その7
弾幕の中、楓は直立している。放たれたはずの銃弾はどれひとつも当たっていなかった。獣の血に染まった口角が吊り上がり、不敵な笑みを浮かべている。足元に赤色に染まった白衣の研究者たちが倒れていた。護衛兵の一人が唸り声を上げ、口から血を吐く。
……そ、そんな。まさか……。
囲んでいた護衛兵は血飛沫を上げながら次々と倒れた。彼らは自分の胸に銃口を向け、引き金を引いている。
「これだけの数の人間の精神に、瞬時にアクセスしたというの……」
対峙する黒髪の女の口が震えていた。
「アクティブアクセス! 人の深層下精神へアクセスして自分の思うままに操る。素晴らしい! 実に素晴らしい能力です。彼女はこの地球上において、最強の兵器となることが出来る!」
諸星は大きく手を振り上げ、驚喜乱舞した。
目の当たりに記憶を辿る楓は声が発せない。自分の血塗られた過去に戦慄し、立ち竦んでいた。
ひとつ銃声が鳴り響く。諸星の頬を掠めて、銃弾は楓に当たった。狂った野獣は吹き飛ぶ。
左脇腹の大きな傷痕を楓は擦る。身に覚えの無い傷だった。
この傷はこの時に……。
「ば、ばかな……」
振り返った諸星は装甲車のライトに手を翳して、天井の男を確認する。
「シバサキ!」
「諸星、こいつは生かしておいてはいけない存在だ」
車から飛び降り、諸星に銃口を向けた。
「なんてことを!」
忌々しい顔をして睨みつける。
「君という奴は……」
「ついでに諸星。おまえもこの世からいなくなった方がいい」
銃鉄を起こし、引き金に指を掛けた。
「その人を殺さないで!」
「桜子」
桜子。
隠れるように見ている楓は呟いた。先程口を突いて出ようとしていた言葉は、これだったのだ。楓の頭の中に初めて女の記憶が映し出される。
―念焼力。
あらゆる物質と空間を炎という意識体に変え、跡形もなく灰にする能力。
『桂 桜子』。
「だめだ。こんな奴、生かしておくと世界がろくな事にならない」
「や、やめて下さい、シバサキ。お願いです、殺さないでほしい。き、君と僕は、な、仲間じゃないですか」
額に銃口の照準マーカーを当てられたまま、後退りして諸星は命乞いした。だが、シバサキはゆっくりと引き金に掛かる指に力を込める。
「研究所は吹き飛んだ。どっちにしても実験は失敗だ。お前の信じる思い通り世界なんて来ない」
「やめて!」
桜子は叫んだ。
突然、銃口を向ける男の心臓が、大きな鼓動を鳴らした。
「……なん、だと!?」
銃を持つ手が、ゆっくりと諸星の額から離れていく。シバサキはその手を反対の手で押さえ込んだ。だがその方向は変わらない。やがてその銃口は自分の胸に向いていった。
「まだ、生きているのか!」
靄の中から人影が揺れる。獣の目は一層吊り上がっていた。口元は血に染まった歯茎を見せ、牙を剥いている。威嚇する姿勢で一歩、また一歩近づいていた。
「楓、もう、やめるのよ!」
桜子は獣の周りに火の手を上げ、行く手を阻む。
「桜子、逃げろ! 楓に構うな! あいつはもう、人間じゃない!」
シバサキは両手で銃を押さえて叫ぶ。獣の口が動いていた。何かを唱えているようにも見える。
「人間じゃないのなら、私が殺してあげる」
眉間に意識を集中させ、桜子は腰を低くして構えた。
女が右人差し指を空に向かって伸ばすと、褐色の閃光が延びた。呼応するように獣からも紫色の閃光が飛び出す。やがてそれは絡み合いながら結びつき、矢となって天を突き刺して穴を開けた。その穴を中心にひび割れが、四方ハ方に拡大し空中が裂けていく。
その穴から漏れ出すように黒い汚泥状のものが、滴り落ちてきた。落ちた黒いものの中に赤い目玉が幾つも動き回っている。
「馬鹿な、そんな事があるのか。あいつは桜子の力と合わせて、空に異次元への裂け目を入れたのか!」
依然姿勢を変えられないシバサキは、ことの成り行きを見ているしかなかった。
「た、助けてくれ!」
シバサキの銃口の先から逃げ出した男が、這いながら叫ぶ。
落ちた黒い塊は飢えを満たすかのように男の周りに群がり、そして蠢きながら飲み込んでいった。ふいにシバサキの体が軽くなり、両手の力が自由になる。
「楓の意識が桜子に向いているせいで、俺のコントロールは薄れたか」
振り被って銃口を向けた。だがその場所には、獣の姿はない。
叫び声とともに空から桜子が落ちてきた。転がりながらシバサキは抱き止める。額から血を流す彼女の目は恐怖していた。
「あ、あの娘は……」
「楓! どこだ!」
背後で大きな音が鳴る。装甲車のボンネットの上に、楓は直立していた。
「おまえ、桜子に何をした!」
向かってくる楓にシバサキは銃を差し向けた。
「やめろ、楓!」
銃声が鳴る。だがアクティブアクセスによって、シバサキの腕は違う方向に向けられた。三人の周囲には、割れ目から吹き出し落ちてきた黒いものが幾つも蠢いていた。その中で一際大きい赤い目玉は、アメーバから変態した異形の姿のものが静観している。
「私が止める。絶対、楓を止めてみせる。だから……」
シバサキの持つ銃を握った。
「桜子、おまえ」
「いちゃいけないの……。こんな、普通じゃない力を持っている人間なんて」
桜子は微笑む。
「今度、生まれ変われるなら、普通の女の子に……」
彼女の腹部から血が吹き出した。黒いものが足にまとわりついている。桜子は楓に向き直り、唇を噛みしめる。
桜子は飛び上がった。その手には炎が灯っている。女の体は火達磨のようになった。彼女は獣に体当たりし、掴んだ両腕を離さない。悲鳴を上げながら獣はもがいた。その彼女の耳元で桜子は囁く。
「もう……、怖くない、から」
桜子は耳元で囁くと、楓の力が脱力した。
「あなたの力、この邪悪な力を封じ込める。この光玉に……」
燃え上がる二人は、黒い異形たちを巻き込んでいく。それらは辺りに奇怪な悪臭を放ちながら消滅した。
「楓、また、……いつか、逢おうね……」
銃口を二人に向けたまま、戦慄くシバサキの指が震えている。
「桜子!」
男は絶叫しながら引き金を引いた。
弾丸は桜子の体を貫く。女の体から光が放出され、二人を包むように収束した。その目映い光に黒いものは、消し飛ぶ。
足元が揺らぎ、地表が割れて爆風が起きる。地震が起き、研究所を巻き込んで一帯が吹き飛んだ。何もかもが無くなった。楓も桜子もシバサキ、諸星も異形のものも、何もいなくなった……。
辺りが白い霧に覆われていく。
楓は目が見開いたままて、口が震えている。犯した罪の深さに戦慄していた。
邪悪な『残臭』は自分だった。何もかも、自分が犯したものだったのだ。何故、私は狂ってしまったのか。しかし、この結末にはどうでもいいことだ……。




