず、瞳の奥は一点の空を見つめていた。周囲は視界に入らず、別世界にいるかのようだ。

 手に持つ袋の中の物体を学生が見て、目を見開いて再び絶叫した。


「スズメ蜂の巣?!」


 それは大きくまるで人間の頭部を思わせている。女王蜂の茶色い卵を護るべく、強靭な顎で木々を砕き成形した美しい縞の文様球体が、そこに存在していた。袋の中の衛兵は自己の役目を全うするために、強靱な顎を鳴らし、袋を喰い破らんかの如く威嚇している。


 突然男が立ち上がると、乗客が恐怖で叫んだ。車内が騒然となる。


「お客さん! 危険ですから、動いているバスの中で移動しないで下さい!」


「運転手さん、バスを止めて下さい! 一番後ろの人、車内に蜂の巣持ちこんでいるんです!」


 運転手背後の乗客が、状況を伝えた。


「と、止めてくれ、バス止めてぇぇ!」


 高校生は振り上げられている袋の側で、悲鳴に近い言葉を発する。バスの中は騒然となり、逃げ惑う乗客が将棋倒しになった。



『臭う』



「ご、ごめん……。と、止められない。もう、止められないんだ」


 男はポツリと呟く。


「ボクと……、ゆみちゃんは。あの愛くるしい笑顔は……。ボクだけの」


 押し倒しになった乗客が絶叫した。男の手が失調症の様に、大きく震え出している。


「お客さ……」


 前方に突然、衝撃が走った。楓は座席から投げ出される。

 バスは信号無視で右折してきた車と接触したのだ。急ブレーキが間に合わず、側面に衝突した車によって車道の左側ヘ寄らざるを得なかった。だがバスは前方の車を避けようとガードレールを突き破り、遂に歩道に乗り上げた。


「いったい、何が」


 頭を振って楓は運転手を見た。彼はハンドルとシート間で、口を開けてぐったりとしている。


「運転手さん、大丈夫ですか!」


 肩に手を掛けた瞬間、楓に電撃のようなもの走った。額と口から血液を流し、白目を剥いている運転手は上体を起こして、ゆらりと彼女のほうを向く。



『キ、ミ、ハ……、キ、ケ、ン、ナ、……ソ、ン、ザ、イ、ダ』



 運転手が発した言葉ではない。頭の中に直接、響いてきたからだ。

 再びがくりと運転手は力が抜け、ステアリングに頭を突いて、クラクションを鳴り響かせる。

 楓はそれが何を意味することなのか、わからなかった。だが今は悠長にしている暇はない。女は意識を集中し、後部席の男に向けた。負傷、逃げ惑う乗客の恐怖と戦慄の臭気を抜け、なおも袋を離さないでいる男の異常な『臭気』に達する。

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