その2
「あなたとお会いするためでした」
その言葉に目を見開いて、意識を取り戻す。いつの間にか赤褐色に染まった汚染川のほとりに立っていた。辺りを見渡すと川の向い岸に人の存在を認識する。
「そんな……」
楓にとって、あり得ない光景だった。精神世界の中で、他の誰かと同時に存在している状態など経験したことがない。そもそも、同じ能力を持つ者の存在を知らなかった。
「不思議ですか?」
今度はその声があまりにも近くに聞こえる。振り返ると、川岸にいた男が背後にいた。
「ひ!」
仰け反って尻餅をつき、楓は後ず去りする。
「驚かせて、大変申し訳ありません。私もこういう形で同じ能力者の方と、お会いするのは初めてなので」
男は白い手袋をしている右手を胸に置き、深く頭を垂れた。その後、手を差し伸べる。楓は恐怖と訝しげな視線を投げた。目前の手を避けて立ち上がると、更に後方へ下がる。
慄くその姿に満面の笑みを浮かべ、そして長身の男は頷いた。金色の髪を手櫛でといて、ため息を付く。女の鼻が曲がるほどの香水を漂わせ、赤いダブルスーツを着こなし、白いエナメルの靴を履いていた。
「見てご覧なさい、この野蛮な世界。工場の排水を川に垂れ流すなんて、人間のやることじゃありません」
苦味を噛んだ表情で、男は胸ポケットから白色のハンカチを左の細い指で摘んで取り出し、鼻に翳して軽く吸い込む。
「低次元の悪趣味もいいとこね。あの物置小屋なんて猥褻で卑猥さが最悪」
男は右手の人差し指を軽く曲げ、小屋に向けて親指で弾いた。その指から飛び出した小黄色の球体は、進むにつれ大きな音を立てて回転し、やがて醜態づいた物置小屋に当たる。留まった球体は竜巻状に小屋を舞い上げた。それを崩壊させながら跡形もなく粉々にし、ある一点に集約化して空間の彼方に消し飛ばす。その跡地から黒い物体が、奇怪な金切り声を発しながら蒸発していった。
「存在が知れました」
男は相変わらず、ハンカチを鼻にあてている。次第に切れ長の目は薄くなり、陶酔していた。
「あなたは、誰?」
その問い掛けに、ハンカチを男は胸のポケットに丁寧に納める。
「これは申し遅れました。私は『ネフロ』と言います。あなたと同じ能力を持っています」
「……嗅ぐ能力」
楓は呟いた。
「安心してください。能力を持っているのは、あなただけではありません。この世界には様々な別の能力者がいます」
ネフロは一歩、楓に歩み寄る。
「嗅覚による超異次元感覚を察知し操る者。人の持つ個体臭を嗅ぎわけ、『臭気』を辿ることで、人の精神世界へアクセスを可能とする」
楓は能力を語る男を睨んだ。
「おやめなさい。精神世界にいる者の、さらにその奥にアクセスすることは自殺行為です。あなたの精神が迷子になり、直に崩壊してしまう」
ネフロは楓の行動を読みとり、釘を刺す。
「それよりも、危機が迫っています」
「危機?」
静かに男は頷いた。
「先程あなたを襲った食指は、ここの『臭気』ではありません。この男は囮です」
その真剣な眼差しに女は動きが止まる。
「あなたの能力を確認するための餌。この男にアクセスしたことによって、あなたと言う存在が認知されてしまいました。いずれ、いえ、きっとあなたに不幸が降りかかります」
ネフロの声が戦慄めいた。
「ここでは、これ以上のことは申し上げられません。この空間は脅威なる男に支配されています。どうぞこの場所まで来て下さい。詳細をお話します」
ネフロの頭の上に、地下鉄からあるマンションまでの道のりと名称が映し出される。終わると男は踵を返し、歩き出してすぐに立ち止まった。
「『吹雪 楓』さんですね、あなた」
名前を呼ばれて彼女は戸惑う。男はその緊張した面持ちで、身構えている姿に息を吐いた。
「それでは、ごきげんよう」
ネフロはその言葉を最後に忽然と消えた。残された楓はその意味が理解出来ず、立ち尽くしている。
『脅威、敵……』
けたたましい発車ベルの音で彼女は我に返った。流涎する男を一瞥して、慌てて電車から飛び出る。そのままホームでよろけて座り込んだ。動き出す電車の方を振り向くと、先ほど楓がいた座席周辺の乗客たちが騒いでいるのが見て取れた。
「あの男はもう」
地下鉄を後にした吹雪楓は、急ぎ足で自宅のマンションのエレベータに駆け込む。何度も上行ボタンを押し続けた。今まで出会ったことのない能力者の存在に狼狽え、 鍵穴に差し込む手が震え続けている。騒々しく室中に入り、上着とバッグをベッドに放り投げた。気持ちを落ち着かせるために冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に乾ききった喉を潤る。
精神の根源となる『臭気』を破壊された者は「廃人」になるしかない。
そしてそのことを、嗅ぐ能力の者たち以外、本人も誰にもわからない。
「こんな能力なんて……」