その8
「さあ、僕の物になりなさい」
諸星が着けたネックレスには黒く鈍い光を放つもの入っており、楓の首元で歓喜しているように踊っていた。やがてそれは生き物のように楓の首を絞めて、しっかりと喉に食い込んで行く。
「やめ、ろ。諸星」
まだ床に伏せて動けないでいるシバサキが、地面に顔を擦りながら言った。
「懲りない人ですね。全く、あなたのような人と大事な楓を一緒にして置くわけにはいきません」
シバサキは先ほど痙攣を起こして、気を失った茜がいなくなっていることに気がつく。
「ど、どこに……」
「さてと、これで僕の今晩の仕事は終了しました。あなたとのお遊びもこれまでです」
諸星は楓を抱き支え、左手を挙げた。シバサキの体が後方へじわりじわりと下がって行く。
「しばらくの間、あなたには消えてもらいます」
男の目に怪しい光が灯ろうとした瞬間、シバサキは背後に潜む者を認知した。男は諸星の左腕を固着して体の自由を奪う。
「この期に及んで念動力ですか。シバサキ、あなたの能力より僕の方が勝っていると、まだわからないのですか」
伏している男の口元が、少しだけ緩んだ。その直後に背後から諸星は殴打される。不意を突かれて緩んだ手から楓は離れ、フロアーに転がり落ちた。
「女の子に負けるなんて、諸星さんらしくないわ。私とその人のために、随分と力を使ったのね」
もうひとつ殴打される。ふらついた男はシバサキの放った念動力にて車まで飛んだ。
「……あ、茜。き、君なのか」
「そんなに驚かなくてもいいじゃないの。私、廃人にならず、ちゃんと生きて戻ってきたわよ」
茜は楓を抱き起こした。彼女の意識はまだ戻っていない。
「茜、お願いです。楓を確保して下さい」
楓の首に食い込むネックレスを彼女は確認する。黒く鈍く光っていた。中で何かが逃げ惑うように蠢いている。
「これか」
茜はネックレスに手を掛け、引き延ばした。
「やめなさい、茜」
「もう、あなたの言うことは聞かない。これから、ずっと」
諸星は苦みを潰し念動力を発動するが、コントロール出来ない。
「シバサキ!」
「あいにく、俺もずっと昔のままじゃないのでな。おまえの能力も多少は封じ込めることが出来るさ」
シバサキは、渾身の力を振り絞った。電撃が走ったかのように諸星は四肢を痙攣させ、大の字になって車に貼付けられる。男の呼吸が瞬間止まり、動きを失った。
同時に茜は楓のネックレスを力任せに引き千切る。逃げ惑う黒い物を睨んだ後、床に落とした。
「あ、茜、裏切るとは……、聞いてませんでしたよ」
微かに聞こえる諸星の声を無視して、茜は踵でそれを何度も踏み潰す。奇怪な金切り声が響いた。
「戻って、戻ってきて! お願い!!」
両肩を掴んで抱き起こし、彼女は力の限り叫ぶ。
「助けてくれた、あなたが私を助けてくれた。ねえ、楓さん!」
精気の抜けた亡骸の様な楓を抱きしめた。
「君がどう叫ぼうとも、楓は戻って来ません」
「どうして!」
自由にならない体の諸星はまだ車体に貼り付いたままだが、それすら余裕の表情で呟く。
「全く君たちは、彼女に余分な仕事をさせすぎます」
男に対して残っている力を絞り出しているシバサキは、微動だに出来なかった。
「馬鹿なネフロと茜を助けることで、末発達でも相当の力を使い果たしています。どれくらい精神力を放出したのか。もう自己精神へ戻る気力など残っているはずありません」
窮地のはずだが、男は苦笑する。
「死にますよ。普通はね」
「本当に、そう思っていますか」
崩壊した車の陰から白いハンカチを鼻に充てて、金髪の男が現れる。
「君もですか」
「あなたの穢らわしい『臭気』が、珍しくとても弱まってますね」
辺りを見回し、スーツの埃を払いながらネフロは近づいた。
「けれども、まだとても執念深く『臭い』」
諸星は大笑いする。
「君如きですが、褒め言葉と受け取っておきましょう」
「でも楓さんの『匂い』は、それよりも遥かに強大です」
抱き締めていた茜の髪に、弱々しい細く白い指が微かに触れた。
「楓さん!」
茜は目元を緩ませる。
「……よかった。戻ってきた」
目を閉じて諸星は頷いた後、やがて納得したように再び苦笑した。
「僕としたことが誤算でした。少々、性急過ぎたようです」
男の黒い右上腕が大きく跳ね上がって、車体を叩く。
「茜が戻ってきた時点で、気付くべきでした」
膨れ上がった右腕が車体を押し潰しながら、男の上体をゆっくりと起こした。
「予知、してましたか」
少しだけ首を横に振る茜は、その男を睨みつける。
「いいでしょう。総じて言えば、予測以上の良好な結果です。ますます必要です、あなたが」
楓は諸星を凝視した。
「そろそろ、放してくれませんか」
諸星は黒くなった右手を振り、シバサキの念動力を弾き飛ばした。彼はコンクリートの壁に貼り付けられ、力なく膝を付く。
楓と茜、ネフロは咄嗟に身構えた。
「時間切れです。僕も今、君たちを相手にするほどの力は残念ながらありません。ですから、ここは退散します。次の計画と進みましょう」
車体からずり降りながらそう言うと、諸星は背中を向ける。
「私はあなたを許さない……」
楓は唇を噛みながら呟いた。
「その言葉はネフロより、最も光栄なことです。ずっと僕だけを怨んでいて下さい。これから気に入ってもらえる様に努力したいと思います」
駐車場の中に口元を歪めた不吉な笑い声が響いている。 支えられて立ち上がった足元には、主を失った黒紫色の異様な物体が震えていた。楓はそれをしかと踏み潰す。
それは『普通』からの脱却を、暗示するものだった。
第3話につづく




