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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第1話 存在意義
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その1


『……臭う』


 その女は、揺れる地下鉄の車体に身を任せて目を閉じていた。


『臭う……』


 薄く空いた瞼の間から向かい合う座席に、高級で清楚なスーツ服を着た男が見える。女は座席に体を貼り付けたまま身動きせず、目を閉じて再び静かに息を殺した。

 『吹雪 楓』はその瞼の裏から、男を苦々しく凝視する。彼女は一般の男から自分自身の容姿がどのように見られているかは、これまでの経験でわかっていた。しかし一。


『……臭いが、強すぎる』


 再び楓は薄く目を開く。わずかばかりの光の空間から描写されるその男は、先ほどから悟られないように素知らぬ顔をしていた。だが猥褻な視線は、電車に乗ったときから垂れ流している。女はこの男から執拗で異常な『臭気』が放たれていることを知っていた。


『臭気』一。


人間の無意識下にある理性と欲望の塊から発する、自然で奇怪なもの。それは決して拭い取ることの出来ない奥深い根の生えた、精気の『臭い』。楓はそれらを感じることが出来る、異常に発達した超感覚を持ち合わせていた。


 楓はいつも思う。何故自分だけがこのような特異な感覚を持っているのか。何故この吐きそうになるほどの『臭気』に、ずっと耐え忍ばなければならないのか。不可解にも始まりの記憶もなかった。


 臭い物に蓋をするように、普段は自分の感覚器を意識的に遮断している。だが蓋の隙間からじわじわと侵食してくるこの『臭気』の触手は、これまで経験したことない強力なものを感じさせた。楓は一息入れて口元を締め直す。


「やるしか、ない」


 眉間に皺を寄せ目を強く閉じて、能力を開放させた。放出する男の『臭気』に向って意識を集中させる。押し寄せるそれに覆われて吸収されていった。体から重力が抜け、まるで空中を浮遊するかのように、ある中心へ向かっていく。瞬間、生臭く薄黒く淀んでいる場所を通り抜けた。映らないはずの瞼の裏側に、やがて特異な空間が開けてくる。


 そこは川の両岸に工場が建ち並ぶ工業地帯だった。ある工場の一角に楓の体は降り立つ。川岸から資材を運び入れていた巨大なクレーンは一面錆つき、浮いた表面が剥離していた。動かなくなった機械類が静かに並ぶ、廃業した工場。手洗い用の蛇口が、夕焼け空に鈍く反射している。その蛇口から赤い滴が、一滴ずつ落ちていた。排水パイプには、他の工場からの腐敗水が混ざり込み、黒い汚水となって川に落としている。汚水は留まり、粘性を帯びた水面と同化していた。そこに川底からのガスが弾けないまま盛り上がり、不気味な半円形を造っていた。覗き込む女の陰が、落ちて行く夕日とともに爛れた水面を長く伸ばしていく。

 落ちてかけていく夕日が、どこかで見た古い漫画のようだ。


「……違う」


 楓はそれらの造形に首を傾げる。電車の中で感じた邪気に近い『臭気』とは比較にならない程、『普通』だったからだ。


「だが、これでいい」


 女は風景を見渡し、ひとりごちした。


 人間は誰しも表があれば裏がある。それがあっての人の姿なのだ。何もわからなければ、いい時だってある。人間の本性なぞ、知らない方がお互い幸せだ。感じさえしなければ、何事もなかったかのように毎日を過ごすことが、普通の生活することが出来る。


 だが、この恨めしい能力の前では、どんな人間でも真実を隠すことが出来ない。精神世界のアクセスは、隠匿されている真実までも赤裸々に見通せてしまうのだ。


 踵を返す女は一旦背を向ける。だが、『臭気』は目的意識を持って、強烈に発信していた。意を決して意識を集中し『臭い』の根源を探る。視線が空中にふわりと浮かび上がった。


「奥に何かがいる」 


 浮かび上がった視線の先に、工場の裏にある小さな物置小屋が目に入った。そこまで体は飛行し、再び地面に降り立つ。楓はその小屋に向かって、歩を進めた。近づくにつれ、その発する『臭気』で息苦しくなり、その場で咽せる。辿り着いた小屋の扉には鍵が掛かっていなかった。すぐにでも開けよと、楓の意識を誘っている。


 取れかかったノブに手をかけ、扉を開けた刹那だった。雑誌のページをめくるように、1ページ毎に男の抽象的な世界が幾つも連なって、視界に飛び込んで来る。


 醜さもある、甘美さもある、誇りもある、痴態もある世界。これまで幾度となく自分に浴びせられた見飽きた風景だった。ただ今回が違うのは、只ならぬ『臭気』がこの先にあること。


 様々な世界が楓の体を通り抜けていった。次第に臭気が強まり、呼吸が荒くなる。そして最後のページ、果てしない漆黒の闇の中から、ぬめりとした感覚の食指が飛び出した。女の体に巻き付く。手足を振って抵抗しても、それは簡単には剥がれなかった。巻き付いた食指は、女の体を弄ぶかのように這いずり回る。それは大腿や腰を締め、隆起している胸を撫でて、頭部に何重にも蜷局を巻いた。息が止まる楓は両手で触手を掻きむしる。食指はそのまま、闇に引きずり込んでいった。


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